57話 黒髪の恩人
地下隠れ家の重厚な鉄扉を押し開けると、冷たく湿った地下特有の空気が一気にレナの顔を撫でた。地上から差し込む眩しい光を背に受けながら、彼女は勢いよく声を張り上げる。
「ただいまぁー!」
その元気な声は、暗く静まり返っていた地下倉庫の空間に反響し、幾重にも重なって奥へと吸い込まれていった。
両腕で抱え込んでいるのは、焼きたての香ばしい匂いを漂わせる大きな紙袋。足りなくなった串焼きを買い足すため全速力で店まで引き返し、そのままの勢いで戻ってきたため、レナの額には薄っすらと健康的な汗が滲み、胸元はハァハァと激しく上下している。肩で息を切りながらも、石段を軽快に駆け下りていくその表情には、無事に温かい食事を持ち帰ることができたという達成感が誇らしげに輝いていた。
「……遅い」
その達成感を真っ向から打ち砕いたのは、静寂の底から響くような短く冷たい声だった。
壁際に腰掛け、入念に短剣の刃を布で磨いていたミアだった。彼女はレナの姿を認識した瞬間、使っていた研ぎ石を脇へ置き、短剣をすっと鞘に収めると、迷いのない足取りで立ち上がった。水色の透明な瞳が、幾分か険しさを帯びてレナを射抜く。
「食べ物を買ったら、どこにも寄らずにすぐ戻ってくるって言った」
「うっ」
「約束した」
「うぅっ……」
「絶対大丈夫って言った」
「ご、ごめなさぁい……」
一切の揺らぎもない三段構えの追及に、レナの誇らしげだった胸はみるみる縮み、勢いは目に見えて萎んでいく。小さく肩をすくめ、抱えた紙袋の陰に隠れるようにして身を小さくした。
「まあまあ、ミアさん。ちゃんと、無事に帰ってきたんですから」
緊迫した空気を和らげるように、奥から歩み寄ってきたセレスタが柔らかい苦笑いを浮かべた。彼女は手際よくレナの手から重たい紙袋を引き取ると、その頭をなだめるように優しく撫でる。
「お帰りなさい、レナさん。何かありましたか? 想定していたよりもずっと時間がかかっていたので、実はみんなでとても心配していたんですよ」
「それがね!聞いてよ!」
助け船を得たレナは、待ってましたとばかりにパッと顔を上げた。先ほどまでの縮こまった態度はどこへやら、身を乗り出して手振りを交え始める。
「買い出しの帰り道で、変なおじさん二人に追いかけられたの!」
「は?」
その一言が出た瞬間、ミアの水色の瞳がすっと細まり、温度を失った。
「レナ?」
「待って待って!ちゃんと逃げたから!ちゃんと、無駄な戦いはしないで全力で逃げたんだよ!」
「それで?」
「入り組んだ路地を抜けようとしたら……行き止まりに入っちゃった!」
「…………」
「ミア!? なんでそこで急に無言になって目を逸らすの!?」
「……レナは、しばらく一人で外に出さない方がいいと思う」
「なんでぇ!? ちゃんと逃げようとした結果なんだから仕方ないでしょ!?」
「にひひっ! まあまあ、ミアも落ち着いて。レナの災難体質は今に始まったことじゃないんだから、最後まで話を聞いてあげようよ」
壁に寄りかかって高みの見物を決め込んでいたヴェルナが、堪えきれなくなったように口元を押さえて肩を揺らした。レナは「災難体質じゃないもん!」と不満げに頬を膨らませたが、テーブルの上へ買ってきたばかりの温かい黒パンと、買い足してきたアツアツの海鮮串焼きを並べ始めると、促されるままに手近な木箱へ腰を下ろした。
「それでね、水門の前の行き止まりになっちゃって……男二人とも短剣を抜こうとしてきたから、さすがに私も『これは戦うしかない!』って腹を括ったの」
「怪我は?」
レナの言葉を途中で遮り、ミアが低く鋭い声で尋ねる。
「ないよ! かすり傷一つない!」
「……ならいい」
ミアはレナの腕や首筋、服の破れがないかを視線でくまなく確認すると、胸の奥で止めていた息を小さく吐き出し、ようやくわずかに肩の力を抜いた。実は、ミアのいつも淡々としている話し方とは裏腹にかなりの心配性だ。気が抜けているレナに対しては特にだが。
「それでね、セレスタさんに教えてもらったやり方で、光魔法を使って目を眩まそうとしたその時だよ! 突然、水門の上からフワッと風みたいに女の人が降りてきたの!」
「女の人が……ですか?」
買ってきた食事をテーブルへ並べていたセレスタが、手を止めて首を傾げた。
