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境界観測《リミナル・サイト》-その線の先で、私は死んでいる-  作者: Rasky
第2章 都市ラグナス

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34話 惨劇の檻と痛みの線

 ルナが石板を静かに押すと、その向こう側に広がっていたのは、これまでの石造りの水路とは明らかに構造の異なる部屋だった。


 壁は滑らかに削られた石材で整えられ、目地には白い薬品のような塗料が塗り込まれている。中央には木製の長い作業台が二つ並び、壁際の棚には大きさの異なる透明なガラス容器や、奇妙な形状の金属製器具が雑多に並べられていた。天井から吊り下げられたランプがまだ弱い光を放っており、ここが完全に放置された捨て場ではないことを物語っている。


 私は引き寄せられるように作業台へ近づいた。木製の台の表面には、黒ずんでこびりついた大きな血の染みが残り、その四隅には金属製の太い固定具が直接打ち込まれていた。

 その固定具の間隔は、手足を無理やり広げた状態で人間や動物を縛り付けるためのものにしか見えなかった。


 台の脇には、刃先の鋭い細身の解剖ナイフや、太いガラス管、金属製の注射器が転がっており、そのいくつかには乾いて茶色く変色した血がべったりと付着している。


「……ここ、何をしてた場所なの……?」


 問いかけても、すぐに明確な返答は来なかった。ミアは壁際に並ぶガラス容器を一つずつ覗き込み、ルナは作業台の周囲や棚の中身へ素早く視線を走らせている。二人とも、見た目の印象だけで軽々に結論を出そうとはしなかった。


 透明なガラス容器の一つには、濁った黄色の液体の中に、小動物の臓器らしきナマモノが沈められていた。隣の容器には、剥ぎ取られた皮膚の一部と思われる肉片が漬けられており、容器の側面にはその寸法を測ったと思われる目盛りが刻まれている。

 床の隅にはむしり取られた動物の毛が散らばり、作業台の下の暗がりからは、血で固まった何本もの細い革紐が見つかった。


 ミアが一つの作業台にそっと手を置き、木肌に刻まれた無数の深い傷を指先でなぞった。


「爪で激しく引っ掻いた跡がある。深さも向きもバラバラで、同じ場所に何度も何度も刻まれてる。ここに乗せられたものは、身動きが取れないように縛られて……それでも逃げようとして、暴れてたんだと思う」


「器具の大きさも一種類じゃないね。小動物だけじゃなくて、もっと大きな生き物や……人型にも使えるように揃えてある。何を目的に調べていたのかまでは分からないけど、生き物をここに固定して、身体を切り開いたり何かを注入したりしていたのは間違いなさそうだよ」


 ルナはそう言いながら、壁際の棚の扉を次々と開けていった。しかし、中には空になったガラス瓶と、何かを束ねていた革紐の切れ端しか残っていない。別の棚も同様だった。引き出しの中には乾いたインクの跡と、最近まで紙の束が重ねて置かれていた四角い輪郭だけが、薄い埃の中に残されていた。


「……書類が、何もない」


 私が呟くと、ルナは引き出しの奥へ指を滑らせ、そこに溜まった埃の厚みを確かめた。


「元から何もなかったんじゃないね。ここには最近まで、大量の書き付けや日誌が入ってたみたいだよ。周囲には埃が積もってるのに、四角く残った部分だけ埃が薄い。誰かが意図的に、まとめて持ち出したんだ」


「私たちが入ってきたのが、知られたから?」


「その可能性はある。でも、いつ持ち出されたかまでは特定できないよ。……セレスタをここに連れ込んだあとに処分したのかもしれないし、最初から重要な書類だけは別の場所で管理してたのかもしれない。今ここで確定できるのは、書類が存在していた痕跡と、それが今は綺麗に消されてるって事実だけだね」


 部屋の奥には、黒い灰が溜まった小さな炉も設置されていた。


 ミアが落ちていた鉄の棒で灰の中を崩すと、燃え残った紙の端切れがわずかに一枚だけ出てきた。文字は熱で焼けて途切れ途切れになっており、判別できたのは意味不明な数字の列と、何らかの重量を示しているらしき記号だけだった。

 実験の最終的な目的も、被験者を選ぶ基準も、誰の指示によってこの忌々しい研究が行われていたのかも、真相は霧の中だった。


 三人で隣の小部屋まで足を踏み入れて確認したが、得られた結果は同じだった。固定具のついた作業台、薬品で洗浄された器具、空っぽの棚、相手の手で力任せに取り外された名札の跡。

