第十五章 赫の芽吹き・契り
1
朝食を終えて遥は、ダイニングルームの扉を静かに閉じた。
立ち止まり、ふっと今の自分に思いを寄せる。
三人で食卓を囲んだその静かな時間の中で、なぜだか、自分だけが置き去りにされているような、そんな感覚があった。
この人たちは、何処まで、斎と私の事を慮ってくれているのだろうか?
孟谷勲、お花茶屋博士。確かに、昨日の闘いにおける私たちの救世主だった。しかし、昨日の車の中、さっきの朝食での言葉を聞く限り、私たちを"闘いの駒"として扱っているようにも思える。
彼等にとっては、昨日の闘いも、ただ"赫の一族の歴史に記されるべき出来事の一つ"に過ぎないのではないのか。
だがすぐに、そこに思いを巡らせてしまった自分を、遥は小さく責めた。
この人たちが、自分たちを護るためにどれほどのものを犠牲にしているかを、忘れてはいけない。
けれど、それでも。
私は、斎のことを、護りたい。
思えば、いつからだったのだろう。
斎のことを"仲間"としてだけではなく、"誰か大切な一人"として、特別に意識するようになったのは。
彼と初めて出会った時、当初は斎という人間の裡なるものが理解できなかったのだろう、共に進むことに若干の戸惑いがあった。
仲間になろうと、手を差し出しながら、初めて出逢った時の、他人を寄せつけようとしない冷たい瞳。
風魔、雷桜に襲われた時、造作もなく戦の帷の結界を張った時の、感情の昂ぶりを叩きつけるような、あの赫の力の大爆発。
どこか、人の形をしていながら、人ではないもののようだった。
でも、知った。
斎のあの目の奥に、誰よりも深い孤独があることを。本当は、誰かを傷つけることを恐れていることを。
誤って、自分の焔で、善き魂を持つ誰かを焼いてしまうことを、本当は、心のどこかで恐れていることを。
遥は、斎の"焔"に触れた時、あの赫の暴走の中で、彼が誰にも言えないまま、裡に隠していた恐れと絶望の一端を、確かに感じた。
限界を知らず、闘争本能の思うままに、我武者羅に焔を奮う。
眼を逸らすことなく、彼の放つ焔に近づこうとする限り、これからも、遥自身もまた傷つく事があるだろう。
だが、それでも、斎の裡なるその焔がいつの日か、"誰かを温める"ものになってほしいと、願わずにはいられなかった。
遥は、エレベーターに向かって歩き出した。
ふと、立ち止まり、トレイに載せられたままの斎の朝食をふと思い出す。
ナイフとフォークに整然と添えられた布ナプキン。温度を保つ銀蓋の下で、まだ湯気を含んでいるだろうステーキ。
――食べているだろうか。
それとも、見向きもせずに冷たくさせているのか。
エレベーターホールに差しかかると、そこに小さな人影があった。
メイド服に身を包んだ少女――綾乃だった。
綾乃は、銀の食器が並んだトレイを丁寧に抱えていた。
クロスに包まれた蓋付きの皿と、カトラリー。
あれは、きっと斎の朝食。
「綾乃……?」
遥が声をかけると、綾乃はぱっと顔を上げた。
その顔には、朝日を受けてわずかに紅潮した頬があった。
「お姉様!」
明るくはきはきとしたその声に、遥は自然と笑みを返した。
「……それ、斎の?」
綾乃は頷いた。
「はい。厨房で預かりました。斎様の今朝のお食事です」
「……彼の部屋に?」
「ええ。私がこれからお届けするところですが」
遥は、言葉を遮るように微笑んで言った。
「私が持っていくわ。ちょうど、会いに行こうと思っていたところなの」
綾乃の顔が、ぱっと花のように明るくなった。
「本当ですか? うれしいです!」
彼女は腕の中のトレイを、そっと遥に差し出した。
遥は丁寧にそれを受け取り、バランスを確認する。
温かな香りがクロスの下からわずかに立ち上る。
「……綾乃は、これから何か予定が?」
遥が何気なく尋ねると、綾乃は顔を少し上気させて答えた。
