23話 太陽みたいな子
嫌な予感がしてからというもの、胸の奥のざわつきが止まらない。なにせ、今のところ嫌な予感の的中率は脅威の100%だからだ。
木々の間を抜け、突き出た枝をかき分けながら、レナはひたすら走り続ける。
本来なら、森の奥地の里の場所など分かるはずがない。いや、今もわかっている訳では無いが。レナは森に入ったことがほとんどないのだから当然だ。だが、迷わなかった。今朝見えたあの線が、まだうっすらと視界の端に残っているからだ。
「……こっち、なの?」
何本も重なり合いながら、森の奥へと伸びている。
まるで、導くみたいに。
「線が見えなきゃ、絶対に迷ってた…うっ!?」
呟いた瞬間、こめかみの奥がずきりと痛んだ。
思わず顔をしかめる。
線が強く見える時ほど頭痛がする。視界に重なるように浮かぶあの光景は、見えているというより、無理やり“見せられている”感覚に近い。
代償。
そんな言葉が頭をよぎった。
「今は……痛くていいから……」
痛みを誤魔化すかのように小さく呟く。今も視界に映る線は揺らぎながらも確かに奥を指してる。
枝を踏み、低木をかき分け、ひたすらに走る。普通なら獣と鉢合わせてもおかしくない場所にとっくに入り込んでいるはずなのに、不思議と何も出てこない。気配どころか物音ひとつない。
「……なんで?」
森は外から来る者を拒む。前回森に入ったときは獣の気配が遠巻きに動き、どこかで枝が鳴っており、見えなくても「いる」と分かっていた。
でも今日は違う。
静かすぎる。
「……これ、線のせい?」
自分で言って、はっとする。
線は里への道をただ示しているのではなく、獣がいない道を通らせている?
そう考えた瞬間、背筋が冷えた。
守られているのか、それとも急がされているのか。だが今はそれよりも、
「ミア……無事でいて」
息が荒くなる。胸が焼けるように苦しい。両親を失った時とは違う怖さだった。あの時は、何が起きたのかも分からないまま崩れ落ちた。ただ現実に押し潰されただけだった。
でも今は違う。最悪の想像が、はっきりと形を持って頭の中に浮かび、それが背後から追いかけてくるような感覚がある。
「やだ……大丈夫…大丈夫…」
否定するように首を振る。
やがて、空気の匂いが変わった。
湿った土と青い葉の匂いに混じって、鉄のような臭いが鼻を刺してくる。
ふと、足が止まる。
止めたつもりはないのに、勝手に止まっていた。
「……うそ」
木々の隙間、その奥に見えたのは、崩れ落ちた建物だった。
屋根は落ち、柱は折れ、地面は抉れている。争った跡がそのまま残っていた。黒く乾いた血があちこちに広がっている。
「やだ……やだ、やだ……」
視界の端で揺れていた線が、ゆっくりと里の中心付近に収束して集まっていく。「行け」「進め」と逃げ場を塞ぐかのように、そこを指し示している。
線に導かれるように足を進めていく。
里のあまりに悲惨な状況に理解が追いつかない。
「ミアァ!ミアァ!」
泣きそうな声で喉を震わせながらも、線を頼りに進むとその先に、横たわる影がある。
「……ミア?」
地面に横たわってるそれは、酷くボロボロになったミアだった。
「嘘でしょ……やだ、やだよ……」
それでも肩が、わずかに上下しているのが見える。
「生きてる……よね? ねぇ、生きてるよね……?」
レナは駆け寄り、膝をついた。
「ミア! 起きて! 私だよ!」
額に触れた瞬間、思わず手を引く。
