第二十二章 餓鬼の島・師弟
ロムルスの目の前に、コーヒーとサンドイッチが盛られたランチプレートが置かれている。
しかし、食欲が無く、手をつけられないままのコーヒーとサンドイッチは、冷えきっていた。
お話茶屋博士と再会した、ロムルスの脳裏には、大学時代に講義室で聞いた、博士の重厚な声音がいまなお鮮明に響いている。
あの頃の自分は、若く、何も知らぬただの留学生だった。祖国の未来を背負うなどという大仰な意識もなく、ただ東京の華やかさに目を奪われていた。
そんな甘い日々を過ごしていた彼を、博士の一つの講義が容赦なく引きずり起こしたのだ。
その日の講堂は満員だった。博士の講義は、東響大学でも異色で、しかも留学生には人気があった。
外部の学生まで聴講に訪れるほどだった。
文学と歴史が混ざり合い、社会問題にまで及ぶ深い思索に満ちた授業。
毎回、学生たちに新たな衝撃を与えた。
博士はいつもと変わらぬ落ち着いた様子で壇上に立った。
そして、突然レコードプレイヤーを回し始める。
古びたスピーカーから流れてきたのは、かつて一世を風靡したという「フランシーヌの場合」という曲だった。
『フランシーヌの場合は、あまりにもお馬鹿さん』
『フランシーヌの場合は、あまりにもさみしい……』
軽妙なリズムに乗って流れるその歌詞を聞いて、日本語をまだ能く解することのできない留学生たちは一様に笑った。
ロムルス自身もまた、最初の歌詞の間の抜けた滑稽さに呆れ、思わず声を出して笑ってしまった。
だが、笑い声を響かせる教室のなかで、ただ一人、お花茶屋博士だけが凍りついたように厳しい目をしていた。
「諸君、いま諸君はなぜ笑った?」
博士が低い声音で問いかけると、教室の空気が瞬時に張り詰めた。
「笑った理由を聞いている。歌が滑稽だったからか?」
誰もが気まずく口を閉ざした。
ロムルスもまた顔を上げることができず、机の上のノートをじっと見つめたままだった。
「この歌を、単なるユーモラスな歌だと思った者は手を挙げろ」
ちらほらと手が挙がった。だが、多くは戸惑いに支配され、身動きが取れなかった。
「この歌は、実はフランシーヌ・ルコントという若い女性の死を歌ったものだ。彼女は1969年3月30日、パリでベトナム戦争への抗議を叫びながら、ガソリンを被り自らの体に火を放った。そして命を絶った」
次に、博士がリモコンのボタンを押すと、スクリーンにモノクロの写真が大写しになった。
映し出されたのは、どこかヨーロッパの古い町並み。石畳の道に一人の若い女性が佇んでいる。
手には小さな花束、彼女の表情は微かに笑っているようだが、その瞳には悲しみが色濃く映っていた。
「彼女が、フランシーヌだ」
博士は淡々と語り出した。
「この写真が撮られた時代、ベトナムで罪の無い多くの命が奪われた。彼女の目には、無惨に殺される人々の姿が映っていたのだろう。彼女の運命を知る者は、この写真の背後に潜む物語をも、知らなくてはならない。フランシーヌの場合、すべてが哀しみに変わった。そして、我々が本当に目を向けるべきは、彼女が抱えていた悲しみそのものだけではなく、彼女の抱いた悲しみを通して、私たち自身は人間として、どう生きるべきかを考えなくてはならない」
ロムルスはその写真を見て、なぜか全身に冷たい痺れを覚えた。
まるで写真の中の女性が自分をじっと見つめているように感じられたのだ。
博士の言葉は、彼の耳に入っては来るが、なぜかその意味を追うことができない。
ただ、その女性――フランシーヌの哀しい目が、彼の心臓を鷲掴みにして離さなかった。
教室は沈黙に包まれた。
自分たちが今さっき笑った歌が、実は一人の若い女性の壮絶な自死を伝えていたと知り、学生たちの表情は一様に固くなった。
博士は鋭い視線を全員に向け、再び問いかけた。
「それでもまだ笑えるかな?」
誰も答えられなかった。ロムルス自身もまた、笑ってしまったことを恥じ、体が凍り付いたかのように動けなかった。
「かように、物事の真意は表面的な文言や旋律だけでは掴めない。表層を一皮めくったところにこそ、真実が隠されている。この曲はその典型だね」
博士は黒板を叩き、続けた。
「最初の歌詞を聞いただけでは、まるで知的障害者を揶揄したような歌にしか聞こえない。戦争のことなど露ほどにも触れられていないが、その奥には鮮烈な歴史と、痛烈な社会批判が込められている。歌はひとつの暗号であり、その奥底には人間の慟哭が凝縮されているのだ」
博士は淡々とした口調でそう語り終えると、次のスライドを見せた。
「これは1960年代末のビアフラ紛争の飢餓地域で撮影された写真だ」
学生たちはその写真を凝視し、誰もが息を呑んだ。そこには餓死寸前の幼い子供が、骨と皮ばかりの腕を差し伸べる姿が写されていた。
皮膚は乾き、眼窩は深く陥没し、すでに死を待つばかりの様相だった。
「彼女はこの写真を身につけていたという。この写真に対して諸君はどう反応するか? 哀れみか、同情か、それとも目を背けるのか?」
博士は静かに、だが鋭く問いかける。学生たちは誰一人として声を発することができなかった。
「人間とはそういうものだ。理解しがたいほどの現実を前にすると、まず逃避するか、笑い飛ばしてしまう。だが、本当の知性とは、そこで終わりにするのでは無く、奥に隠された意味を見抜く力だ。詩や歌、言葉に記されただけでは読み取れない真実が隠されている。それを掴める者こそが、本当の意味で知性を持つ人間だ。私は、君たちが知性に目覚め、己が真に何をなすべきかを知り、この無慈悲で欺瞞に満ちた今の世界を、良き方向に導いてほしい。私の切なる願いだ……」
ロムルスはこの瞬間、自らの心が引き裂かれるのを感じた。
表層だけをなぞり、何も深く考えず、目先の快楽に溺れていた自分の愚かさが露呈されたような気がした。
ロムルスは、その後勤勉に励み、祖国の飢餓問題に取り組むことになる。
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