9話 継ぐものの心音
連投になります
血の匂いは、森の空気を一瞬で変える。
さっきまで風と土と葉の匂いだけだった場所に、鉄のような重さが混ざり込み、静かな層を一枚上書きする。
はぐれ狼の体は、もう動かない。
喉を裂いたときの感触が、まだ指先に残っている。柔らかく、熱く、そして急速に冷えていくあの感覚。命が抜ける瞬間はいつも一瞬だ。
視線の先には、ヒューマンの少女が座っている。陽を含んだようなホワイトブロンドの髪が乱れ、細い肩にかかっている。森の湿った空気の中では、その淡い色はひどく頼りなく見えた。
その大きな真紅の瞳は未だ恐怖に揺れているのに、逸らさない。
折れそうなほど細い体で、それでも必死にここまで歩いてきたのか。
弱い──はずなのに。
その目だけが、妙にまっすぐだった。
逃げていない。腰を抜かして泣き崩れるでもなく、ただ震えながら、しっかりとこちらを見ている。その姿は、教えられてきた“ヒューマン”の像とは少し違っていた。
──弱く、森では生きられず、怯えて逃げる存在。
そう教わってきた。
けれど、この子は逃げずにまだここにいる。
「……怪我、してない?」
声が出たのは、ほとんど無意識だった。
少女は、何度も頷く。喉がうまく動かないのか、言葉にはならない。それでも目は逸らさなかった。
怪我していないのならよかった、と胸の奥で小さく思い、視線を狼に下ろす。
「群れからはぐれたやつ。お腹すいてたんだと思う」
森で空腹は罪ではない。弱れば、削られれば、こうなる。それだけのこと。
少女の視線が、狼の亡骸へ落ちる。
“死”というものを、今ようやく理解したような顔だった。
ここに置けば、血の匂いに別の獣が寄ってくる。それは森の流れだ。けれど、この少女はその流れの中では生きられない。早く片さなくてはいけない。
だがその前に、
「なんでこんな奥にいるの?」
これは聞いておかなければならなかった。
森や我らに害をもたらすためにここに来ている訳では無いのは分かっているが、確認は必要だ。
それに、危険だとわかっているはずなのにわざわざここまで来た理由が気になったのだ。
「お母さんの、薬草を取りに…」
正直、驚いた。この少女は母のためだけに危険なこの場所に来たのかと。
それに、母と聞くと少し胸の奥が刺激される…。
「そう」
それ以外なんと声をかけたらいいか分からなかった。とにかく、来た理由はわかった。あとはこれを片すだけだ。
腰の短剣に手を伸ばそうとして、止める。
──いきなり短剣を抜くと不安がらせてしまうだろうか。
そう思い、放っておくと匂いでほかのが来ると伝えた。
片している間も、少女の視線は離れなかった。怖がりながらも、逃げずに見ている。血の匂いに顔をしかめ、それでも目を逸らさない。
この少女は怖がりではあるようだが、弱いだけの存在ではないのかもしれない、とほんの一瞬思う。
「ねぇ、あなた怪我してる」
指摘されて肩を見ると、布が裂けて血が滲んでいた。さっきやられたのか。
「浅い」
本当に浅い。むしろ少女に言われるまで気づかなかった。
そんなことを考えていると、少女は「止めないと」といい、籠の布を取り出してこちらに近づいてくる。
そっと布を当てられたとき、ミアは無意識に体をわずかに強張らせた。
ヒューマンの手だと分かっていたのに、いや、分かっていたからこそ触れられた瞬間だけどうしても反応してしまう。
温度は変わらない。冷たくも熱くもない。ただ匂いだけが違った。煙と乾いた風と、人の気配が混ざった、村の匂い。それでも、不思議と嫌悪感はなかった。ただ少しだけ、胸の奥がざわついただけだった。
ようやく死体を片し終わり、少女に何を探していたのか聞いてみた。この少女は母の熱を下げるために銀色の葉脈を探していたのだという。
あれは確かによく効く。でもここには生えてない。もう少し奥の方だ。
「それ、知ってる。朝、水が溜まる低い場所。でも、もっと奥」
視線を森の深みへ向ける。そこはここよりさらに緑が深く、幼いヒューマンが踏み入れられる場所ではない。
──母のため、か。
そこまで案内することを提案して、その場所に一緒に歩いた。わざわざ怪我をさせるつもりもないので、飛び出た枝などはできるだけ手で押えてあげた。
その場所につき、周囲を警戒していると少女が焦ったのか草を踏みそうになっていたので「焦ると、踏む」とだけ言って教えてあげた。
せっかくここまで来たのに、踏んで銀の葉脈を散らしてしまったとなればあまりに可哀想だ。
やがて、少女は目的のものを見つけられたようでこちらも安心した。
ただ、摘み取る手つきがあまりに丁寧で驚いた。
「それで、治る?」
効能は知っているが、ヒューマンと獣人では違うかもしれないので一応きいてみる。
「うん。煎じれば熱が下がるって……教えてもらった」
ヒューマンにも効果があることにもだが、境界の向こうにも教える者がいることにも驚いた。
でもまぁ、何はともあれ、
「よかった」
と思う。同時に、助かるといいなとも。
この少女の名はレナと言うらしい。
助けたお礼を言われたので助けた理由を伝えると、少女───レナは小さく笑い問いかけた。
「じゃあ、これで終わり?」
終わり、という言葉が胸に小さく引っかかる。
「……わからない」
いや、もう会えないだろう。
掟は守らないといけない。…ではなんで分からないと答えたのだろうか。終わりたく無かったから…なのだろうか。
「そろそろ帰らなきゃ」
「送る」
まだ、時間はある。
1人で帰らせて、途中でまた狼に襲われたとなれば後味も悪い。だから仕方ないのだ。
もう少し一緒にいるくらいは大丈夫だろう。
仕方なく、仕方なく送ろうと思う。あくまで、仕方なくだ。
森の匂いが薄れ、乾いた風が混じりはじめる場所で、ミアは足を止めた。見えない境界線の手前。これ以上は踏み出さないと決められている場所。
「……村、来ないの?」
振り返ったレナの声には、わずかな期待が滲んでいた。
ミアは短く答える。
「いかない。ヒューマンは嫌がる」
それ以上の言葉は足さない。足せば気持ちが揺らぐと思ったからだ。
越えれば何が起きるか分かっている。父の立場も、群れの均衡も、森との約束も。だから越える訳にはいかないのだ。
ミアは無意識に「いかない。掟がある」ではなくヒューマンが嫌がると言葉にしたことにも、その意味にも気づけなかった。
レナは小さく息を吸い、
「……また」
と言いかけて、言葉を止めた。
「朝なら、森は静か」
それだけを返す。
約束ではない。誘いでもない。ただの事実。
この返事なら問題は無い。きっと。
けれどレナは、今度こそはっきりと笑った。
「……ありがとう」
風が吹き、境界の匂いが揺れる。
レナが線の向こうへ駆けていく。小さな背中が遠ざかり、やがて見えなくなるまで、その場を動かなかった。
──レナ、か。
今日の自分は、なんだか自分らしくあれた気がする。妙にレナという少女には安心感を覚えたからだろうか。
ミアはわずかに重い足取りで森へ帰る。
ヒューマンの少女、レナとの出会いに胸を弾ませながら。




