33話 白と線ともう一度
「……ん? どこ……ここ」
見渡す限り、視界を埋め尽くしているのは無機質な“白”だった。
地面があるのかさえ判然としない。立っているのか、あるいは虚空に浮いているのか。重力の感覚は希薄で、頬を撫でる風も、鼓膜を震わせる音もない。
ただ圧倒的な白だけが膨張するようにどこまでも続いていて、自分という存在がその中心にぽつんと取り残されている。
レナは震える手を目の前にかざした。指先は五本、確かにそこにある。着慣れた服も、履き潰した靴もそのままだ。肉体は存在している。自分はここにいる。なのに、この場所が世界のどこに該当するのかが、全く理解できなかった。
「……なんで、こんなところに」
漏れた声は、反響することなく白に吸い込まれて消えた。ぼんやりと立ち尽くしながら、レナは直前まで何をしていたのか、記憶の糸を必死に手繰り寄せる。
地下水道。湿った水の音。閉塞感のある細い通路。ミア、ルナ。三人で連携して追っ手を斬り伏せて、ようやく開けた場所に出て——。
そこまで思い出した瞬間、脳内に「映像」が奔流となって流れ込んできた。
制御不能な速度で、一切の容赦なく。
ミアの体を冷徹な剣先が腹部を深く貫通し、背中側から血に濡れた刃が突き出していた。溢れ出すのは、止まることのない生温かい赤。それが水面をどす黒く染め、波紋となって広がり続ける。
そこへ、ルナが飛び込んだ。叫びも迷いもなかった。しかし、対峙した仮面の男はその献身すら餌にした。半歩だけ軸をずらしてルナの双剣を空振らせ、返しの一撃で彼女の脇腹を深く引き裂く。それでもルナは止まらなかった。血に濡れた水を蹴り、もう一度前へ。
だが、仮面の男の剣が鋭い弧を描いてルナの首筋を走り、噴き出す赤と共に彼女の動きが停止した。肉体が水に沈む鈍い音がして、波紋が消えても、二人はもう動かなかった。
そして「お前で最後だな」という静かな声が耳の奥にこびりつき、死の刃が迫り——。
「——っ、あ゛ッ、あああぁぁぁ!!!」
絶叫が白い空間に弾けた。どこにも届かない叫びが余計に恐ろしく、喉が裂けるほど声を絞り出しても孤独感が増すばかりで、それでも止めることはできなかった。
首を切られた。自分が。視界が反転し、光が消えて、死んだ。
……死んだ?
死んだはずなのに、首を切り飛ばされたはずなのに、なぜ自分は“思考”しているのか。
膝が折れ、レナは白い何かに手をついた。過呼吸気味に空気を吸い込むが、肺を焼くような焦燥感は一向に収まらない。
だが、そんなことはどうだっていい。それよりも、
「ミアは、ルナは——っ」
口にした瞬間、また映像がフラッシュバックする。腹を貫かれたミア。首を裂かれたルナ。二人が冷たい水底へ沈んでいく音。
「……ぁ、あの時……死ん…で」
喉が詰まった。狂ったように絶叫していたのに、急に声が出なくなる。胸の奥がごっそりと抜け落ちたような空洞感。涙が溢れるより先に、思考が真っ白に塗り潰される感覚が先行した。
どれくらいそうしていたのか、時間の概念すら曖昧だ。頬を伝う濡れた感触で、自分が泣いているのだとようやく気づいた。手の甲で拭うと、それは紛れもなく生きて動いている人間から流れる、温かい涙だった。
白い空間は、依然として何も答えない。
「……ここ、どこなんだろ」
呟きの返答はない。レナは視線を落とし、混濁する意識を整理しようと試みる。
死んだ。それは疑いようのない事実だ。あの男の剣筋を考えれば、助かっているはずがない。でも、意識がある。体がある。死んだはずの私がここにいる。
死んだら終わりではなかった。そう結論づけようとした瞬間、得体の知れない“既視感”が胃の底からせり上がってきた。
それは記憶というより、もっと本能に近い“知っている”という感覚。
「これ、初めてじゃない」
確信があった。ここに来たのは初めてではない。