「熱っ……なにこれ……こんなの、普通じゃない……!」
視線が落とすと、右足が布と木片で強く固定されていた。布は血で固まり、腫れ上がった皮膚は赤黒く変色している。素人の処置だとすぐに分かった。それでも、動かないよう必死に固定しているのが伝わる。
「これ、自分でやったの…?こんな、無茶すぎるでしょ…」
酷くパンパンに腫れ上がった足を見れば、相当な痛みを伴いながらの作業だっただろう。
「一体何が…なんで一人でこんなことしてるの……!」
「……レ、ナ……?」
「──っ、よかった……、ごめんね、遅くなって…」
声を聞くとまだ生きているという実感が湧いてくる。まだちゃんも生きていてくれたのだ。そう思うと、さっきまで枯れていたはずの涙が勝手に溢れてくる。
「なんで戻ってこなかったの……すぐ戻るって言ったじゃん……私、待ってたんだよ……?」
「……戻れ、なかった……」
本当は分かっていた。戻りたくても戻れる状況じゃなかったから、動ける状態じゃなかったから戻って来なかったのだ。そのくらい、理解しているが──
「何が…あったの?」
「みんな…殺された…。父さんも…あいつに…」
「あいつ…?」
視線が奥へ向く。つられてレナも視線を向けると、そこには並べられた仲間たちの亡骸があった。
「えっ、な…これ、全部やったの? この足で?」
赤黒く変色し腫れ上がった足と高熱の状態でこれをやったのかと思うと、息が詰まる。
「なんで……なんでそんなこと……」
ミアはかすかに首を振る。
「…みんなの、こと覚えてるの…私、だけだから…このまま放っておいたら……忘れられる……」
「忘れられるって……?」
「……族が、消える……」
「消えるって……もう、皆……」
「ううん……」
震える指が、わずかに動く。
「……死んでも……終わりじゃ、ない……覚えてる者が……いれば……消えない……」
レナは改めて、並べられた亡骸を見渡した。乱雑ではない。ひとりひとり、顔が見えるように置かれている。
「……だから、並べたの?」
「……うん……」
「一人で……?」
「……最後、まで……一緒に……」
その声には、生き残った者の責任のようなものが感じられた。
「だから……帰れなかったの?」
「…うん」
胸の奥で何かが軋む。
あの日の伝言、『お前の両親は、消えない。だから生きろ』
「私への伝言も…そういうこと……?」
問いかけると、ミアはかすかに頷いた。
「…私は……みんなの……名前も……顔も……生きたことも……全部……覚えてる…でも、もう…」
言葉は途切れ途切れなのに、その中身ははっきりしていた。ミアは並べられた仲間たちから目を逸らさない。まるで、少しでも視線を外せば本当に消えてしまうとでも思っているみたいに。
「……レナ…私…まだ…死にたくない…私が覚えてなくちゃ……生き残ってしまった…から。最後の一人に…なったから…。だから私が…」
レナは息を吸い込む。焦げた匂いが喉に引っかかり、こめかみが痛む。視界に映る線が揺れているけど、それよりも目の前のミアの言葉のほうが重い。
「……馬鹿。そんなの、一人で抱えることじゃない」
ミアは何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ眉が動いた。その小さな動きだけで分かってしまう。この人はこうやって誰にも頼らず、泣かず、笑わず、自分の中に全部押し込めてきたのだと。
──なんで?
