41話 鉄と紙の境界線
「……もう、動けな、い……」
訓練場の隅、冷たい石床の上に大の字になったエルピスは、喉の奥からひりつくような声を絞り出した。
昼食という名の、味がほとんどしない高タンパクな“燃料補給”を終えた直後から始まったのは、リシア率いる魔道師団との合同訓練だった。
「あら、口だけは動くのね。ならまだ魔法障壁の展開実習にいけるわよ、勇者様?」
リシアが、嗜虐的な光を帯びた瞳でエルピスを見下ろす。彼女の背後には、同じように感情を排した仮面のような顔の魔道師たちが十数人、杖を構えて整列していた。
彼らの役割は、エルピスの「聖剣による魔力相殺」の限界値を測定すること。早い話が、全方位から飛んでくる模擬魔弾を、聖剣一振りで叩き落とせという無理難題だった。
「……無理だって、言ってるだろ……。さっきから、何十発浴びたと思ってんだ……」
エルピスの全身は、焦げ跡と泥、そして打撲による青痣でボロボロだった。セーラの回復魔法で痛みこそ引いているが、精神的な摩耗は限界を超えている。
「聖剣」が勝手に体を動かす際、筋肉にかかる負荷は尋常ではない。自分の意志に反して関節を固定され、超高速で振り回される肉体は、内側から悲鳴を上げ続けていた。
「次。魔力充填、最大値の三割。斉射用意」
リシアの冷徹な号令。
魔道師たちの杖先に、不吉な紫色の光が宿る。
「おい、三割って……さっきの一割で死にかけたんだぞ!」
エルピスは這いつくばったまま叫ぶが、誰も聞き入れない。
これが「勇者」の現実だ。彼らにとって、エルピスは壊れないか試されるべき「最新兵器」なのだ。耐久テストに合格しなければ、戦場という名の最終試験には出せない。
「放て」
無慈悲な一言と共に、空気が爆ぜた。
十数条の魔光が、逃げ場のない網のようにエルピスへ殺到する。
(——ああ、今度こそ終わった)
目を細めた瞬間、右腕が跳ねた。
聖剣が、エルピスの絶望を嘲笑うように強制起動する。
視界が加速し、世界の色が反転する。迫りくる魔弾の軌道が、スローモーションの中で一本一本の死の線として網膜に焼き付く。
ガ、ガガガガッ!
凄まじい金属音。聖剣の刀身が、物理的な衝突音を立てて魔弾を弾き飛ばしていく。
右、左、背後からの死角、足元。
エルピスの体は、独楽のように高速回転し、舞うように剣を振るった。自分では到底不可能な、超人的な体術。だが、それを行う筋肉は、限界を超えてミシミシと嫌な音を立てている。
最後の一発を叩き落とした瞬間、聖剣の強制介入が解けた。
エルピスは糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちる。
「……っ、がはっ……!」
肺からせり上がってきたのは、鉄の味がする熱い塊だった。口端から一筋の血が伝う。
「……三割を全弾相殺。ふん、やっぱり計算通りね。聖剣の自動防御機能は、主人の生存本能に直結している。死ぬ気でやらせれば、まだ出力は上がるわ」
リシアは手元のメモに何かを書き込みながら、満足げに頷いた。
その隣で、腕を組んで見ていたガルドが鼻を鳴らす。
「だが、器の方が持たんぞ。肉体が聖剣の速度についていけていない。このままでは、魔王の前に着く前に自壊するな。……よし、バッシュ。後半はあいつの筋力増強メニューに切り替えろ」
「ああ。根性から叩き直してやる」
バッシュが巨大な斧を地面に突き立て、地響きを鳴らしながら歩み寄ってくる。
(嘘だろ……。まだやるのかよ……。お願いだ、誰か……殺してくれ……。いや、死にたくはないけど、もう一回死んで転生させてくれ……!)
エルピスは、心の中で血を吐くような叫びを上げた。前世で憧れた『勇者』という存在が、これほどまでに無機質で、暴力的で、人権の欠片もない職業(奴隷)だとは思いもしなかった。
自分に向けられる期待の正体は、重圧などという生温かいものではない。それは、自分という人間を磨り潰して『英雄』という形に成型しようとする、巨大な万力だ。
「……勇者様、お水……です」
ふと、視界に水筒が差し出された。
セーラだ。彼女は相変わらず、何を考えているのか分からない無機質な表情で、エルピスの傍らに膝をついていた。
「……サンキュ。……セーラ、君は怖くないのか? こんな、いつ死んでもおかしくない奴らに囲まれて、戦場に行くんだぞ」
エルピスが震える手で水筒を受け取り、問いかける。
セーラは、じっとエルピスの痣だらけの顔を見つめ、小さく、だが重みのある声で答えた。
「……怖い、です。でも……それ以上に、壊れるのが、怖いです。世界が……昨日まで、あったものが」
その言葉に、エルピスは絶句した。
ここにいる連中は、自分とは決定的に違う。
守るべき何かを持っている。あるいは、戦う理由を自分で見つけている。
自分だけが、空っぽのまま『勇者』という器に押し込められ、溺れそうになっている。
「……そうか。……強いな、君は」
「……いいえ。私は……逃げ場所を、知らないだけ、ですから」
セーラの言葉の真意を問う前に、バッシュの巨大な影がエルピスを覆った。
「休憩は終わりだ。立て、勇者。次は、この重りのついた大剣を百回振ってもらう。聖剣の補助なしで、だ」
「……死ぬ。マジで、死ぬって……」
