15話 討伐のその先
魔獣が低く唸った瞬間、地面が沈んだ。
「来るぞ!」
バイルの声と同時に、黒い塊が視界を埋めた。
ミアが横へ跳ぶ。だが爪は追う。振り下ろされた衝撃が地面を砕き、木々を揺らし、破片が雨のように降り注ぐ。
一撃が速く、重い。
レナは一歩後ろへ下がる。呼吸が浅い。
狼とは比べ物にならない。怖い。
「一旦散れ!」
バイルが横合いから斬り込む。刃は肩口を掠め、硬質な音を立てて弾かれた。
「くっ、硬すぎる……!」
魔獣が体を捻る。尾が薙ぎ払われ、バイルが吹き飛ぶ。
「ぐはっ……!?」
「バイル!」
ミアが低く滑り込み、前脚へ爪を叩き込む。血が飛ぶ。だが浅い。魔獣は意に介さず、咆哮する。
その音だけで、心臓が縮む。
(無理かもしれない…)
そう思ってしまった、その瞬間。
また、世界の流れがスローモーションになる。
あの色あせた世界に入る。
そして、また“線”が見える。
魔獣の身体を中心に、幾重にも張り巡らされた光の筋。
脚から地面へと沈む重さの線。
踏み込みと同時にギリッと引き絞られる力の線。
それらが絡まり、押し合い、ぶつかり合いながら次に崩れる一点を示していた。
「……また、さっきの感覚…なに、これ」
分からない。けれど分かる。
右後脚の付け根。そこだけ、線の交差が荒れている。
踏み込みの力が、そこへ溜まっている。
狙いは――
ミアの立つ位置。
次に振り抜かれるのは、あそこだ。
「っ、ミア! 右!」
レナの叫びでミアが半歩ずれた瞬間、爪が空を裂いた。地面が爆ぜる。
「なんだ、今の!」
バイルが立ち上がる。
「そこ、右後ろ! 脚!」
自分でもどうして分かるのか分からない。
でも間違いない。
バイルが地面を蹴り、一気に間合いを詰める。振り上げた刃が空気を裂き、魔獣の側面へと叩き込まれ、
同時に、ミアも低く身を沈めたまま踏み込む。獣人特有の瞬発力で懐へ潜り込み、急所を狙う。
だが、ほんの一瞬遅かった。
魔獣は巨体とは思えない速さで身体を捻り、バイルの刃をかわす。毛皮が裂ける音だけが響き、ミアの一撃も空を切る。
直後、魔獣が大きく体を振るう。
圧倒的な質量の一撃に、間近にいたミアはまともに巻き込まれる。小さな身体が宙に浮き、地面へ叩きつけられ、そのまま数度転がって土煙の中へ消えた。
「ミア!」
思わず叫びながらも、目だけは逸らさない。
視界の奥で何度も“線”が激しく張り替わり、さっきまでとは違う流れを生み出している。力の向きが変わり、次の一撃の準備を始めている。
前脚に力が集まる、ように見える。
けれど違う。
その奥で、わずかに遅れて歪む右脚。
そこが崩れる。
「もう一回、右脚!」
思わず叫んだ声が、自分でも驚くほどはっきり森に響いた。
バイルは振り返らない。ただ一言、「信じるぞ」とだけ残し、迷いなく再び地を蹴る。その動きに呼応するように、ミアも低く身体を沈めて走り出した。地面を擦るように滑り込み、狙いを定めたのは、さきほどレナにだけ見えていた“歪み”の一点。
次の瞬間、ミアの爪が全力で振り下ろされ、ほぼ同時にバイルの刃が深く突き込まれる。硬い感触の奥で鈍い音が響き、右後脚の付け根に確かな亀裂が走った。
魔獣の巨体がわずかに傾ぐ。
いける――そう確信した瞬間、三人の声が自然と重なった。
「「「今だ!」」」
集中した追撃が同じ一点へ叩き込まれ、張りつめていた力の流れが一気に乱れる。レナの視界に映っていた線が、軋み、絡まり、そして限界を迎える。