目を閉じると、別の地獄が脳裏に浮かぶ。森の中、獰猛な魔獣との死闘。
あの時は三人で仕留めたはずだった。なのになぜか、“惨敗した光景”をレナは知っている。ミアが爪に潰され、バイルが私の盾となって死に、そして最後に自分が——。
存在しないはず記憶が、肉体の深部に刻み込まれている。死の感触が、層のように積み重なっている。
その瞬間、こめかみの奥を針で刺すような激痛が走った。
『線』を見るたびに襲ってくる、あの忌まわしい痛みだ。
線。
その単語が、バラバラだったパズルを繋ぎ合わせた。
あの森での戦い以降、視界に『線』が浮かぶようになった。最初は、空間に刻まれた古傷のような細い白線。それが時を経るごとに増殖し、緑、赤、そして黒へと変質していった。
色が増えるたびに頭痛は増し、そして今日、あの男が現れた瞬間、赤と黒の線が視界を埋め尽くした。そして一番重要なところで、
——線はすべて、消えた。
「……死ぬたびに、増えてるのかな」
根拠はない。だが、そうとしか思えない。死の記憶が線として定着し、死への予兆が赤い線として警告を発する。他の色の意味はまだ霧の中だが、自分が「死」を経験するたびに、この眼が捉える世界の真実が増していることだけは分かった。
不意に、周囲の白が輝きを増していることに気づいた。
最初は微かな変化だったが、今ははっきりと分かる。白がより純白へ、眼を焼くような眩しさへと膨れ上がっていく。
「……そろそろ、かな」
不思議と恐怖は消えていた。どこかへ戻らなければならないという確信が、血流と共に全身を巡る。
ミアの絶叫を、ルナの献身を、そして自分の無力を思い出す。
次は、死なせない。
その祈りにも似た誓いを胸の奥に固く結んだ瞬間、世界は白光に飲み込まれた。体の輪郭が溶け、意識が急速に遠ざかっていく────
◇
「よし!いけるよ…!」
ルナの確信に満ちた声。だが、その直後だった。不意に通路が開け、壁が遠のく。音が反響し、空間の“重み”が変わる。
先行するミアの足が、凍りついたように止まった。
「……ここ、広い」
聞き覚えのある声。
レナはハッと目を見開いた。
石造りの壁の距離が遠のき、水の反響が広がりを持って響く場所。
そこは、先ほど三人で辿り着いた、あの地下水道の広い空間だった。
足元を流れる水の冷たさが、生々しい現実として伝わってくる。
ミアの足が、空間の変容に合わせるように一瞬だけ止まる。
レナの視界に、再び「線」が走り始める。
前方に五本、背後に二本の緑の線。
死に戻りをしたという明確な自覚は、光に飲まれた瞬間に消え去っていた。しかし、魂の奥底に刻まれた「警戒」が、彼女の喉を震わせる。
その時、視界の端からどろりと赤と黒い線が侵食してくる。
「っ、まずい。追いつかれた!」
ルナの悲鳴のような警告。それに呼応するように足音が殺到する。水を蹴立てる音が、鼓膜を執拗に叩く。
ミアは反射的に横へ踏み込み、最短距離で敵の懐へ潜り込んだ。指先の爪を喉笛へ滑り込ませ、肉を裂く。生暖かい鮮血を浴びながらも立ち止まらず、次の獲物へと突き進む。
その獅子奮迅の勢いとは裏腹に、レナの胸には鉛のような嫌な予感が居座っていた。
——ここにいては、死ぬ
根拠はない。だが、心臓が爆発しそうなほど早鐘を打ち、全身の毛穴が「逃げろ」と叫んでいる。
その時、絶望に染まりかけた視界の隅に、一本の細く、か細い『白い線』が走った。
その線は広場の闇に紛れ、巧妙に隠されていた壁の亀裂
——細い退路へと誘うように伸びている。
「っ! ここじゃダメ! あっち、あの隙間へ走って!!」
反射的に叫んだレナの声に、ミアとルナが驚いたように肩を揺らした。
白い線の続く細い通路とは反対側の、暗がりの向こう。
レナの瞳には、かつて見たことのないほど濃く、重い『赤』と『黒』の線が、巨大な怪物のような輪郭を持ってじわじわと滲み出していた。
