14話 誕生
奥地へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
父はその手前で立ち止まり、最後まで何かを言いかけていたけれど結局なにも言わなかった。ただ、あの目だけが強く残る。
──行くな、と。
(心配してくれてるんだ。大丈夫、ちゃんと戻ってくるから。)
背後に残る村人達のざわめきはすぐに遠のき、代わりに湿った土と濃い樹皮の匂いが肺の奥まで入り込む。先程までの場所からそんなに離れていないにも関わらず、まるで別の世界にいるように感じられた。
先頭を歩くのはミアだった。矢で傷ついた太ももは既に血が乾きかけているが、尾の位置が低い。耳も僅かに伏せられている。
その後ろにバイル。最後尾にレナ。
森は、静かではなかった。
遠くから、低い振動が伝わってくる。何か巨大なものが歩くたびに地面の奥が鈍く震えていることからも、ただの獣のそれではないと直感で分かった。
「足跡が潰れてる」
バイルがしゃがみ込み、土をなぞる。
狼達の足跡が途中で乱れ、その上から巨大な爪痕が重なっている。深く、鋭く、地面を抉る力が桁違いだ。
ミアの耳が伏せられる。
「縄張りが踏み荒らされてる。群れが散った理由はやはり…」
「……」
目に見えないはずの“縄張りの層”が、押し広げられている。強い存在が入るだけで、弱いものは外へ押し出される。昨日までの狼も、ただはぐれた訳ではなくこの件と同じ理由で逃げてきたのかもしれない。
「魔獣、なのか」
バイルの声は低い。
ミアは即答せず、地面に鼻先を近づける。
「……血と、焦げた匂い」
その一言で、背筋が冷えた。
焦げた匂いは森のものではない。自然に生まれるものではない。
(魔獣は炎も吐くの…?もし吐くこの森は──)
その時だった。
「グルオォォォ!」
腹の底に落ちる咆哮が響き、葉が震え、鳥が一斉に飛び立つ。空気が押し潰されるような圧にレナは足が止まりそうになる。
怖い。
昨日までの森は恐ろしくても“静かな場所”だった。だが今は違う。森そのものが軋んでいる。
「出くわす前に戻るか?」
バイルの声は乾いていた。恐れではない。状況を測った上での判断だ。
「この咆哮の主がただの獣じゃないことはもう分かる。おそらく魔獣だろう。君が攻めてきた訳じゃないことは、アイツらも…もう分かってるはずだ」
だがミアは、ゆっくりと首を横に振る。
「浅層まで来たら止めきれない。戻ったとしてもいずれ戦いになる」
その言葉は、森の奥で軋む何かと同じ重さを持っていた。ここで退けば、流れは村へ向かう。ただそれだけのことだ。
「なら、どうするだ。魔獣と戦う気か?」
「倒すしかない」
「追い返すんじゃなくて?」
倒すというミアの言葉に思わずレナの口から言葉がこぼれる。
ミアは視線を森へ向けたまま答える。
「森のものはいるべき場所へ押し戻す、それだけでいい。だが魔獣は違う。この森に魔獣は居ないはずだから。」
獣人族達のしてきたことはただ殺すことではない。均衡を保ち、縄張りを離れた個体はいるべき場所へ戻す。そうして森を守ってきた。
だが、異物が混ざりこんだらバランスは一気に崩れ始める。そうなる前に早々に異物を排除するしか無い。
その瞬間、前方の木立が大きく揺れた。
幹が軋み、枝が裂け、葉が吹き飛ぶ。そしてその間から黒い影がゆっくりと姿を現した。
狼とは比べものにならない体躯。煤けた毛並みの奥で筋肉が蠢き、背には岩のような硬質の突起が連なっている。吐息は白く、熱を帯び、周囲の空気を歪ませていた。
そして、真っ赤な眼。
それは飢えた獣の目ではない。侵し、踏み潰し、蹂躙する側の目だ。これは───
「……魔獣」
「これが…」
バイルの呟きとミアの言葉が落ちる。
魔獣は森の流れを無視してそこに立っていた。縄張りも層も関係なく、ただ“強さ”だけで空間を占有している。存在そのものが圧力だ。
魔獣が一歩、踏み出すだけで地面が沈み、振動が足裏から胸へと突き上げる。心臓がそのリズムに引きずられるような感覚がする。
逃げたい。今駆け出せば助かるかもしれない。
だがその先には村がある。この重さが浅層へ流れ込む光景が、頭の奥で鮮明に浮かぶ。
「だめだ。逃げちゃ…だめだ」
足は浅瀬側へとは動かなかった。
いや、動かさなかった。
──ここで止めるしかない。
3人の思いが一致したその時、
ミアが一歩前へ出て叫ぶ。
「ここから先は通さない!」
「グオォォ!!!」
そこに立つと決めた者の覚悟の叫びに、魔獣が答えるかのように唸り、空気を震わせる。
「レナ、わしらの後ろに下がってるんだ」
2人の邪魔にならないよう、少しだけ後方へとさがる。圧倒的な存在の前にして、膝は震え、呼吸は乱れ、それでも、目だけは逸らさなかった。
しかし真っ赤な眼がゆっくりとレナを捉える。
捕食者と少女の視線が交差する。
そして、その凶悪な爪を振りかぶり
「まずい!レナ避け───」
その瞬間、世界が軋んだ。
音が遠のき、落ちかけた葉が、露の雫が、空中で引き延ばされる。揺れていた木陰が輪郭だけを残し、色が抜けていく。
代わりに、見えないはずのものが浮かび上がる。
「これは……線?」
魔獣の脚から地面へ沈む重さの流れ。振り上げられた爪が描く軌道。ミアの立つ位置から広がる均衡の支点。バイルの重心の揺れ。
それらが細い光の筋となって、幾重にも交差して絡まり、押し合い、ぶつかり、崩れかけている。
その中で、ミアの隣にわずかに歪んだ空白があった。
「っ!!……そこじゃない!」
それは勘だった。狙われているのは私ではなくミアだと直感的に思ったのだ。だから、言葉と共に咄嗟にミアを突き飛ばした。
その刹那、魔獣の爪が振り下ろされた。
空気が裂け、轟音と共に地面が爆ぜる。
だがその一撃は、ミアが立っていたはずの位置をわずかに外れ、土と木片だけを吹き飛ばした。
衝撃波が頬を打ち、見えていた線が消える。
それと同時に世界の色が戻り、音が戻る。そして引き伸ばされた時間が、一気に頭に流れ込む。
「っくは!?」
膝から力が抜け、心臓が遅れて暴れ出す。息が荒く、激しい頭痛のせいか視界が揺れている。
今、何が起きたのか。未来が見えたのか。
いや違う。ただ、崩れる場所が分かっただけだ。
ミアが振り返る。
その瞳には、戦士の冷静さと、わずかな疑念。
「……見えていたの?」
レナは首を振る。
「わか…らない……でも」
言葉が続かない。
胸の奥で、まだ何かが脈打っている。世界の奥、いつもの景色とは別にもう一層あると知ってしまった感覚。
「グルゥゥ…」
魔獣が再び唸る。
レナは割れそうな頭痛の中、震える足でもう一度立つ。
強くはない。戦えない。剣も持たない。
それでも、
「……絶対に、逃げない」
誰もまだ知らない。
この力がやがて――
《境界観測》と呼ばれることを。
まだ、ただの村娘でしかない少女が
勇者も、魔王をも巻き込み、
この世界の均衡すらも揺らす力になることを。
次の瞬間、魔獣が再び咆哮する。