巨体が大きく揺れ、そのまま地面へと崩れ落ちた。凄まじい振動が森を震わせ、舞い上がった土煙が視界を覆う。
それでも魔獣はなお起き上がろうとするが、傷ついた後脚が体重を支えきれない。踏み込もうとした瞬間、力が抜ける。
そこへミアが跳び、喉元へ爪を突き立てる。間髪入れず、バイルの刃が深く押し込まれ、確実に急所を断った。
その瞬間、レナに見えていた線が、ぷつりと途切れる。
咆哮が途切れた瞬間、森は嘘のように静まり返った。
さきほどまで大気を震わせていた圧力が消え、残されたのは三人の荒い呼吸だけ。舞い上がった土煙がゆっくりと落ちていく中、誰もすぐには動けなかった。
レナの視界からは、いつの間にかあの“線”が消えている。張り詰めていた世界のもう一層が閉じ、色と音が、ようやく元の輪郭を取り戻していく。
その代わりのように、膝が小さく震え始めた。遅れて押し寄せる頭痛に、こめかみを締めつけられる。
世界は戻ったのに、自分だけが戻りきれていないような感覚があった。
「……倒したのか?」
荒い呼吸の合間に、バイルが低く呟く。まだ油断はしていない声音だった。
ミアはしばらく魔獣の亡骸を見下ろしていたが、やがて小さく息を吐き、ゆっくりと頷いた。
「ああ。終わった」
その一言が落ちた瞬間、張りつめていた空気が一気にほどける。身体の奥にこびりついていた緊張が崩れ落ち、ようやく本当に終わったのだと実感が追いついてきた。
胸の奥に溜まっていた恐怖が遅れて溶け、思わず「やった……」と声が漏れる。笑みが込み上げ、自分でも抑えきれない。
バイルが肩で息をしながら、くぐもった笑い声をこぼした。
「ははっ……大したものだな、レナ。あれがなければ押し切られていた」
「あれって……?」
問い返すと、バイルは当然のように言う。
「お前の勘のことだ」
その言葉に、ほんの一瞬だけ戸惑う。
勘なんかじゃない。あれは確かに“見えて”いた。けれど、それをどう説明すればいいのか分からない。自分でも、まだ整理できていないのだから。
そのとき、ミアがこちらを振り向き、水色の瞳がまっすぐにレナを捉えて短く告げる。
「助かった。ありがとう」
自分は強くない。剣も持たない。正面から魔獣と戦えるわけでもない。
それでも、ミアの言葉でここに立っていてよかったのだと初めて心から思えた。
怖かった。本当に、足が震えるほどに。
それでも逃げなかった。声を張り上げ、あの場所に立ち続けた。そして結果として、森を、仲間を守れたのだと思うと、胸の奥にじわりと熱が広がる。
「戻ろう」
バイルが息を整えながら言う。
「村でみんなに報告だ。魔獣は討った」
「あぁ、これで浅層は安定する」
ミアも短く応じ、爪についた血を払った。さきほどまで命を懸けていたとは思えないほど、森は静かだ。
レナも小さく頷く。
空は変わらず青く、木々のざわめきも穏やかで、あの死闘が嘘のように遠ざかっていく。
よかったと心の底から、そう思えた。
三人は並んで歩き出す。帰りを待つ村の人たちのもとへ向かって。
そのとき、ずきりと鋭い痛みがこめかみを刺した。
視界がわずかに揺れ、膝が震える。消えたはずの“線”はもう見えない。それでも、世界のどこかに薄い膜が張られたような違和感だけが残っていた。
だから感じ取れたのだろうか。
森の、今よりもさらに奥。
──何かが、こちらを見ている。
バイルもミアも、何も感じていない。
まだ、誰も気づいていない。
魔獣を討ったことで、終わったはずの一日が
本当は、今から始まるのだと。