「うん! すっごく強かったの! なんかこう……シュシュッ! って腕を振ったら、追いかけてきたチンピラ二人がバタバタって崩れ落ちて倒れちゃったの!」
「それはすごいですね。でも、シュシュッ、では流石に何も分かりませんよ、レナさん……」
「だって本当に何が起きたのか見えなかったんだもん! 武器を使ったようにも見えなかったし、本当に一瞬だったんだよ!」
レナは必死に両拳を突き出し、空を切るような動作で再現しようとするが、何が起きたのかを一番理解していないのが本人であるため、当然ながら客観的な説明には程遠かった。
ミアは呆れたように短いため息を吐き、頭を振った。しかし、少し離れた場所で腕を組んでいたヴェルナだけは、その表情から笑みを消していた。
「……見えなかった?」
「うん、全然!」
「レナからどれくらい離れてたの? その時の位置関係は?」
「えっと……あのテーブルから、そこの壁くらいかな?」
レナが地下室の端を指差す。
距離にして、せいぜい三メートルから四メートル。それだけの至近距離にいながら、何をしたのかすら分からなかった。いつも指示を出している我らが司令塔と言っても過言では無いあのレナが、だ。
ヴェルナの瞳が僅かに細くなる。
「その距離で、相手が何をしたのか視線すら追えなかったんだね?」
「う、うん……。本当にね、風が吹いたと思ったら、次の瞬間には二人とも倒れて白目剥いてたの」
「ふぅん……」
ヴェルナはそれ以上何も言わず、あごに指を当てて視線を斜め下へと落とした。何かを考え込む彼女の横顔には、いつもの軽い笑みは影を潜めている。
「それでね! その人に助けてもらったから、お礼に買ってきた串焼きを奢って、一緒に噴水のところで食べたんだ!」
「……だから遅かったんだ」
ミアがジト目でレナを睨みつける。
「それは本当にごめんなさい! でも助けてもらったのにそのまま無視して帰るわけにはいかないでしょ!?」
「ふふっ、レナさんらしいですね。それで、その助けてくださった方はどのような雰囲気の方だったのですか?」
セレスタが優しく微笑みながら助け舟を出した。レナは腕を組み、うーんと唸りながら先ほどの鮮烈な出会いを頭の中で反芻する。
「えっとねぇ……私より少しお姉さんで、言葉で言い表せないくらい綺麗で格好良い人! 髪はツヤツヤの真っ黒で長くて、目も暗くて真っ黒……あとは、何て言ってたかな。ワフク? っていう、この街では見たこともない変わった服を着てたよ!」
その瞬間、ヴェルナの顔から僅かに余裕が消えた。
「……和服?」
「うん! 袖が広くて、帯をキュッと結んでるやつ!」
ミアは聞き慣れない言葉に小さく首を傾げたが、ヴェルナはレナから視線を逸らさない。
「黒髪で……和服を着ていたの?」
「そうそう! 立ち振る舞いもすごく流れるようっていうか、綺麗でさ!」
「……名前は? 何て名乗った?」
ヴェルナの問いかけは、いつになく真剣だった。声のトーンが一段低くなり、探るような視線がレナに注がれる。
「リオンさん!」
レナは何の疑いもなく、朗らかな声で答えた。
「リオンさんって言ってたよ。旅の人で、気まぐれにこのヴェゼルに立ち寄っただけなんだって」
ヴェルナは数秒間、微動だにせずレナの顔を見つめ続けた。彼女の頭脳の中で、これまで蓄積された膨大な情報と知識が目まぐるしい速度で照合されているのが見て取れた。
「リオン……裏の世界でも、表のギルド関係でも、そんな名の知れた有力者の名は聞いたことがないな……偽名か、あるいは完全に隠蔽された存在か……」
「……レナさん」
今度はセレスタが、いつになく硬い表情で声を落とした。その手は無意識のうちに、膝に置いてある魔導書へと伸びている。
「その『リオン』という方から……何らかの魔素や、魔力の気配は感じられましたか?」
「魔素?」
「はい。それほどの身のこなしと戦闘能力を持つ人物なのであれば、普通なら身体に保有している魔力や、周囲の魔素への干渉から、何らかの違和感を覚えてもおかしくありません」
「んー……」
レナは眉間にしわを寄せ、記憶を遡る。
古びた水門の上に、まるで羽毛のように軽やかに座っていたリオン。
目にも留まらぬ速さでチンピラ二人を沈めた瞬間。噴水のベンチで並んで座り、無邪気に串焼きを頬張っていた時の横顔。そして、人混みの中へと風のように消えていったあの圧倒的な足取り。
