8話 森の朝
(時はレナが境界線を超えた日の朝に遡る)
この時間は、夜の湿り気がまだ地面に残っている。森は目覚めきる前で、音がほとんどない。鳥は鳴かず、風も枝を揺らさない。ただ、外から漂ってくる土と葉の匂いだけが、ゆっくりと空気に混じっている。
ミアは寝床の中で目を開けた。まだ布の温もりに包まれたまま、動かずに耳を澄ます。外は静かだ。森の温度と湿度は、その日の機嫌を教えてくれる。
湿り気が強い朝は、匂いが遠くまで届く。
乾いた朝は、音がよく響く。
今日は空気が湿っている。匂いがよく流れる朝だとわかった。
身体を起こし、簡素な寝台を降りる。族の集落はまだ静かだったが、中央の大樹の根元にはすでに一つの影が立っているのが見えた。
族長の定位置。
灰色の毛並みに白が混じる大きな背。肩幅は広く、立っているだけで周囲の空気が締まる。群れの誰よりも早く起き、森の匂いを最初に嗅ぐ者──それがこの群れの長であり、ミアの父だった。
ミアは近づき、無言で隣に立つ。
「遅い」
父は視線を森に向けたまま続ける。
「夜明け前の森を読めぬ者に、群れは預けられん」
叱責というより、規律の確認だった。
「ごめんなさい」
ミアの謝罪に、父はわずかに鼻を鳴らす。
「森はもう起きている。我らが遅れれば、それだけ隙が生まれる」
それが族長の考え方だった。森より先に目を覚まし、森より先に動く。守るとは、先に察することだと父は常に言う。
「行くぞ」
一言だけ告げて歩き出す。命令であり、合図でもある。
ミアは父の後ろを着いていく。朝の巡回は族長と、その後継に選ばれた者だけが許される役目だった。
森に異常が無いか確認しながら湿った土を踏み、獣道を進む。匂いが濃い日は昨夜の動きがよく残っている。
根元に残る掘り跡を見て、ミアは鼻を鳴らす。
「猪。夜のうちに通った」
「単独だ。焦っている様子も見られない。問題ない。…動物の跡は数、匂いで読め。絶対に感情で判断するな。森は情で動かん」
それが父の厳しさだった。
森の中で優先すべきものの順番を決して違えない。
しばらく進んだところで父が足を止め、周囲を見た。
「ミア、わかるか?」
「…狼が北に寄っている?」
「そうだ。群れから外れた個体のようだ。腹を空かせている」
はぐれ狼。群れから外れた個体。
縄張りも、役割も、守るものも持たない存在。
群れに属する狼は無闇に境界を越えない。仲間を守るために動き、無駄な争いを避ける。だが、はぐれは違う。空腹と焦りに突き動かされ、追い詰められれば一直線に踏み込んでくる。境界も掟も知らない。
「はぐれは厄介だ。飢えは理性を削る。追い詰められた獣は、群れの端から崩しに来る」
「見つけたら、どうする」
「森の秩序を乱す存在は消さねばならん。殺せ」
父はミアを見る。その金色の瞳は揺れない。
「見つけたら迷うな。他の生き物に牙を向ける前に止めろ。それが族長の娘の役目だ」
父としてではない。長としての言葉。
巡回を続けるうちに、土の匂いがわずかに薄くなる。木々の並びが変わり、風の流れが変わる。
境界だ。
目に見える線はない。だが、森に生きる者にはわかる。
父がしゃがみ込み、足跡をなぞる。
「ヒューマンだ」
感情のない声。
「最近、縁を歩いている。警戒しながら何かを探しているようだ」
ミアは足跡を見る。その小さい足跡は境界の手前で止まっている。
「越えてはいない」
父は頷く。
「あぁ。掟を守る者には牙を向けん。だが──」
その声が低くなる。
「はぐれは境界を知らない。今日、仕留めろ」
命令だった。
ミアは静かに頷き、森の奥へ走り出す。
木の上を飛び、隙間を抜ける。
匂いはすぐに見つかった。荒れた臭気。空腹と焦燥が混じった、削れた匂い。一直線に進む足跡。理性より本能が勝っている動き。
そして、その奥に別の匂い。
「…ヒューマン」
その匂いは小さく、軽い。しかも境界の内側からだ。
「境界線を越えたのか」
ミアの心臓が強く打つ。受けた命令は、はぐれ狼を仕留める。ただそれだけ。ヒューマンを殺せとは言われていない。
だが、はぐれ狼とヒューマンの距離が近すぎる。
はぐれ狼の低い唸り声が森を震わせ、次の瞬間、小さな悲鳴とドサッと何かが倒れるような乾いた音が混じる。軽い。獣の重さではない。
木々を抜けた時に視界に映ったのは、毛を逆立てたはぐれ狼と、その正面で籠を抱えて座り込むヒューマンの少女だった。
その瞬間、狼が跳ぶ。
考えるより先に体が動く。枝を蹴り、落下の勢いを乗せて側面へ蹴り込む。衝撃で狼が弾かれる。
「離れて!」
少女が息を呑む。
狼はすぐ体勢を立て直し、今度はミアへ向かう。空腹で荒れているぶん、動きは直線的だ。速いが読める。
半歩ずらす。牙が肩を掠め、布が裂けた。
すれ違いざまに横腹が晒される。その隙を見逃すはずもなく、踏み込んで爪を振り抜いた。
しかし、それでも狼は止まらない。ならば距離を詰めるしかない。懐に入り、左手で顎を撃ち抜いた。そして、喉元が見えた瞬間、右手の爪で深く切り裂く。
切り裂いた喉から空気が漏れるような音を立てながら狼は息絶えた。
──これでいい。命令は守った。
荒い呼吸の音が耳に残る。それが自分のものだと気づくまで、少し時間がかかった。
ミアは爪を戻し、背後の気配に意識を向ける。
ヒューマンの少女はこの状況に理解が追いついていないのか、まだ座っていた。
境界の内側で。
父から幼い頃から言われてきた言葉がよぎる。
──境界は守れ。
だが今、この森の中で守ったのは掟だけではないと、ミアははっきり感じていた。
森の静寂の中、ふたりの呼吸だけがかすかに重なっていた。




