42話 白と線ともう一度
「……ん? どこ……ここ」
見渡す限り、視界を埋め尽くしているのは無機質な“白”だった。
地面があるのかさえ判然としない。立っているのか、あるいは虚空に浮いているのか。重力の感覚は希薄で、頬を撫でる風も、鼓膜を震わせる音もない。
ただ圧倒的な白だけが膨張するようにどこまでも続いていて、自分という存在がその中心にぽつんと取り残されている。
レナは震える手を目の前にかざした。指先は五本、確かにそこにある。着慣れた服も、履き潰した靴もそのままだ。肉体は存在している。自分はここにいる。なのに、この場所が世界のどこに該当するのかが、全く理解できなかった。
「……なんで、こんなところに」
漏れた声は、反響することなく白に吸い込まれて消えた。ぼんやりと立ち尽くしながら、レナは直前まで何をしていたのか、記憶の糸を必死に手繰り寄せる。
地下水道。湿った水の音。閉塞感のある細い通路。ミア、ルナ。三人で連携して追っ手を斬り伏せて、ようやく開けた場所に出て——。
そこまで思い出した瞬間、脳内に「映像」が奔流となって流れ込んできた。
制御不能な速度で、一切の容赦なく。
ミアの体を冷徹な剣先が腹部を深く貫通し、背中側から血に濡れた刃が突き出していた。溢れ出すのは、止まることのない生温かい赤。それが水面をどす黒く染め、波紋となって広がり続ける。
そこへ、ルナが飛び込んだ。叫びも迷いもなかった。しかし、対峙した男はその献身すら餌にした。半歩だけ軸をずらしてルナの双剣を空振らせ、返しの一撃で彼女の脇腹を深く引き裂く。それでもルナは止まらなかった。血に濡れた水を蹴り、もう一度前へ。
だが、男の剣が鋭い弧を描いてルナの首筋を走り、噴き出す赤と共に彼女の動きが停止した。肉体が水に沈む鈍い音がして、波紋が消えても、二人はもう動かなかった。
そして「お前で最後だな」という静かな声が耳の奥にこびりつき、死の刃が迫り——。
「——っ、あ゛ッ、あああぁぁぁ!!!」
絶叫が白い空間に弾けた。どこにも届かない叫びが余計に恐ろしく、喉が裂けるほど声を絞り出しても孤独感が増すばかりで、それでも止めることはできなかった。
首を切られた。自分が。視界が反転し、光が消えて、死んだ。
……死んだ?
死んだはずなのに、首を切り飛ばされたはずなのに、なぜ自分は“思考”しているのか。
膝が折れ、レナは白い何かに手をついた。過呼吸気味に空気を吸い込むが、肺を焼くような焦燥感は一向に収まらない。
だが、そんなことはどうだっていい。それよりも、
「ミアは、ルナは——っ」
口にした瞬間、また映像がフラッシュバックする。腹を貫かれたミア。首を裂かれたルナ。二人が冷たい水底へ沈んでいく音。
「……ぁ、あの時……死ん…で」
喉が詰まった。狂ったように絶叫していたのに、急に声が出なくなる。胸の奥がごっそりと抜け落ちたような空洞感。涙が溢れるより先に、思考が真っ白に塗り潰される感覚が先行した。
どれくらいそうしていたのか、時間の概念すら曖昧だ。頬を伝う濡れた感触で、自分が泣いているのだとようやく気づいた。手の甲で拭うと、それは紛れもなく生きて動いている人間から流れる、温かい涙だった。
白い空間は、依然として何も答えない。
「……ここ、どこなんだろ」
呟きの返答はない。レナは視線を落とし、混濁する意識を整理しようと試みる。
死んだ。それは疑いようのない事実だ。あの男の剣筋を考えれば、助かっているはずがない。でも、意識がある。体がある。死んだはずの私がここにいる。
死んだら終わりではなかった。そう結論づけようとした瞬間、得体の知れない“既視感”が胃の底からせり上がってきた。
それは記憶というより、もっと本能に近い「知っている」という感覚。
「……これ、初めてじゃない」
確信があった。ここに来たのは初めてではない。