「……分かんない」
「分からない、とは?」
「うん。すごく強い人なんだなっていうオーラみたいなものはビンビン伝わってきたんだけど……魔法を使った感じは、全然しなかったと思う。体術とか、そういうのがすっごく得意な人なのかな……?」
「……そうですか」
セレスタとヴェルナが、静かに視線を交わした。その瞳の奥には、言葉には出さない警戒の色が浮かんでいる。二人の妙に重苦しい雰囲気を察し、レナは不思議そうに首を傾げた。
「なに? ふたりとも、なんか変だよ? そのリオンさんがどうかしたの?」
「いや」
ヴェルナは一瞬で表情を切り替え、いつもの捉えどころのない笑みを浮かべた。
「この港町ヴェゼルは貿易の要衝だからねぇ。世界中から色んな人間が集まってくる。単純に、ボクたちの知らない技術を使う旅人だったのかもしれない」
「でしょ!? すっごく格好良い人だったんだよ!」
「ただし」
ビシッ、とヴェルナの細い人差し指が、レナの額の真ん中を正確に突いた。
「いてっ!」
「どれほど命の恩人だからって、正体も分からない街の強者にホイホイついて行って、人前で無防備に一緒にご飯まで食べるのは感心しないねぇ。もしその相手が、昨日の連中と繋がっていたらどうするつもりだったのさ」
「うっ……それは……」
「……同意。レナは警戒心がなさすぎる」
いつの間にか背後に回っていたミアが、低い声で追い打ちをかける。
「だ、だって助けてくれたんだよ!? 本当に悪い人には見えなかったし……!」
「レナ」
ヴェルナが真顔になり、レナの目を覗き込んだ。
「はい」
「本当に恐ろしい悪人が、『私は悪い人です』って顔をして歩いていると思うかい?」
「…………思いません」
「よろしい。自分の身を守る最大の武器は、魔法でも剣でもなく、まず相手を無条件に信用しないことだよ」
「むぅ……」
正論で退路を塞がれ、レナは悔しそうに頬を膨らませた。そんなレナの反応を見て、セレスタがふっと緊張を解き、穏やかな微笑みを戻した。
「ですがヴェルナ、その方が介入してくださらなければ、レナさんが街中で光魔法を使って、余計な騒ぎを引き起こしていた可能性も高かったでしょう。そう考えれば、今回はその『リオン』という方に感謝すべきかもしれませんね」
「でしょー!? セレスタさんは分かってくれてる!」
「ただ、レナさん。次からは見知らぬ人に対して、もう少し警戒するようにしてくださいね?」
「……はーい」
結局、部屋にいる全員からこっぴどくお小言を頂戴する形となり、レナはしょんぼりと肩を落としながら、黒パンを千切って口へと運んだ。香ばしい黒パンを噛み締めながら、レナの頭の中にリオンの最後の言葉が蘇る。
「あっ、そうだ!」
「まだ何かやらかしたの?」
ミアが警戒露わに眉をひそめる。
「違うよ! やらかしてない! リオンさんね、別れ際にすごく変なこと言ってたの」
その一言で、今まさに食事を始めようとしていた三人の動きがピタリと止まった。部屋の中の空気が、再び張り詰める。
「……変なこと?」
ヴェルナが低い声で促した。
「うん。この街の底にはね、私みたいなおめでたい子を一瞬で飲み込んじゃうような……『どろどろした暗闇』が満ちはじめてるって言ってた」
今度こそ、地下室から一切の雑音が消え去ったように感じられた。
「……それ、彼女はハッキリと『暗闇』と言ったのかい?」
ヴェルナの瞳から光が消え、冷徹な洞察者のそれへと変貌していた。
「うん。それで私、ピンときてさ。それって、昨日見たあの黒い線が警告してた化け物のことかなって思って聞いたんだけど……リオンさんは『さあね』って笑って、教えてくれなかったの」
「……街の底。それって昨日潰した、あの旧倉庫街の実験拠点のことじゃない?」
「いや、あそこはあくまで港の北側にある旧倉庫街だ」
ミアの問いにヴェルナが応えつつ、迷いのない動作で、テーブルの上にヴェゼル全域の詳細な羊皮紙地図を広げた。先ほどまでの軽い空気は完全に霧散し、鋭いペン先が羊皮紙の表面をなぞっていく。
「旧倉庫街の実験拠点は確かにボクたちが叩き潰した。だけど、あんな場所が連中の本拠地だとは考えにくい。あそこは魔物や魔獣を集めて、魔素を抽出していた現場の一つと考えた方が自然だ」
「ええ、私も同感です」