どうしてそんな顔をするの。
どうしてそれが当たり前みたいに受け入れてるの。なんでも一人で抱え込もうとして、こんな状況でも強くあろうとして…。
死にたくないなら、助けてって言ってよ。
言えないなら、私が、
「…私が絶対に助ける。だからもう一人で背負おうとしないで」
気づけば、そう言っていた。
言わなきゃいけないとかじゃない。考えたわけでもない。ただ、ここで黙っていたら、ミアがこのままずっと一人になってしまう気がして、それがどうしても嫌だった。
やっと「死にたくない」って言ったんだ。
やっと弱音を吐いたんだ。
それを聞いてしまったのに、背を向けられるわけがない。
「みんなのこと、私にも聞かせて。名前も、どんな人だったかも、どんなことで笑ったのかも、全部。全部、私に教えて」
もう一人で抱えなくていい。
私がいる。
無理でも、引きずってでも、連れて帰る。
助けるって言ったんだから、助ける。絶対に。
「二人で覚えてれば、消えないでしょ。私も覚える。忘れない。だから、もう一人じゃない」
ミアの目がゆっくりとレナを見上げる。理解しようとする目だった。信じていいのか確かめる目だった。
「……二人で……?」
「うん、私も背負う。半分こじゃなくてちゃんと一緒に背負うから。もう、一人で抱え込まないで。」
レナは並べられた仲間たちを見る。
「全部は覚えきれないかもしれない。でも、聞くよ。何度でも聞く。忘れそうになったら、また教えて。だから──」
一瞬、言葉が詰まる。それでも続ける。
「だから、生きて」
その瞬間だった。
ミアの目に、はっきりと涙が浮かぶ。ゆっくりと溜まって、こぼれて、止まらなくなる。
でもその顔は、泣き顔なのに、笑っていた。
そう、ミアが笑ったのだ。
大泣きしながら、それはもう心の底から安心したような顔で。
──兄を亡くしてから、一度も本気で笑っていない少女が、兄が生きていた頃の太陽みたいだったあの頃のように。
二人の少女が大切な者を失った代わりに大切な物を得た瞬間だった。
「レナ…ありがとう…」
その呼びかけは弱いのに、あたたかい。
「行こう、生きて帰るよ」
立ち上がる。森の方から気配がする。それに呼応するように、さっきからずっと線が揺れている。「早くいけ」とでも言うように。時間がない。
「ちょっと痛いと思うけど……我慢してね」
できるだけ足に負担がかからないように、腕を回して体を支えながら、そっとミアを背負う。触れた瞬間、思ったより軽くて、胸がきゅっと痛んだ。
こんなに軽かったんだ。
それなのに、背中に乗った重みはしっかりとある。
体の重さだけじゃない。さっき聞いた言葉も、交わした約束も、ミアが一人で抱えてきた時間も、全部まとめて背負った気がした。
でも、不思議と気分は晴々としている。
ちゃんと背負えていることが少しだけ嬉しかったからだろうか。
「大丈夫。絶対に落とさないから」
「うん」
「しっかり掴まってて」
ミアの指が、背中の服をぎゅっと掴む。小さく震えているけれど、確かに力がこもっている。その感触を確かめてから、レナはゆっくりと一歩を踏み出した。
森はもう静かじゃない。さっきまで張りつめていた空気とは違う、じわじわと包囲されるような気配がある。枝がかすかに鳴り、どこかで土を踏む音がする。それでも足は止まらない。止める理由が、もうない。
背中から伝わる温もりが、はっきりと「生きている」と教えてくれる。さっきまで遠くにあった笑顔も、涙も、今はちゃんとここにある。
背中の温もりを感じたまま、レナは一度だけ振り返った。並べられたミアの仲間たちが、静かに横たわっている。ここに残していくことになる。その現実が胸に重く沈むが、それでもここで立ち止まるわけにはいかない。
「必ず、戻ってくるから」
声は小さかったけれど、揺れなかった。
ミアが整えたのだ。乱れたままではなく、一人一人きちんと並べて、せめて最後くらい尊厳が失われないようにと、できる限りのことをしてあるのが分かる。血の匂いも広がらないようにしている。簡単に荒らされるような状態ではない。それでも、絶対とは言えない。この森はそんなに優しくないから。
覚えると決めた。助けると決めた。その全部が、今は背中にある。軽くはない。だからこそ今は離れる。そして、生きて二人で必ず戻ってくる。
やることは一つ。
視界の端ではあの線がまだ続いている。線の先、揺れる木々の間に目を凝らしながらわずかな光の抜け道の方へと進んでいく。こめかみは痛むがそれでも足は止まらない。
「二人で帰るんだ」
この森を抜ける。
絶対に、生きて連れて帰る。
レナは地面を蹴り、背中の温もりを守るように、まっすぐ前へと走り出した。