 生き物を使った凄惨な実験が行われていたこと自体は明白だったが、それ以上へ繋がる決定的な記録だけが、綺麗に持ち出されているか廃棄されていた。


「これ以上この部屋を探しても、あまり意味は無さそうだね。ボクとしては、ここで何が行われていたのかは気にはなるけど……今の最優先事項はセレスタを見つけることだからね。書類の残っていない部屋に執着して時間を使うわけにはいかないよ」


 ルナは奥へ続く扉を見つめながら静かに言った。声のトーンは意識して落ち着かせているようだったが、引き出しを閉める指先には強い力が入っていた。

 自分が探している大切な仲間が、この血塗られた台の上に拘束され、刃を当てられたかもしれない。その恐ろしい可能性が、彼女の脳裏を焼き切らんばかりに支配しているのだと分かった。


「私も、先へ行くべきだと思う。この場所で確定したのは、生き物を使って何か恐ろしいことをしてたって事実だけ。それがセレスタや、私の里を襲った連中とどう繋がってるかは、まだここでは決められない。だから、今は生きている人を探す方を優先したい」


 ミアの硬い言葉に、私は強く頷いた。


「うん。ここに残ってる残骸を見てても、何をしてたのかまでは分からないし、セレスタさんがどこにいるかも分からないよ。だったら、奥へ進みながら探した方が絶対にいいと思う」


 ルナは一瞬だけ目を見開いた。私達が自然とセレスタの存在を案じたからだろう。だが彼女は何も言わず、ただ噛みしめるように深く頷いた。


「……ありがとう。急ごう」


 研究室のような場所を抜けた先には、石壁ではなく重厚な金属で補強された長い通路が続いていた。床は完全に乾いており、私たちの靴音がこれまでよりも鋭く、遠くまで反響する。

 通路の左右にはいくつもの金属扉が並んでいたが、その大半はあらかじめ開け放たれており、内部には壊された器具や空の作業台が残されているだけだった。


 何より不気味だったのは、敵の気配が完全に途絶えたことだった。


 あの広い空間から逃げ延びた直後までは、石壁の向こうから男たちの怒号や足音が聞こえていた。それなのに、この研究区画に入ってからは人の気配も、走り去る足音もなく、誰かが慌てて防衛線を築いた形跡すらない。

 施設が広大で、追っ手が別の外郭通路を捜索している可能性もあった。だが、これほど重要と思われる研究区画に一人も警備が残されていないのは、あまりにも不自然だった。


「……静かすぎる」


 前方を歩くミアが、声を極限まで潜めて呟く。


「うん。ボクたちを見失って、入口や水路側を片っ端から探してるだけならいいんだけどね。こっちの内部へ侵入されることを最初から想定していないのか、それとも奥の重要拠点に戦力を集めてるのか……どっちにしても、警戒を緩めるわけにはいかないよ」


「罠の可能性は?」


「十分にある。だから今は音を徹底的に殺して、曲がり角や開けた場所に出る前は必ず一度止まる。それで前進しよう」


 ルナの合理的な指示に従い、三人は歩幅をさらに狭めた。曲がり角へ近づくたびにミアが壁に耳を当てて気配を探り、ルナが背後の闇を警戒し、私は二人の間で視界に何らかの線が現れないかを必死に確認する。


 だが、白も赤も黒も、しばらくの間は何も浮かび上がってこなかった。


 やがて、通路の先から、湿った空気に乗って低い獣のような唸り声が響いてきた。


 ミアが即座に足を止め、身体を低く沈めて耳を限界までそばだてる。聞こえてくる声は一匹や二匹ではない。荒い浅い呼吸音、鋭い爪が金属床をガリガリと掻きむしる音、そして重い鉄がカチャカチャと震える音が重なり合っていた。


「動物がいる……かなりの数。それに、自由に歩き回ってる音じゃない。何かに閉じ込められてる…?」


 角からそっと頭を覗かせると、そこには鉄格子によって厳重に区切られた広大な区画が広がっていた。両側の壁沿いには、頑丈な金属製の檻が何列も整然と並べられており、その内部には異様な姿をした生物たちが押し込められていた。