「っ、ここじゃダメ!」
広場へ足を踏み入れた直後、私の叫び声が濡れた石壁に鋭く反響した。
先を走っていたミアと、双剣を構えていたルナが、その声に含まれた尋常でない切迫感に押されるように不自然に動きを止める。
視界の端を埋め尽くしていく、どろりとした濁った赤と黒の線。その線が何を意味しているのか、明確な理屈は分からない。けれど、この広い空間に足を留めた先に待っているものだけは、身体の全細胞が拒絶していた。
胸の奥が押し潰されるように縮み、喉が乾いて息が上手く吸えない。足元を流れる冷たい水も、遠くから迫る複数の足音も、ミアの爪から滴る暗い血の匂いも、何もかもが「決定的な死」へと直結している感覚がした。
前方では、ミアに喉笛を断ち切られた男が水音を立てて倒れ込んだばかりだった。だが、その奥の闇から新たに二人の影が突き進んできている。背後の通路からも水を蹴立てる荒々しい足音が迫り、開けた広場では容易に回り込まれる位置関係だった。
三人で背中を守り合えるほどの狭さはなく、ここに留まれば圧倒的な人数の差をそのまま押し潰される形で受けることになる。
「レナ、どこへ行くの!? 戻ったって後ろからも来てる! 別の道があるなら今すぐ教えて!」
ルナが双剣を交差させたまま怒鳴るように叫ぶ。いつも浮かべていた軽薄な笑みは顔から跡形もなく消え去り、こちらを振り返る余裕すら完全に失っていた。
正面から迫った男の剣を右の刃で滑らせるように受け流し、左の刃をその肘の関節へ滑り込ませる。しかし、相手を仕留めるまで深く踏み込まず、次の攻撃の軌道を見極めるために即座に一歩距離を取った。
私は、自分の網膜に焼き付いている「白い線」の先だけを必死に追った。
線は広場の奥へと一直線に伸びている。だが、その先に見えるのは水垢と苔に覆われた頑丈な石壁だけだった。扉も、分岐する通路も見当たらない。
赤と黒の線が激しく渦を巻いて広がる絶望的な空間の中で、その細い白線だけが、壁の低い位置へ吸い込まれるようにして途切れていた。
「奥の壁! 道がある……たぶん、あそこに何か隠れてる!」
「何もないように見えるけど、レナがそう言うなら確かめるしかないね! ミア、先に行って! ボクがここを止める!」
「一人で残ったら、完全に囲まれる。ルナも下がって。私が、近い方を押し返す!」
ミアは正面の男が振り下ろした大剣を爪で外側へ強引に弾くと、そのまま体勢を崩した相手の懐へ肩から激しくぶつかった。水に足を取られて男がよろめいた隙を突き、追撃で頸動脈を狙う代わりに大きく踵を返す。敵を倒すことよりも、私たちが壁まで辿り着くための時間を稼ぐことを優先した判断だった。
私は足元の水を弾き飛ばしながら、白い線を見失わないように走った。浅い水の底に沈んだ歪な石に足を取られ、何度も膝をつきそうになる。背後からは金属同士がぶつかり合う重い音と、ミアの短く吐き出される呼吸が交錯していた。線の途切れる場所へ辿り着いても、目の前に立ちはだかるのは冷たい石壁だけだった。
「……どこ!? 何があるの……!」
焦りに任せ、濡れた石壁へ両手を叩きつけるように適当に貼らせる。表面には湿った水分と薄いカビが浮いており、触れるたびに指先が滑った。白い線は壁の中央ではなく、床に近い最下層の石の隙間へ沈んでいた。
しゃがみ込み、そこへ両手を伸ばすと、積み上げられた石のブロック壁のうち、一つだけが周囲よりわずかに奥へ引っ込んでいることに気づいた。
その石の横には、大人の指が二本入る程度の、暗く細い隙間が存在していた。
「ここ……石がずれてる!」
私は隙間に指を無理やりねじ込み、手前へ引き抜こうと腕に力を込めた。だが、湿気を吸った巨大な石は重く、爪が石の角に擦れて痛みが走るだけで、表面がわずかに軋む程度で動かない。後ろから迫る靴音が水面を叩く音が急激に大きくなり、焦るほど指先が滑って力が逃げていく。