セレスタも表情を引き締め、地図を上から覗き込んだ。
「ラグナスで私が囚われていた施設と比較しても、昨夜の倉庫にあった設備は簡易的なものが多かったです。魔物から魔素を抽出し、それを魔獣へ与えるための場所……少なくとも、組織のすべてがあそこだけで完結しているとは思えません」
「じゃあ……」
レナも身を乗り出し、地図に描かれた港町の入り組んだ絵図を見つめた。
「もっと大きくて、もっとヤバい場所が……この街のどこかに潜んでるってこと?」
「その可能性は高いね。そして、その正体不明の『リオン』と名乗る女は……少なくとも、ボクたちが知らない何かを知っている」
「じゃあ、すぐにリオンさんを探そうよ! 街を探せば、あの和服ならすぐ見つかるかも!」
「ダメ」
「なんで!?」
即答したのは、他ならぬミアだった。その強い拒絶に、レナは思わず口をつぐむ。
「得体が知れない。敵か味方かも分からない人に、こっちから接触しに行くのは危険すぎる」
「でも、私を助けてくれた恩人なんだよ!?」
「それとこれとは話が別。意図してレナに近づいた可能性だってないとは言い切れない」
「うぅ……」
ヴェルナも静かに頷き、ミアの意見を後押しした。
「ボクもミアと同意見だな。リオンという存在を直接追うのはやめておこう。彼女が何者で、どんな目的で動いているのかが分からない以上、ボクたちから近づく必要はない」
「でも、じゃあどうするの……?」
ヴェルナは細いペン先で、地図の中央に描かれた複雑な区画をトン、と強く叩いた。
「彼女が残した『街の底』という言葉……これには調べる価値がある」
ペン先が示していたのは、ヴェゼルの中央旧市街。無数の古い運河が網の目のように交差し、最終的に港へと向かって一本の大きな水路へと合流する、街でも古い区画だった。
「この港町ヴェゼルの水路網は、地上に見えているものが全てじゃない。古い区画の地下には、今では使われなくなった地下水路もいくつも残っているんだ。まるで広大な迷宮のようにね」
「地下……水路……」
レナの声が、急激に小さくなった。
脳裏を掠めたのは、ラグナスで潜ったあの地下施設だった。冷たい石壁。淀んだ空気。いくつも並べられた檻。そして、人や魔物を実験材料として扱っていた、あの異様な光景。──思い出しただけで胸の奥が重くなる。
ミアはその変化を見逃さず、レナの肩へそっと手を置いた。
「……無理にレナが行く必要はない」
「ううん!」
レナは強く首を振り、自分の頬を両手で軽く叩いた。
「怖いけど……調べたい。もしラグナスで見たみたいなことが、この街の地下でも起きてるなら、私、黙って見てなんていられないよ!」
「にひひっ。やっぱりそう言うと思ったよ」
ヴェルナは八重歯を覗かせると、地図へ再び視線を落とした。
「だからって、今すぐ飛び込んだりはしないさ。まずは入口になりそうな場所を調べて、人の出入りを確認する。そして最優先すべきは『安全な逃げ道の確保』だ。危険を少しでも察知したら即座に撤退。昨夜のことを忘れないようにしよう」
「うん!」
「……了解」
「はい、心得ました」
三人が力強く頷き合う。レナも胸の前で拳をキュッと握りしめた。
「よーし! じゃあ、作戦も決まったことだし、ご飯を食べたら早速行動開始――」
その時だった。雑談に戻ろうとしたヴェルナの鼻先が、ピクと小さく動いた。
「……ん?」
「どうしたの、ヴェルナ?」
「いや……」
ヴェルナは急に身体を起こすと、レナの顔の前にすっと自分の顔を近づけた。軽く鼻を鳴らしながら、彼女の首筋あたりに顔を寄せる。
「ちょ、ちょっと!? ヴェルナ、距離が近い近い!!」
「ねえ、レナ」
「な、なに急に……?」
「君……買い出しの途中で、何か珍しい香水でもつけたかい?」
「え?」
レナは驚いて自分の袖口や胸元に鼻を近づけた。
「つけてないよ? そもそも私、香水なんて持ってないし……」
「……だよね」
ヴェルナの顔から、完全に戯けた色が消え去った。ただならぬ気配を感じ取ったセレスタもレナの傍らへと歩み寄り、静かに鼻をくすぐる空気を確かめる。
「……甘い香りがします」
「え?」
「その匂い、レナが帰ってきてからずっとしてる」
セレスタの言葉を補足するように、ミアも小さく鼻を動かした。獣人である彼女の嗅覚は、ヒューマンや魔族よりもずっと鋭い。