 毛並みが異常な赤色に変色した狼、背中に不自然でグロテスクな肉腫を幾つも腫れあがらせた巨大な蜥蜴、脚の関節が歪な方向へ曲がったまま硬直している猿のような魔獣。どれもが狭い檻の中で身体を小さく丸め、不衛生な汚物の上に横たわっている。

 こちらに気づいても襲いかかってくる気力すら残っていないらしく、光の消えた濁った瞳で、ただ力なく私たちを眺めるだけだった。


 私の視界には、それらの檻の中から伸びる「緑の線」が幾本も映し出された。けれど、太くはっきりと光を保っている線はごくわずかだった。大半の線は糸のように細く激しく揺れ、途中で途切れかけている。


 奥の檻に至っては、今にも消え入りそうな光が、弱々しく不規則に脈打っているだけだった。生命そのものが削り取られ、死を待つだけの状態であることが、その線の細さから容赦なく伝わってくる。


「……生きてる。でも、みんな呼吸が苦しそう……」


 私が思わず檻へ一歩近づこうとすると、ミアが素早く腕を伸ばして制した。


「待って。鍵の構造も、周囲に罠がないかも確かめてない。助けたい気持ちは分かるけど、無計画に格子を開けて中の魔獣がパニックで暴れたり、大きな音が出たりしたら、私達もこの子たちも追っ手に挟み撃ちにされる」


 ミアの冷静な制止に、私は出しかけた足を引っ込めた。檻の中で苦しむ生き物たちを目の前にして通り過ぎるのは胸が引き裂かれる思いだったが、今の私たちの力でこれら全てを無事に救い出す手段が無いのもまた、冷酷な事実だった。


 そして、動物用の檻が途切れたさらに奥のエリアへ足を踏み入れた瞬間、場の空気の異物感が跳ね上がった。

 そこには、動物用とは明らかに形状の異なる、天井まで届く極太の鉄格子で囲まれた「人間用の牢屋」が並んでいた。


 一番手前の牢は空だった。湿った石の床には、力任せに引きちぎられた太い縄と、干からびた水入れの器が転がっているだけだった。


 だが、二つ目の牢屋の前に差し掛かった瞬間、私たちは激しい悪臭とともに、その床に広がる光景に息を呑んだ。


 格子の内側から外側へ向けて、黒く凝固した巨大な血溜まりが床一面を覆っていたからだ。


 しかも、ただ血があるわけではない。黒ずんだ血の海の中に、ズタズタに引き裂かれた衣服の切れ端、砕けて内部の黄白色の髄が見えている骨の破片、特段何の部位か判別できない、赤黒い生の肉片が、生ゴミのように無造作に転がっていた。


 鉄格子には、内側から必死に逃れようとしたのであろう、生々しい爪痕と、血で塗られた手形が何重にも重ねてこびりついている。


 鼻を刺すのは、猛烈な鉄の臭いと、肉が腐敗し始めた耐えがたい激臭だった。


「……っ……ぐ……あ……」


 強烈な視覚的衝撃と悪臭が胃を直接突き上げ、私は思わず口元を両手で強く押さえて膝を折りかけた。

 村が襲われたあの日。倒れていた父の身体から溢れていた血。そして、崩れた家の中で静まり返っていた母の冷たさ。それらが、目の前の床に転がる光景で激しくフラッシュバックし、頭の中が狂いそうなほどの吐き気で満たされる。


 ミアは鉄格子にゆっくりと近づき、床に落ちていた血塗れの布きれを指先で拾い上げた。その指先が、怒りと衝撃で目に見えて細かく震えている。


「……ヒューマンだけじゃない。獣人の……毛も、混ざってる。……ここで、仲間たちを……こんな風に……」


 ミアの声からは一切の感情が削ぎ落とされていたが、その瞳の奥には、メラメラと青い炎のような凄惨な怒りが燃え上がっていた。


 彼女の故郷の里を壊滅させ、平和に暮らしていた仲間たちを惨殺した奴と関係あるかもしれない連中が、この地下拠点で何を行っていたのか。その答えの残酷な一端が、この肉片と骨の転がる牢獄という形で突きつけられていた。