「退いて、レナ! そこなら私がやる!」
追いついたミアが私の肩を強く引き寄せ、自分の鋭い爪を隙間の奥深くまで一気に食い込ませた。石材と爪が激しく擦れ合い、耳を刺すような高音の金属音が鳴り響く。
ミアは腰を極限まで落とし、湿った床を両脚で強く踏みしめながら背筋の力で腕を引き寄せた。最初はびくともしなかった石が、ガガガ、と低い音を立てて少しずつ手前へずれていく。
その背後へ、血に濡れた剣を構えた男が踏み込んできた。
石を動かすことに全神経を注ぐ二人には避ける余裕がない。男が口元を歪め、正対するミアの無防備な首筋を狙って大剣を振りかぶり───
その瞬間、ルナの手元が動いた。
腕を振る猶予すら惜しむように、ルナは右手の双剣を指先で逆手に返すと、自身の踏み込みと風の押し出しを乗せて一直線に投擲した。
銀閃となった刃は空気を鋭く引き裂き、男の喉元へ深々と突き刺さる。肉と軟骨を噛みちぎるぐちりという不快な音が響き、刃先が首の後ろまで突き抜けた。
「がっ、あ...........」
喉を潰された男は吐血しながら目を見開き、振りかぶった剣を一度も振り下ろすことなく泥水の中へ突伏した。
倒れた男の喉元に深々と突き刺さったままの剣。すぐ脇にいたレナは、ルナが片手だけで後続の敵を警戒しているのに気づき、咄嗟に動き出していた。
(ルナの武器…っ!!)
返り血と泥にまみれた柄を、レナは両手で必死に掴み、力を込めて引き抜く。
(重っ!?)
すっぽ抜けた勢いで泥水に尻餅をつきそうになりながらも、金属の重さに体ごと振られつつ、構え直すルナへ向かって必死に投げ返した。
「ルナ!これっ!!」
「ナイスッ、レナ!」
力弱くクルクルと回転しながら飛んできた柄を、ルナは振り返りざまに空中で鋭く手繰り寄せる。指先で柄を握り直すと同時に滑り込み、二本の刃を交差させて後続の敵の突進を受け止めた。
「二人とも、そのまま続けて!あと少しだけ時間を作るから、開いたらレナから入って!」
ルナが足を止め、追撃の先頭にいた男との間へ割り込んだ。振り下ろされた半月状の剣を双剣で鋭く挟み込み、手首をひねって軌道を石床へ強制的に逸らす。刃が床の石を砕いて食い込んだ一瞬の隙を見逃さず、ルナは相手の胸元を力任せに蹴りつけて押し戻した。しかし、さらに二人の影がその後ろから闇を切り裂いて現れる。
「ルナ、開いた!」
ミアが全身の力を込めて石を横へずらし切ると、その裏側から人一人が身体を横にしてようやく通り抜けられるほどの、縦長の細い隙間があらわになった。
旧水道を建造した際の作業用抜穴か、排気用の空洞なのかは分からない。奥は吸い込まれるように暗く、どこへ繋がっているのかも視認できなかった。
ただ、あの白い線だけが、その暗闇の奥へと確かに続いていた。
「レナ、先に入って! 私たちが後ろにいたら、ルナが下がれない!」
「でも、二人が——」
「今は言い合ってる時間がない! レナが入らないと、誰も入れない!」
ミアに強く背中を押され、私は狭い隙間へ身体をすべり込ませた。肩と胸が冷たい石に強く擦れ、服の布地が引っかかる。息を吐ききって胸を極限まで薄くし、横向きのまま一歩ずつ奥へ身体を滑らせると、数歩先で隙間の幅がわずかに広くなった。
「入れた! 二人とも早く!」
振り返ると、ミアが続いて身体を押し込んできていた。その向こう側の広場では、ルナが二人を相手にギリギリの後退戦を続けている。右の刃で一人の攻撃を受け止め、左から迫った鋭い突きを身体を半回転させて紙一重で回避する。切先が彼女の髪をかすめ、断ち切られた黒と紫の毛先が濡れた壁に数本貼りついた。
「ルナ!」
「分かってる! ボクだって、こんなところで一人だけ格好つけて死ぬ気はないからね!」
