6話 約束じゃないけど
森の奥地から村の方に進み続けていると、ようやく浅瀬が見えてレナは肩の力が抜けた。
木々の密度が薄れ、遠くに見慣れた森の風景が伸びている。夕方の光が斜めに差し込み、森の影を長く引き伸ばしていた。
ここから先は、完全にヒューマンの領域。
レナは歩みを緩める。
隣のミアも足を止めた。
森の匂いをまとったまま、境界の手前に立つ。
「送れるのはここまで」
声はいつも通り落ち着いているけれど、耳がわずかに後ろへ向いている。横顔を見ると、なんだか少し寂しそうな顔をしているような気がした。その顔を見て、何かが胸に引っかかった。
「……村、来ないの?」
思わず出た言葉だった。別に言おうと思って言ったわけじゃない。本当に、ぽつりと気がついたら言っていた。
ミアはその問いかけに首を横に振る。
「行かない…ヒューマンは、嫌がる」
そんなことない。
レナはそう否定しかけて、言葉が止まった。村の大人たちの顔が浮んだからだ。森の向こうの存在を語るときの、あの硬い表情。
──嫌がる。
いや、きっとそれだけで片付かないと思う。
沈黙が落ちる。
村に近い側の“浅瀬”と、そして獣人族の住処側の“奥地”とでは、木々の密度や雰囲気が違う。
境界線は、目に見えないのに、確かにそこにあった。
ミアは背負っていた狼の肉を少し持ち直す。
「早く帰ったほうがいい。暗くなる」
その言葉は、もう森と生きる者の言葉だった。
レナはうなずく。でも足が動かない。
「また……」
言いかけて、止まる。
また会える、とは簡単に言えない。約束は重い。それに自分が村の者であり、ミアが森の者である限りそう簡単に会うわけにもいかない。
ミアはしばらくレナを見ていたが、やがて小さく言った。
「朝なら、森は静か」
それは誘いでも約束でもない、ただの事実。けれど、十分だった。
レナはゆっくりとうなずく。
そして一歩、二歩と前へ歩み始め、振り返る。
「…ありがとう」
そしてレナは村の方へ歩み始める。
ミアは何も言わず、ただその場に立っている。止めもしないし、背中を押しもしない。ただ、私がどうするのかを見るように。
胸の奥で、二つの世界がぶつかっている。
一つは、森の里の世界。
掟は絶対で、外の者はまず疑う。境界は守るもので、破られたなら排除するのが正しい。
もう一つは、私が生まれ育った村の世界。
困っている人がいれば手を差し伸べるのが当たり前で、理由よりも命の方が重い。
どちらも間違いじゃない。でも、同時には選べない。
境界を守るか。目の前の一人を守るか。
その重さの違いを、私はようやく理解していた。
浅瀬を抜けると村が見えてくる。
名残惜しい気持ちを抱えつつ、走って家へと向かう。
家の扉を開けると、薄暗い室内に母の寝息が聞こえた。高熱にうなされ、とても苦しそうにしている。
「急がなきゃ」
囲炉裏の前に立ったレナは、震える手で薪を組み直して火打石を打つ。乾いた音のあと、小さな火花が散り、やがて細い煙が立ちのぼっていった。息を吹きかけると、赤い火種がゆっくりと広がっていく。
鍋に井戸水を汲み入れ、火にかける。そのあいだに、森で摘んできた薬草を布の上に広げた。細くしなやかな茎。深い緑色の葉。その中心を走る銀色の葉脈が、囲炉裏の灯りを受けてかすかに光っている。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
桶に水を張り、土や細かな砂を流しながら葉を傷つけないよう慎重に一枚ずつ丁寧に洗っていく。薬草屋の店主バイルが“そこに薬効が集まるから”と言っていたことを思い出し、葉脈は折らないように気をつけた。
鍋の水がブクブクと小さく鳴りはじめる。
レナは洗い終えた薬草を細かく刻み、湯の中へ落とした。薬草の匂いと、ほのかに土の匂いが混ざったような青い匂いがふわりと立ちのぼる。
煎じるあいだ、パチパチと火のはぜる音だけが部屋に響く。その静けさの中で、さっきまでの森の光景がよみがえった。
狼に襲われたときの風景、怪我がないと知った時のミアの表情。
そして「よかった」という声。
境界の手前で止まった足。
鍋から立ちのぼる湯気が、ゆらゆらと天井へ上がっていく。白い煙の向こうに、母の寝顔が見えた。浅い呼吸、汗ばんだ額、苦しそうに閉じられたまぶた。
「大丈夫」
この薬草が効けばいい。
母が目を覚ましてくれればいい。
今はそれだけでいい。
願いながら、木杓子でゆっくりと鍋をかき混ぜる。森の匂いが、部屋いっぱいに広がっていく。
そして──
森の朝は、静かだということを、忘れないでいようと思った。




