25話 静かに回り出した歯車
薄暗い廊下を、二つの影が並んで歩いていた。壁に灯る魔石の光は弱く、床に落ちる影を長く引き延ばしている。
カーキ色の髪をした細身の青年が、退屈そうに欠伸をしながら指先で壁をなぞった。
その半歩後ろを歩く黒髪の少女が、ふと足を止める。
「……ベルフェル」
呼び方は柔らかい。けれど声音は冷たい。
青年は肩越しに振り返る。
「うん?」
少女はにこりと笑った。形だけは年相応の、あどけない笑顔。
「さっき、わたしの名前を呼ぼうとしたでしょ?」
声音は変わらない。問い詰めるようでもなく、責めるようでもない。ただ事実を確認するだけの、優しい口調。
それでも、廊下の空気がほんのわずかに重くなる。青年────ベルフェルは数秒だけ黙り、やがて口元を歪める
「う〜ん?呼んだかなぁ?」
ベルフェルは目を細め、わざとらしく首を傾げた。
「呼ぼうとしたの」
黒い瞳が、まっすぐ射抜く。
「……はは。誤魔化せないか。いやぁつい癖でね」
「ふぅん?」
少女の笑みは変わらない。口調も優しいままだ。けれど、その目の奥にあるものは甘くない。
「次やったら…どうなるか、分かってるよね?」
囁くような声だった。
「ククッ、怖いなぁ。君はほんと、見た目と中身が一致しない」
「失礼だなぁ」
「褒めてるんだよ、リリエル」
その名を、今度ははっきりと口にする。
黒髪の少女───リリエルは満足そうに目を細めた。
「それならいいの」
二人は再び歩き出す。
やがて二人は、廊下の突き当たりにそびえる重厚な扉の前へと辿り着いた。黒鉄で縁取られたその扉は、装飾こそ少ないものの、無言の威圧を放っている。ここから先がただの通路ではないことは、見れば分かる。
ベルフェルは一瞬だけリリエルを横目で見てから、何の遠慮もなくその扉に手をかけた。力を込めた様子もないのに、鈍い軋み音が静かな空間に響き、ゆっくりと内側へ開いていく。
広い室内には、すでに数人の影が集まっていた。
天井は高く、壁沿いに並ぶ灯りが淡く揺れている。その中央に置かれた長机の周囲に、それぞれ思い思いの姿勢で立つ者、壁にもたれる者、退屈そうに天井を見上げる者──視線だけが一斉に扉へと向いた。
歓迎の空気はない。
ただ、「遅い」という無言の圧だけがそこにあった。
ベルフェルは気にした様子もなく肩をすくめ、リリエルはいつもの笑顔のまま一歩、室内へと踏み入れる。
「あれぇ、みんな早いねぇ」
「ベルフェル、お前が遅いんだ。何をしていた」
ベルフェルの悪びれる様子もない声に、真っ先に声を投げたのは赤髪の女だった。腕を組み、露骨に苛立ちを隠さない。
ベルフェルは肩をすくめる。
「いやぁ、家畜共がなかなかしぶとくてさぁ。ははっ、本当にもうさぁ、臭いしキモいし、いやになっちゃうよね。まぁ、ちゃんと目的は果たしたよ」
その声に反応して部屋の隅から、ぱたぱたと軽い足音が駆けてくる。
「いいなぁ!いいなぁ!ベルフェルさん暴れてきたんだ!羨ましいなぁ。ボクも暴れたいよぅ」
淡い水色の髪を揺らしながら、純真無垢な笑顔の少年が身を乗り出す。瞳はきらきらと輝いているが、その奥に宿る光はどこか歪だ。
「次は連れてってよぅ。ねぇ?」
「却下だ」
淡い水色の少年は露骨に肩を落とし、唇を尖らせた。
「えー。ひどい!きちく!いじめ!ぎゃくたい!」
不満を隠そうともしない声音でそう漏らしながらも、どこか本気ではない甘えが混じっている。
まるで本当に遊びに混ぜてもらえなかった子どものように、指先で机をつつきながら視線だけを上目遣いに泳がせる。
そのやり取りを、リリエルは少し離れた位置から静かに眺めていた。くすくすと小さく笑い、楽しそうに目を細める。その姿だけ見れば、年相応の少女が仲間のやり取りを微笑ましく見守っているようにも映る。