ルナは腰の位置まで重心を下げると、交差させた二本の剣を下方から上方へ激しく振り上げた。同時に風魔法を使い彼女の足元から鋭い風が巻き上がらせ、床の浅い水と黒い泥をまとめて敵の顔面へ激しく吹きつける。相手が目を眩まされ、一瞬動きを止めた隙を見逃さず、ルナは素早く身を翻して隙間へ飛び込んできた。
男の剣が追撃するように突き出されたが、あまりに狭い入口では満足に腕を振るえず、剣先はルナの靴底を激しく掠めて石壁に打撃音を響かせただけだった。ルナが両脚を引き入れた瞬間、ミアが内側から先ほど動かした巨大な石へ爪をかけ、全身の体重をかけて元の位置へ押し戻す。
ズズズ、と石が滑り、完全には塞がらないまでも、外から剣を振り回すことも、複数人で力任せに押し入ることも不可能な幅まで入口が狭まった。壁のすぐ向こう側から男たちの激しい怒号と、石を武器で叩きつける鈍い音が連続して届いたが、こちら側へ踏み込める者は一人もいなかった。
三人は暗い隙間の中を、身体を斜めにしたまま静かに奥へと進んだ。背後から響いていた怒声や打撃音は、歩みを進めるごとに少しずつ遠のき、やがて水音すら届かない完全な静寂に包まれる。そこでようやく通路の幅が広がり、正面を向いて歩ける場所に出た。
私は両膝の力が抜け、そのまま冷たい壁に背中を預けて床へ座り込んだ。胸が激しく上下し、息を吸うたびに肺の奥がひりついた。高濃度の魔素による重圧と、死から逃れようと全力で走り続けた負荷が、遅れて身体全体に押し寄せてくる。喉はカラカラに乾き、口の中には鉄の味と湿った土の匂いが充満していた。
「……逃げ……切れたの……?」
「今のところはね。あの狭い入口から一人ずつ入ってくるなら対処できるけど、奴らがこの施設の別の迂回路を知ってる可能性もある。ずっとここで休むのは危ないかな」
ルナはそう言いながらも、すぐには立ち上がらなかった。床に片膝をつき、握りしめていた双剣を一度泥の上に置くと、荒い呼吸を整えるように何度も深く息を吸い込む。普段なら調子のいい軽口を叩いているはずなのに、今の彼女にはその余裕すらない。追っ手との距離を維持するため、最後まで一人で前線を支え続けた代償が、その細い肩の上下に現れていた。
ミアも私のすぐ隣へ腰を下ろし、耳をピンと立てて入口の方向へ意識を集中させていた。鋭い爪には敵の黒ずんだ血がべったりと付着し、右の前腕には刃を受け流した際についた擦過傷から血が滲んでいる。獣人特有の治癒力で血は止まりつつあったが、痛みが無いわけではないはずだった。
「……レナ。さっきの道、よく見つけたね。壁しかなかったのに」
「白い線が見えたの。あそこへまっすぐ伸びてた。……でも、どうしてあの道が見えたのかも、どうしてあの広場に残ったら危ないと思ったのかも、私には分からない。ただ、あの場所にいたら絶対に死ぬって……急に頭の中が真っ白になって、怖くなって……」
言葉に置き換えようとしても、明確な理由はどこにも見当たらなかった。けれど、もしあの広場に残って戦い続けていたらどうなっていたかを想像するだけで、首筋に冷や汗が流れる。何故か「最悪の光景」が、意識のすぐ裏側にへばりついているような薄気味悪さがあった。
ルナは私の顔をじっと見つめた後、床に置いた双剣を拾い上げて鞘へと戻した。
「理由が分からなくても、結果として三人とも生きてここにいる。今はそれで十分だよ。ただ、次も同じように線が見えるとは限らないんだから、それだけを前提にして動くのはやめよう。レナは何か感じたら、すぐ教えて。でも、最終的に進むか退くかは、その場にある目に見える情報を三人で確認して決める。それなら、誰か一人の感覚だけに全部の責任を預けずに済むでしょ?」
「……うん。私も、自分の目に見えたものが絶対に正しいなんて思ってない。ただ、また同じような感じがしたら、黙らないでちゃんと言う」
「にひひっ、それでいいよ。今回は本当に助かったしね」