目を閉じると、別の地獄が脳裏に浮かぶ。森の中、獰猛な魔獣との死闘。
あの時は三人で仕留めたはずだった。なのになぜか、“惨敗した光景”をレナは知っている。ミアが爪に潰され、バイルが私の盾となって死に、そして最後に自分が——。
存在しないはず記憶が、肉体の深部に刻み込まれている。死の感触が、層のように積み重なっている。
その瞬間、こめかみの奥を針で刺すような激痛が走った。
『線』を見るたびに襲ってくる、あの忌まわしい痛みだ。
線。
その単語が、バラバラだったパズルを繋ぎ合わせた。
あの森での戦い以降、視界に『線』が浮かぶようになった。最初は、空間に刻まれた古傷のような細い白線。それが時を経るごとに増殖し、緑、赤、そして黒へと変質していった。
色が増えるたびに頭痛は増し、そして今日、あの男が現れた瞬間、赤と黒の線が視界を埋め尽くした。そして一番重要なところで、
——線はすべて、消えた。
「……死ぬたびに、増えてるのかな」
根拠はない。だが、そうとしか思えない。死の記憶が線として定着し、死への予兆が赤い線として警告を発する。他の色の意味はまだ霧の中だが、自分が「死」を経験するたびに、この眼が捉える世界の真実が増していることだけは分かった。
不意に、周囲の白が輝きを増していることに気づいた。
最初は微かな変化だったが、今ははっきりと分かる。白がより純白へ、眼を焼くような眩しさへと膨れ上がっていく。
「……そろそろ、かな」
不思議と恐怖は消えていた。どこかへ戻らなければならないという確信が、血流と共に全身を巡る。
ミアの絶叫を、ルナの献身を、そして自分の無力を思い出す。
次は、死なせない。
その祈りにも似た誓いを胸の奥に固く結んだ瞬間、世界は白光に飲み込まれた。体の輪郭が溶け、意識が急速に遠ざかっていく────
◇
「よし!いけるよ…!」
ルナの確信に満ちた声。だが、その直後だった。不意に通路が開け、壁が遠のく。音が反響し、空間の“重み”が変わる。
先行するミアの足が、凍りついたように止まった。
「……ここ、広い」
聞き覚えのある声。
レナはハッと目を見開いた。
石造りの壁の距離が遠のき、水の反響が広がりを持って響く場所。
そこは、先ほど三人で辿り着いた、あの地下水道の広い空間だった。
足元を流れる水の冷たさが、生々しい現実として伝わってくる。
ミアの足が、空間の変容に合わせるように一瞬だけ止まる。
レナの視界に、再び「線」が走り始める。
前方に五本、背後に二本の緑の線。
死に戻りをしたという明確な自覚は、光に飲まれた瞬間に消え去っていた。しかし、魂の奥底に刻まれた「警戒」が、彼女の喉を震わせる。
その時、視界の端からどろりと赤と黒い線が侵食してくる。
「っ、まずい。追いつかれた!」
ルナの悲鳴のような警告。それに呼応するように足音が殺到する。水を蹴立てる音が、鼓膜を執拗に叩く。
ミアは反射的に横へ踏み込み、最短距離で敵の懐へ潜り込んだ。指先の爪を喉笛へ滑り込ませ、肉を裂く。生暖かい鮮血を浴びながらも立ち止まらず、次の獲物へと突き進む。
その獅子奮迅の勢いとは裏腹に、レナの胸には鉛のような嫌な予感が居座っていた。
——ここにいては、死ぬ
根拠はない。だが、心臓が爆発しそうなほど早鐘を打ち、全身の毛穴が「逃げろ」と叫んでいる。
その時、絶望に染まりかけた視界の隅に、一本の細く、か細い『白い線』が走った。
その線は広場の闇に紛れ、巧妙に隠されていた壁の亀裂
——細い退路へと誘うように伸びている。
「っ! ここじゃダメ! あっち、あの隙間へ走って!!」
反射的に叫んだレナの声に、ミアとルナが驚いたように肩を揺らした。
白い線の続く細い通路とは反対側の、暗がりの向こう。
レナの瞳には、かつて見たことのないほど濃く、重い『赤』と『黒』の線が、巨大な怪物のような輪郭を持ってじわじわと滲み出していた。




