1話 怒鳴り声の朝
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まただ。
この真っ白で、何もない空間に戻ってくるたび、胸の奥が重く沈む。
ここがどこなのか、どうしてここへ来るのか。理由は分からないのに、ただ一つだけ確かなことがある。
──私は、ここに来るのが初めてじゃない。
思い出す。
█████時の衝撃。何度も████刻まれた感覚。血の匂いと、██できなくなるあの瞬間。██が失われてこぼれ落ちる感覚。
全部、覚えている。
「……また、“█████”」
言葉にすると、喉の奥が少し震えた。
何度も同じことを繰り返している。ここに戻るたび、その事実だけははっきり分かる。
けれど、それだけだ。
⬛︎を経験しても、██が増えるだけで██は増えない。
記憶も、██も、██も、何も。
この⬛︎の私は、結局████ことが出来ない。
「……なのに」
どうして私は、動けなかったんだろう。
もっと動けたはずだった。もっと違う選択があったはずだった。
何度考えても、答えは出ない。
ここでどれだけ後悔しても、もう遅いことだけは分かっている。
そして──
「……どうせ」
ここを出れば、きっと全部忘れる。
諦めれば終わるのだろうか。この███から抜け出せるのだろうか。
もう諦めても…
「…っ、それは出来ない。絶対にそれだけは」
この空間のことも。思い出したはずの⬛︎も。何度も████きたことさえ。
「それでも…」
それでも、今だけは覚えている。
「次は…次こそは絶対に…!█████…!!」
その██を胸の奥に残したまま、██の意識は静かに沈んでいった。
◇
「おい!俺の酒代はどこへやった!?」
壁を震わせるような父の怒鳴り声で、レナは目を覚ました。
まだ夜の名残が残る時間だった。
窓の隙間から差し込む光は弱く、部屋の中はまだ青暗い。
布団の中はかすかに温もりを保っているのに、胸の奥だけがひやりと冷えた。
次に聞こえたのは、なにかが床に叩きつけられる音だった。乾いた破裂音。陶器が割れたのだと、すぐにわかる。
母の声は、しない。
それが、いちばん怖かった。
レナは布団の中で目を閉じたまま、呼吸を浅くする。起きていると気づかれないように。父の機嫌が悪い朝に物音を立てるのはよくないと、体が覚えている。
「薬草? 薬草だと? これを買うだけの余裕がどこにあるんだ!?」
棚にある薬草に気づいたのだろう。
苛立ちを押し殺そうともしない声が、居間から響いてくる。怒りというより、追い詰められたような荒さがあった。
母は三日前から熱を出している。
最初は「ただの風邪よ」と笑っていた。額に手を当てても、まだ余裕のある顔をしていた。けれど二日目の夜には起き上がれなくなり、昨夜は息が荒く、言葉も途切れがちだった。それでもレナの手を握って、「大丈夫」と微笑んだ。
その笑顔が、今は胸に重い。
板張りの床を踏み鳴らす足音が近づいてくる。廊下を渡り、レナのいる部屋の前で止まった。
心臓が跳ねる中、戸が激しく開く。
怖い。起きていると知られたらなんと言われるだろうか。震える体を必死に抑える。
「チッ」
舌打ちの音とともに足音は遠ざかっていく。
「寝てるなら寝てろ! どうせ何もできやしないんだからな!」
吐き捨てるような言葉が、壁越しに届く。
それが母に向けられたものなのか、自分に向けられたものなのか、レナにはわからなかった。ただ、そのどちらであっても胸が痛むことに変わりはない。
布団の中で、拳を握る。
怖い。
父の声も、割れた音も、荒れた空気も、全部怖い。
ただ、このままずっと布団の中に籠っている訳にもいかない。母が心配だからだ。
少しして、戸口の開閉する乱暴な音が響いた。外気が一瞬流れ込み、また閉ざされる。父が出ていったのだろう。家の中に残るのは、割れた陶器の欠片と、言葉の残骸のような静けさだけだった。
レナはゆっくりと布団から起き上がる。足を床につけると、冷えがじわりと伝わってきた。音を立てないように気をつけながら、隣の部屋へ向かう。
母は薄い毛布に包まれ、横になっていた。昨日額に乗せた濡れ布はもう乾ききっている。呼吸は荒いが、眠っているようだった。
「……お母さん」
小さく呼ぶ。
返事はない。
レナは急いで乾ききった布を取替えつつ、そっと母の手に触れ、その熱に息をのむ。昨日よりも、確実に高い。指先まで熱がこもっている。
当然だ。濡れ布さえ交換せずに怒鳴るだけの父がいるのだ。身体的だけではなく精神的にも弱っているのだろう。
これでは治るものですら治るはずがない。
レナは母の手を両手で包み込む。
「待っててね。新しい薬草、買ってくるから。」
声に出したのは、それだけだった。
父に知られれば怒鳴られるだろう。もしかしたら、もっとひどいことになるかもしれない。
──怖い。
確かに、家には薬草を買うほどの余裕すら無い。それくらいはレナにもわかっている。
けれど、このまま何もしなければ母を失うかもしれない。そう思いながらこの家の中で、なにもできずにただ母の熱が上がっていくのを見ているだけのほうが、ずっと怖かった。
そもそもお金が無い原因は、ろくに働きもせずに飲んだくれている父のせいである。
昨日買った薬草だって、私が宿屋の手伝いをして稼いだお金から払った物だった。
レナは台所へ向かい、小さな籠を手に取って布を一枚忍ばせた。床に散らばっている割れた陶器の欠片を片付けて、足音を立てないように戸口へ向かう。
戸を開ける前、振り返る。
眠る母。
静まり返った家。
怒鳴り声の残り香のような空気。
──待っててね。
レナは唇を引き結び、戸を押した。
冷たい朝の空気が頬を打ち、光を落としたようなホワイトブロンドの髪が風で揺れる。東の空が、わずかに白み始めている。
覚悟を決めた少女の小さな一歩が、家の外へ踏み出される。
その先に待つものを、まだ知らないまま。




