3話 森で出会った爪
森に足を踏み入れても、すぐには何も起きなかった。
村の外れから見たときと同じ、ただの木立。朝の光はまだ差し込み、鳥の声もある。地面は踏み慣れた土で、薪を拾いに来ることもある浅瀬の空気だ。
レナは小さく息を吐いた。
大丈夫。ここまでは、いつもと同じ。
籠を抱え直し、店主から教わった葉の形を頭の中でなぞる。丸みのある葉、中央を走る銀の線。似た草との違い。触れたときのざらつき。群生地の特徴。
──焦るな。見つからなければ引き返せ。
バイルの声を思い出しながら、慎重に歩を進める。
やがて、見慣れた木々の並びが途切れた。
そこから先は、村の者が薪を取りに来ることもない場所。踏み跡が薄れ、草が足首に絡む。空気が、わずかに重い。
境界だ。
柵があるわけでも、印が立っているわけでもない。それでも、ここから先は違うと、誰もが知っている。
レナは足を止めた。
喉がひりつく。
──まだ…、まだ浅瀬だ。
だが、籠を握る指に力がこもる。
──行こう。
一歩、踏み出したその瞬間、空気が変わった。
枝葉が重なり、光が急に薄くなる。地面は湿り、足音が吸い込まれるように消えていく。さっきまで聞こえていた鳥の声が、どこか遠のいた。
森が、息を潜めたようだった。
胸の奥がざわつく。
それでもレナは進む。しゃがみ込み、葉を確かめる。違う。これも違う。
立ち上がったとき、不意に気づいた。
──静かすぎる。
風が葉を揺らす音だけが、不自然なほどはっきり耳に残る。
茂みが揺れたその瞬間、灰色の影が飛び出す。
狼だった。
狼など浅瀬で見かけることはまずない。初めて見る狼は、想像していたよりも肩が高く、毛並みは厚い。飢えて血走った黄色い瞳がまっすぐにレナを射抜き、低い唸りが地面を震わせる。
湿った土に爪が食い込む音。牙の隙間から糸を引く唾液。
森に入る前から、わかっていた。
野生動物に出くわす可能性も、狼が彷徨っていることも。森の奥地は浅瀬のように優しくないと、バイルに何度も言われた。走るな。背中を見せるな。目を逸らすな。もし出会ってしまったら、落ち着いて距離を取れ――その言葉を、何度も頭の中でなぞりながらここに来ていた。
出くわした時のイメージもちゃんとしていた。
だが、実際に出くわすと身体はイメージ通りには動いてくれない。
───怖い。殺される。死にたくない。
喉が締まり、本能が叫ぶ。逃げろ、と。けれど走ったら終わる。追われる。そう教わった。
本能と理性がせめぎ合っている。
走馬灯のようにお母さんの顔が浮かぶ。熱で苦しそうに浅い息をしていた姿。
…あのままじゃいけない。死ぬ訳にはいかない。薬草を届けなきゃ。
怖くてもいい。震えていてもいい。それでも終われない。ここでは死ねない。
覚悟を決め、レナはゆっくりと一歩、一歩と後ろへ下がった。目を逸らさず、背中を向けず、呼吸を整えながら。あと少し距離が取れれば──
そのとき、踵に硬い感触が走った。
木の根。
「きゃっ!」
視界が傾く。体が宙に浮き、背には強い衝撃。
「──っ」
息が詰まり、腹を空かせた狼が追い詰めたを狩るためにこちらへ駆けてくる。
立てない。間に合わない。逃げられない。
──ここで、死ぬ。
頭が真っ白になる。薬草は、お母さんは、何も出来ないまま終わる、
死の瞬間に込み上げてきた感情は、恐怖より悔しさだった。何もできないまま終わることが、悔しい。
せめて、と籠を胸に抱き寄せる。最後まで手放さない。それしかできない。
まだ終わりたくない。死にたくない。やめて、来ないで。
狼が、口が目の前に迫って
「あっ」──死ぬ
「離れて!」
──その瞬間、横から叫びながら何かが飛び込んできて狼の体が真横に吹き飛んだ。
霜をまとったような白銀の髪に、ぴんと立った耳。しなやかな尾が空を切る。
猫の獣人の少女だった。
「獣人族…」
レナと同じくらいの年齢。だが、その動きは明らかに違う。
地面に着地した瞬間、四肢をばねのように使い、低く構える。指先から伸びる爪が、かすかに光を弾いた。
狼が怒りの唸り声を上げ、再び突進する。
少女は真正面から受けない。体をわずかにずらし、すれ違いざまに腕を振る。鋭い爪が狼の頬を裂き、赤い線が走る。
血の匂いが広がる。
狼は怯まず、今度は低く跳んだ。牙が少女の肩をかすめ、布が裂ける。小さな体がぐらりと揺れる。
それでも、少女の目は逸れなかった。
至近距離。狼の荒い息がかかるほどの距離に少女は一瞬で近づき、踏み込んだ後に左手を狼の下から顎にぶち込む。頭が上を向いた。
そして右手の爪を、迷いなく喉へ振り抜く。
肉を切り裂く鈍い音とともに、温かい血が噴き出す。狼の唸り声が途切れ、体が痙攣し、やがて力を失って地面に崩れ落ちた。
少女が現れてわずか5秒の出来事だった。
森が、静まり返る。
少女はしばらくその場に立ち尽くしていた。荒い息で肩が上下に揺れる。やがてゆっくりと手を引き、血を払うように振った。
そして振り返る。
透き通るような水色の瞳が、レナを捉える。
「……怪我、してない?」
声はまだ幼い。それでも、不思議と落ち着いていた。
レナは何度も頷く。言葉が出ない。目の前の光景が現実なのか、まだ理解しきれない。
少女は倒れた狼を一瞥し、淡々とつぶやく。
「群れからはぐれたやつ。お腹すいてたんだと思う」
責めるでもなく、誇るでもなく。ただ事実のように。
森では、こういうことが起きる。
そう最初から知っているかのようだった。
少女はレナへ歩み寄るが、一定の距離で止まり、耳がわずかに動く。境界線を越えてここにいる私のことを警戒してるのだろう。
「なんでこんな奥にいるの?」
レナはようやく声を出す。
「お母さんの、薬草を取りに……」
その言葉に、少女の耳が少し伏せられた。
「そう」
短い返事。
レナは初めて、足元の狼を見る。さっきまで動いていた体が、もう動かない。
それが「死」なのだと、遅れて理解する。
命が狩られるを初めて見た。怖い。
けれど、それ以上に助けられた、という事実が胸に残った。
この日、森の奥でヒューマンの少女レナは、猫の獣人の少女と出会った。
それは、まだ誰も知らない──
この出会いが、世界の均衡を揺るがす最初の兆しだったことを。