「死なねえよ。セーラが治してくれるからな。さあ、立てッ!」
バッシュの太い腕が、エルピスの襟首を掴んで強引に引きずり起こす。
その瞬間、エルピスの目から絶望の涙がひとしずく零れ落ちた。
王城の高く厚い壁の向こう側。
そこには、自分が見るはずだった平穏なスローライフが広がっているはずなのに。
今、彼の手にあるのは、忌々しくも眩い輝きを放ち続ける聖剣と、明日への恐怖だけだった。
静かに、しかし確実にエルピスの中の“何か”が削られ、変質していく。
それは成長などという美しい言葉ではなく、ただ、世界を救うための“部品”へと成り下がっていく過程だった。
(……誰か。魔王でも何でもいい。誰でもいいから、俺をここから連れ出してくれ……)
空虚な願いを胸に、エルピスは再び、鉄と汗の臭いが充満する地獄の只中へと引き戻されていった。
そうして、訓練という名の地獄を続けること一ヶ月。
エルピスの日常からは「色」が消えていた。
朝、鳥のさえずりを聞く前にバッシュの怒号で叩き起こされ、午前中はリシアの魔弾に晒され、午後はガルドと骨が軋むような肉弾戦を繰り広げる。夜はセーラの治癒を受けながら、泥のように眠る。ただそれだけの繰り返し。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
訓練場の石畳。一ヶ月前、あれほど重く感じた聖剣が、今は驚くほど手に馴染んでいる。
鏡を覗けば、そこにはかつての“平民上がりで見習い騎士”だった少年の面影はなかった。頬は削げ、眼光は死線を潜り抜けた者特有の虚無を湛え、筋肉は聖剣の超常的な動きに耐えうるよう、鋼のように硬く変質している。
「ほう。今の連撃、一歩も引かずに受け流したか」
ガルドが愛剣を収め、満足げに鼻を鳴らした。彼の鎧には、エルピスが刻んだ無数の傷跡がついている。
「この一ヶ月、死ぬ思いをしてきた甲斐があったな。貴様の肉体は、ようやく聖剣という『神の牙』を収める鞘としての形を成した」
「……死ぬ思い、じゃなくて、何度も死にかけましたけどね」
エルピスの声は低く、乾いていた。皮肉を言う元気すら枯れ果てている。
もはや「逃げたい」という叫びすら、脳の奥底に澱のように沈殿し、表に出てくることはなくなった。絶望に慣れるということは、感情を殺すということと同義だった。
「準備は整ったわね。勇者様、おめでとう。あなたの『耐久試験』はこれでおしまいよ」
リシアが、相変わらずの冷徹な笑みを浮かべて歩み寄る。その手には、一枚の羊皮紙──王の印が捺された軍事命令書が握られていた。
「明日、私たちは王都を発つ。目的地は北方の要衝、デルナ砦。魔王軍の先遣隊が接触を開始したわ」
(……ついに、来たか)
胸の奥で、冷たい何かが凝固するのを感じた。
勇者として祭り上げられ、磨り潰されるような特訓を耐えてきた終着駅。それは、本物の殺し合いが待つ戦場だ。
「……実戦、ですね」
セーラが、エルピスの痣だらけの手をそっと包むように治癒の光を注ぐ。彼女の瞳には、一ヶ月前にはなかった微かな揺らぎがあった。
「……生きて、帰りましょう。……全員で」
「……当たり前だ。俺が後ろを塞いでる限り、魔物一匹通しゃしねえ。勇者、お前は前だけ見てりゃいいんだ」
バッシュが、丸太のような腕をエルピスの肩に回す。その重みはもはや“期待”という呪縛ではなく、共犯者としての奇妙な連帯感を含んでいた。
だが、エルピスは知っている。
彼らが自分を仲間として認めたのは、自分が彼らにとって“使える道具”になったからに過ぎないということを。
自分がもし、聖剣を使いこなせない無能のままだったら、今頃は間違いなく見捨てられていたはずだ。
(……スローライフなんて、もう絶対に不可能だな)
翌朝。
王都の正門には、数千の市民と兵士が集まっていた。
「勇者エルピス!」「魔王を討て!」「王国の光に勝利を!」
割れんばかりの歓声。花吹雪が舞い、教会の鐘が祝福の音を鳴らす。
エルピスは、真っ白なマントを翻し、白馬に跨ってその中央を進む。民衆に向ける笑顔は、この一ヶ月で叩き込まれた“理想の勇者”としての仮面だ。
(……みんな、勝手なもんだよな。俺がどれだけ痛い思いをして、どれだけ泣きたかったかなんて、誰も知りもしないくせに)
熱狂の渦の中、エルピスはふと、聖剣の柄を強く握りしめた。
聖剣は、主人の冷めた心を嘲笑うかのように、一段と強く、眩く、不吉なまでの黄金色の光を放っている。
「行こう。……俺たちの『仕事』を片付けに」
エルピスの口から出た言葉は、英雄の決意ではなく、ただの労働者の諦観に似ていた。城門を抜け、王都の喧騒が遠ざかっていく。
目の前に広がるのは、魔霧が立ち込める荒野。その先に、自分を殺しに来るであろう魔王の軍勢が待っている。
望んでもいない物語。
望んでもいない主役の座。
それでも、歩みを止めることは許されない。
勇者エルピスと、その精鋭たち。
最悪の出会いから始まった彼らの旅路は、数多の返り血と、一人の転生者の壊れかけた心を道連れに、真の地獄へと足を踏み入れた。
誰かの正義のために。
誰かの平和のために。
エルピスは今日、初めて“人”を殺すための剣を抜くことになる。
エルピスが仲間たちと街を出たこの日は、ちょうどレナとミアが出会った日だった。