 しかし、誰よりも決定的なショックを受けていたのはルナだった。


 彼女は血溜まりの直前で完全に立ち尽くし、紫の瞳を限界まで見開いたまま動けなくなっていた。顔からは血の気が一滴残らず引き、唇が細かく震えている。


「……嘘……でしょ……そんな……こんなの……」


 ルナの手が、自分の胸元を衣服ごと強く掴み絞める。爪が布を突き破りそうなほどの力だった。


 彼女が探しているセレスタ。共に境界線の調査へ訪れ、この悪魔のような連中に捕らえられたという大切な仲間。


 もしそのセレスタが、この牢屋へ放り込まれ、床に転がる肉片と同じ無残な「実験」の犠牲になっていたとしたら——。


「……急がないと……っ、ボクが……ボクが途中で迷ったり、遠回りしたから……!」


 ルナの呼吸が激しく乱れ、瞳から冷静さが完全に消失した。彼女はなりふり構わず牢の奥へ向かって走り出そうと足を踏み出した。


 その瞬間だった。


 固まっていた私の視界の奥が、焼けるような激しい熱を持った。


(……あぐっ……!?)


 こめかみを針で突き刺されたような激痛が走り、視界が眩い光で明滅する。


 次の瞬間、暗い牢獄の通路を切り裂くように、一筋の光が浮かび上がった。それは、広場で見た嫌悪感を煽る黒でも、死を予告するような濁った赤でもない。


 あの時、私たちが全滅を免れた時に見えたものと同じ──澄み渡るような『白い線』だった。


(この痛み……)


 覚えがあった。


 いつもなら、白い線が見える際にここまで酷い痛みを伴うことはあまりない。しかし、今回はあまりにも痛すぎる。


  だが、この酷い痛みを伴った白い線を私は経験していた。


 あれは、ミアのいる里に向かう道中だ。痛みをこらえながら、白い線を辿り進み続け、その果てで酷くボロボロになって倒れているミアを見つけた。


(……なんで……こんな時に。あの時と同じ痛み……?)


 嫌な予感が胸の奥で黒く膨れ上がる。この激痛の後に待っているのが何なのか、私の身体と本能が叫んでいる。この線の先に待っているのは、取り返しのつかない「最悪の光景」かもしれない、と。


 その線は、血溜まりと肉片が散らばる牢屋の前をすり抜けるように低く伸び、十数メートル先のT字路を右へと折れ曲がり、その暗がりの向こうへと続いているようだった。


「……ルナ、待って!」


 私は痛む頭を押さえながら叫び、飛び出そうとしたルナの腕を両手で必死に掴み止めた。


「ルナ!? 放して! ボクは今すぐにでも奥を──!」


「ダメ! 闇雲に走ったら危ない! 見て……あっち! あの右に曲がる角の先に、線が続いてるの!」


 私の指さす先は二人から見たら、ただ魔石灯の光すら届かない暗い曲がり角があるだけに見えるだろう。

 けれど、私の目にははっきりと見えてる。その白い線が、まるで「行け」「進め」と逃げ場を塞ぐかのように、そこを揺らぐことなく指し示しているのが。

 ミアが私の必死な表情と指先を確認し、即座にルナの反対側の肩を強く押さえた。


「……ルナ、落ち着いて。レナには、何かが見えてる。今あなたが感情に任せて飛び出したら、全員を危険に晒すことになるかもしれない」


「……っ……くっ……ふぅ……ふぅ……!」


 ルナは荒い呼吸を何度も繰り返し、激しく上下していた胸をどうにか押し鎮めようとした。やがて彼女は自分の震える拳を血が滲むほど強く握りしめ、紫の瞳にわずかな理性を呼び戻した。


「……くっ…ごめん。……取り乱した。ここまで来て、ボクが最初に冷静さを失ったら意味がないよね。……レナ、その線の先に何があるのか、分かるの?」


「何があるのかまでは分からない……。でも、この白い線は、さっき私たちが全滅を免れた時に見えた線とまったく同じ色なの。……この先に、私たちが進むべき『道』がある」


 自分の見ている能力の正体も分からず、根拠を論理的に説明できるわけでもない。それでも、この血と腐敗の匂いが充満する地獄のような空間で、その白い光だけが、唯一信じるに値する道標に見えた。


 ルナは角の向こうを見つめ、それから血溜まりの上の肉片へ視線を落とした。


「……あの角の先へ行こう。セレスタを見つけて……絶対に生きてここから連れ出す」


 ルナの言葉を聞いて、ミアが短剣を握り直して先頭へと移動した。その背中に続いてルナが立ち、私は二人の後ろで白い線を見失わないように視線を固定する。


 三人は床の血溜まりと肉片を踏まないよう慎重に避けながら、白い線が導く右の曲がり角の闇へ向かって、一歩ずつ足を踏み出していった───




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