だが、その黒い瞳は誰よりも冷静で、誰よりもよく観察している。誰が本気で、誰が演じているのか。誰が不満を抱き、誰が従っているのか。その全部を、ただ静かに、面白そうに見ている。そして一言、
「みんな元気だねぇ」
その一言で部屋の空気がわずかに静まる。
赤髪の女が舌打ちをし、視線を奥へ向けた。
「……まぁいい。王をこれ以上待たせる訳にはいかない。行くぞ」
低く、よく通る声だった。その一言が落ちた瞬間、室内の空気がはっきりと変わる。
さっきまで残っていた軽さが、すっと引いていく。淡い水色髪の少年の不満げな表情も、赤髪の女自身の苛立ちも、ベルフェルの気だるさも、すべてが一度奥に沈む。まるで合図を待っていたかのように、全員の目が静かに細められた。
遊びは終わりだと、誰も口にせず理解している。
ベルフェルがわずかに口元を歪める。
「やっとか」
退屈を紛らわせるような声音だが、その瞳の奥にはわずかな高揚が宿っていた。王の前に立つ。それは命令を受ける場であると同時に、力を示す場でもある。
リリエルは胸の前で小さく手を合わせる。ぱちん、と乾いた音が静かな室内に響いた。
「楽しみだね」
柔らかな声だった。無邪気にも聞こえる。けれどその視線は誰にも向いていない。赤髪の女でも、淡い水色髪の少年でも、ベルフェルでもない。
もっと先────
この先にいる存在か、それともこれから起きる何かか。
誰に向けた言葉かは分からない。
だからこそ、少しだけ不気味だった。
やがて赤髪の女が先頭に立ち、一行は室内の奥へと視線を向ける。さらに重い扉が、その先にある。そこから先は、選ばれた者しか踏み入れない領域。
足音が揃う。
もう誰も無駄口は叩かない。
一行は、奥へと続く扉へ歩き出した。
◇
「いやぁ、今日も素晴らしくいい天気だね!」
大きく背伸びをしながら、角を生やした赤黒い髪の男は空を見上げる。雲ひとつない青空に心から満足しているような、実に晴れやかな顔だった。その姿は、とても魔王と呼ばれる存在には見えない。肩の力は抜けきっていて、むしろどこか散歩にでも出かけそうな気軽さすらある。
「ハデス様は今日も呑気ですねぇ」
控えていた配下の一人が、苦笑まじりにそう言った。普通なら首が飛んでもおかしくない距離感だが、魔王──ハデスは気にした様子もない。くるりと振り返り、にこりと笑う。
「ほら、こんなにいい天気なんだから、気分も良くないと損だろう? 」
絶対的な支配者であるはずの魔王に対して、その場の空気は驚くほど柔らかい。誰も怯えていない。誰も媚びていない。ここではこれが日常だった。
そのとき、廊下の奥から慌ただしい足音が響く。
一人の配下が、息を切らしながら飛び込んできた。顔色が悪い。言葉を探すように口を開いては閉じる。
「ハ、ハデス様……! ヒューマン族の王が……っ、その……」
舌がもつれ、呼吸も整わない。明らかにただ事ではない様子だった。
だがハデスは眉ひとつ動かさない。
「ちょっと落ち着いてよ。ほら、息整えて。何があったのか、順番に話して」
促され、配下は大きく息を吸い込む。
「ヒューマン族の王が勇者を正式に任命しました……! 魔族討伐を掲げ、王都で宣言を……! ただ、各国はまだ静観の構えです。軍の大規模な動きも確認されていません……!」
そこまで聞いた瞬間、ハデスの表情がわずかに変わる。
笑みが消え、目だけがすっと細くなる。
「……またあの国か」
呆れたように、小さく息を吐く。
「何もしていない相手に刃を向けるのが、そんなに楽しいらしい」
怒りというより、理解できないものを見る目だった。
窓の向こう──遠く、人族の領土がある方向へ視線を向ける。