ルナが口元を緩めたことで、通路に張りつめていた緊張がほんのわずかにほぐれた。ここが完全に安全な場所ではないことは全員が理解している。それでも、三人とも指一本欠けることなく生きていて、こうして言葉を交わし合えている。その事実を確かめるだけで、乱れていた心臓の鼓動が少しずつ落ち着きを取り戻していった。
立ち止まって休んだのは、ほんの数分間のことだった。
入口側から追っ手の気配や足音が近づいてこないことを慎重に確認すると、ルナは魔石灯の光量を絞ったまま静かに立ち上がった。逃げ込んだ細い作業路は、旧水道の石壁の内側を縫うように奥へ奥へと続いていた。床に水は流れておらず、代わりに乾いた埃と、壁から削り落ちた細かい石の粉が積もっている。
普段から人が頻繁に往来している形跡はないが、完全に閉ざされた行き止まりでもない。奥からごく微かな空気の流れが存在し、この道が別の区画へと繋がっていることだけは確かだった。
「このまま引き返せば、さっきの広場でまた追撃を受ける。だったらこのまま先へ進んで、別の通路へ出られるか確かめるしかないと思う。相方を救出するって目的も変わってないし、ここで時間を潰すほどあっちの状態が悪くなる可能性があるからね」
「進むのは賛成。でも、次に出る場所の状況を確認するまでは、走らない方がいい。床も狭いし、足元に砕けた石が散らばってる。音を立てたら、この抜け道の存在まで勘づかれる」
ミアの冷静な指摘に異論はなかった。先頭を気配察知に長けたミア、中央を無力の私、最後尾をルナが固める陣形に切り替え、三人は再び歩みを進めた。ミアが足元の石を踏まないよう細心の注意を払いながら先導し、ルナが後ろからの追撃を警戒する。作業路は長く、場所によっては両肩が左右の石壁に触れるほど狭い。天井が不自然に低くなり、腰を深屈めなければ通れない箇所もあったが、細い白線は薄らぎながらも確実に奥へと続いていた。
「……ねぇ、今更かもしれないんだけど」
静まり返った暗い作業路で、私の後ろを歩くルナに向けて、ごく抑えた小声で問いかけた。
「ルナの探してる相方さんの名前って、なんて言うの? まだちゃんと聞いてなかったと思って」
ルナは後ろの暗がりへの警戒を維持したまま、静かな声で答えた。
「セレスタ。……セレスタだよ。ボクと同じくらいの背格好で、白髪の大人しい子だ。見つかったら真っ先にその名前を呼んであげて」
「……うん、分かった。セレスタさんね」
名前を口にしたことで、闇の奥に囚われている未知の存在が、守るべき確かな輪郭を持って頭の中に浮かび上がった。
やがて、前方から水道施設には無かった異質な匂いが漂ってきた。
湿った土やカビの臭いではない。油、燃やされた薬草、そして金属を高温で熱した後のような、焦げつくような臭いが混ざり合っている。ミアが即座に足を止め、鼻先を微かに動かした。
「……人が使ってる場所の匂い。薬草だけじゃない……油と、それから古い血の匂いも混ざってる」
「血?」
「新しい匂いじゃない。今すぐ誰かが流した血じゃないけど……一度や二度じゃない量が、そこに染み込んでる匂い」
ミアの言葉を聞き、ルナが慎重に前へ移動した。三人でさらに数歩進むと、作業路の突き当たりは一枚の薄い石板によって塞がれていた。石板の隙間から、ごく僅かな光が漏れ出ている。ルナが石板に耳をぴったりと押し当て、しばらく内部の音に神経を集中させた。
「人の話し声は聞こえない。機械みたいな連続した音もないね。少なくとも、このすぐ向こうには誰もいなさそうだ。開けるよ」
ルナが石板を静かに押すと、固定されていなかったそれは抵抗もなく内側へ倒れかけた。倒れる直前にミアがすっと手を伸ばして支え、床へ音を立てないように静かに寝かせる。
その向こう側に広がっていたのは、これまでの石造りの水路とは明らかに構造の異なる部屋だった───