「入ってきた時から気づいてた。パンとか串焼きの匂いに混ざってたから、最初は気にしてなかったけど……レナの匂いじゃない。オシャレに目覚めたのかと思ってた」
「あっ!!」
レナがパンと手を叩いた。
「それ、リオンさんの匂いだ! あの人が消えた後、噴水の周りにもまったく同じ匂いが漂ってたもん!」
「…………」
ヴェルナとセレスタが、完全に言葉を失って互いの顔を見合わせた。
「……ふたりとも? どうしたの、そんな怖い顔して?」
「いや」
ヴェルナはしばらくレナの着ているフード付きの上着を凝視していたが、やがて静かに首を振った。
「何でもないよ。……だけど一応、その上着は脱いで、あっちの箱に仕舞っておこうか。万が一、その香りを目印にして追跡されたら厄介だからね」
「そっか! 鼻が良い敵だったら大変だもんね! 分かった!」
レナは何の疑いもなく、素直にフード付きの上着を脱ぎ、言われた通り部屋の隅にある木箱へと収めた。その背中を見つめながら、ヴェルナは視線だけでセレスタに問いかけた。
セレスタもまた、僅かに頷きを返す。
二人はその香りの正体を知っているわけではない。
けれど――。
昨夜、レナの『線』が示した、あの場に留まっていれば全員が死んでいたかもしれないほどの危険な存在。そして今日、レナが出会い、魔力の気配すら悟らせずに二人の男を一瞬で無力化した、黒髪の少女。
もちろん、同一人物だと判断できる材料などない。だが、この状況で何の警戒も抱かずに済ませるには、引っかかる点が多すぎた。
「ヴェルナ?」
上着を仕舞い終えたレナが、無邪気に首を傾げて振り返る。
「んー? なんだい?」
「どうしたの? 難しい顔して」
「なーんでもないよ! ほらほら、せっかくレナが走って買い足してきてくれたんだ。温かい串焼きが冷めちゃう前に、みんなで頂こうじゃないか!」
「うん! いただきます!」
レナは嬉しそうに表情を輝かせると、アツアツの海鮮串焼きへと一番に手を伸ばした。その無邪気な笑顔を眺めながら、ヴェルナは一人、静かに目を細める。
(……リオン、か)
その名を、しっかりと記憶に留める。もし次に、その得体の知れない少女がレナの前へ姿を現した時は――自分も、その場にいた方がいい。
地下室の古びたテーブルを囲み、香ばしい黒パンと串焼きを囲む賑やかな昼食が始まる。
◇
──その頃、時を同じくして。
喧騒に包まれた港町ヴェゼルの中心部から遠く離れた、海岸線に聳え立つ古い時計塔の屋根の上。強い潮風に、艶やかな漆黒の長髪が静かに揺れていた。
「……ふふ」
少女は眼下に広がる街並みを見下ろし、その薄い唇に小さな笑みを浮かべた。
「レナ、ね」
和服の袖から覗く白い指先が、風を確かめるように空をなぞる。
その黒い瞳が、楽しげに細められた。
「……本当に、面白い子を見つけたわ」
そして、リオン───いや。
リリエルは。
先ほどレナから分けてもらった串焼きの味を思い出すように、満足そうに口元を緩めた。
「さて……次は何を奢ってもらおうかしら」
何も知らず、地下の隠れ家で仲間たちと笑い合っているレナ。
一方、彼女たちから遠く離れた街の時計台の高みでは。
リリエルの楽しげな呟きだけが、ヴェゼルの潮風の中へと静かに溶けていった
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
先日ありがたいことに、先日投稿したレナの短編小説『花を届けるまで、私は二度死んだ。』が好評をいただいたため、短編第二弾を公開しました!
(日間ランキング28位は流石に驚きました…)
今回の主人公は、セレスタです。
本編では描かれていない、セレスタがレナたちと出会う以前のお話になります。
『「もう補助はいらない」と追放されました。──三人だけでも勝てた? よかった、これなら安心ですね』
本編を読んでくださっている方はもちろん、短編単体でも楽しめる内容になっています。
セレスタがどんな冒険者だったのか、そして彼女らしい優しさが伝わるお話になっていると思いますので、ぜひ読んでいただけると嬉しいです!
短編の方も、評価・感想をいただけるととても励みになります!
Xはじめました!
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