「境界は越えて軍を動かすことは出来ない。あちらも、こちらも。それが境界線だ」
境界線のルールを破ればどうなるかなど、誰もが知っている。だからこそ、ルールの穴をついてきたのだろう。
「……にしても、勇者か。少数精鋭で俺の首を取る気なのかな?まぁいい、今は様子を見よう」
最後に、ほんのわずかだけ笑った。
先ほどの呑気な笑顔とは違う。
まさに魔族を統べる王の顔だった。
◇
王城の大広間は、やけに広く感じた。
磨き上げられた床。高く伸びる柱。左右に並ぶ貴族たち。視線が、すべて自分に向いている。
四年前までは、ただの平民だった。
幼い頃、領地を統治する男爵に剣の腕を見出され、十三のときから見習い騎士として仕えてきた。食うに困らず、衣食住は保証され、鍛錬の日々。悪くない生活だった。少なくとも、野垂れ死ぬよりはずっと。
それが今────
「さぁ、エルピスよ。次はお主の番だ」
玉座から、重々しい声が降ってくる。
「はっ」
王の前には、古い祭壇が設えられていた。聖印が刻まれ、白布が敷かれ、その中央には一本の剣が立てられている。勇者選定の儀。古来より伝わる、神意を問う儀式。
(光るな、光るな、光るな…頼む頼む…マジで光るな…)
形式は整っていた。祈りが捧げられ、神官が詠唱し、光が剣を包む。そして────
なぜか、その光は自分に向かった。
(ん゛ん゛ん゛ん゛〜〜〜〜〜〜!?!?)
「神託は示された。汝エルピスを勇者とする。仲間を集め、その聖剣で魔を祓い、魔王を討て」
静まり返る広間。
全員が、自分の返答を待っている。
喉が渇く。
心臓がうるさい。
逃げたい。
逃げたい逃げたい逃げたい。
(んもぉ!!はぁ!?なんで光るんだよ!てか魔王討伐ぅ!? 無理に決まってるだろ……!死ぬじゃないか!普通に!怪我も嫌だし、痛いのも嫌だ。そもそも戦いたくない!
男爵家に拾われたのだって本当は望んでいなかったんだ!魔獣や魔物、凶悪な野生動物が跋扈する世界で、生き残るための護身術として剣を学んでいただけだ!身を守れる程度でよかった。英雄になりたいなんて一度も思ったことはない!それなのに…
なんでだよ…あぁもう最悪だ…)
せっかくの第二の人生なのだ。
今度こそ、のんびり穏やかに、静かに暮らすはずだった。
……そう。
青年エルピスは、転生者だった。
前世の記憶を持ったまま生まれ、目立たず、騒がず、平穏を選ぶと決めていたはずなのに。
なのに、どうしてこうなる。
王の視線が刺さる。貴族たちの期待が重い。断ればどうなるか、想像はつく。
ここで拒めば、勇者に選ばれながら使命を放棄した臆病者の烙印を押される。最悪、処分だってあり得る。
喉を鳴らす。
そして、膝をついた。
「……はっ。その命、謹んでお受けいたします」
声も聖剣を受け取る手も震えていなかった。騎士として鍛えられた礼儀が、身体を勝手に動かす。
「おぉ!!」
歓声が上がる。
「勇者様の誕生だ!!」
祝福の声が響く。
だが、顔を伏せたままのエルピスの表情を、誰も知らない。
(あぁ…終わった……俺のスローライフ……)
心の奥で、盛大に崩れ落ちる音がした。
勇者エルピス。
そう呼ばれることになった青年は、この瞬間から世界の中心へ押し上げられた。
望んでもいない物語の、主役の一人として。
そして彼はまだ知らない。
魔王もまた、戦うつもりも侵略する意図もないということを。
世界が動こうとしているのは、誰かの正義のせいだということを。
静かに、ゆっくりと。
歯車が噛み合い始めていた。
ついに、勇者と魔王が登場しました!
実はかなり前からこの構想は決まっていて、ようやくここまで辿り着けた……という感じです。
今後ともよろしくお願いします!