「はい、今日のお昼から、お友達と一緒に、台場のビーチまで散策に行ってそのあとお買い物に行くんです」
「ビーチ?」
「はい。先生の許可ももらいました。日帰りですが……ずっと楽しみにしていたんです」
綾乃の声には、少女らしい無邪気な喜びがあった。
それは戦いや葛藤といったものとは無縁の、日常の幸福の温度だった。
遥はふと、自分がかつて持っていたはずの日常を思い出した。
海へ行くこと。笑い合う友達の声。砂浜に残す素足の跡。
「いいわね。……楽しんできてね」
「はい!」
綾乃はうれしそうに頷いた。
そのまま、彼女は軽くお辞儀をすると、くるりと回って帰っていった。
背後でドアが閉まるまで、遥はその姿を目で追っていた。
その小さな背中は、確かに生きている者の命の光を宿していた。
遥は、トレイを持ったまま、斎の部屋の方へと歩き出した。
その足取りはゆっくりと、けれど迷いのないものだった。
このまま、扉の前に立ってノックをする。
斎が応じてくれるかどうかは、わからない。
だが――たとえ拒まれても、彼の前に立つことに、意味がある。
遥はそう思っていた。
廊下の突き当たり、斎の部屋の扉の前。
遥はトレイを片手に持ち直し、もう一方の手で、そっとノックした。
「……斎。朝ごはん、持ってきたよ」
返事はなかった。
けれど遥は、それでも立ち去らなかった。
廊下には、陽射しと沈黙だけが、ただ静かに満ちていた。
2
遥はそっと指先で扉を叩いた。
しかし、三度目のノックを終えても、返答はない。
「……斎、入ってもいい?」
声をかけても、沈黙が戻ってくるだけだった。
部屋は、最高級のセキュリティを誇る。
電子ロックと機械ロックの二重構造。
カードキーなしでの解錠は不可能――のはずだが。
だが、遥はそっと目を閉じた。
掌に、小さな熱が宿る。
赫の焔――それは怒りの炎でも、破壊の爆発でもない。
いま彼女が灯しているのは、微細で静かな"焔"。
気の流れを読むように、錠前の内奥に神経を這わせる。
摩擦の向こう、金属の声を聞く。
歯車の噛み合わせ、バネの弾性、ロジックICの流れ。
焔は、熱だけではない。
赫の血が操るのは、力の"形"そのものだった。
カチリ、と小さな音が鳴る。
遥が手を放すと、鍵が静かに外れていた。
開かれた扉の向こうに、斎の身体の匂いが鼻をくすぐった。
斎の部屋は、薄暗かった。
カーテンは閉じられ、遮光フィルムで外光はほぼ遮られている。
照明も点けられておらず、わずかに天井の通気口から差し込む青白い光が、空間をぼんやりと浮かび上がらせていた。
壁はスモーキーブルー、備え付けの棚には、目を覚ましてから、一夜の間に郎党に集めさせたと思しき、書籍の類が無造作に積まれ、ベッド脇のナイトテーブルも開きかけの漫画単行本が幾冊か投げ置かれている。
遥は一歩、足を踏み入れた。
ベッドの上。
その中心に、斎がいた。
白い布団にくるまり、背を向けている。
髪は少し乱れており、首筋が汗で濡れていた。
シーツの上には、どこか不穏な熱が残っているように見える。
「孟谷さんに叱られたのね」
「……」
枕元にも、書籍がいくつも積まれていた。
平井和正の『幻魔大戦』、柴田昌弘の『紅い牙』、西村寿行の『峠に棲む鬼』、夢枕獏の『陰陽師』シリーズ。
そして、無造作に積み重ねられた文庫と単行本の中に、永井豪の『デビルマン』第1巻があった。
遥は、眉をひそめた。
「……あなたの、イメージトレーニングって……漫画ですか?」
声をかけると、布団の中から呟きが返ってきた。
「五月蠅い……」
くぐもった声。だが、確かに斎のものだった。
遥はため息をつきながら、部屋の明かりを点ける。
やや暗めに調整された灯りが、積まれた本の背表紙を照らし出す、漫画本特有の毒々しい背表紙。
「何よこれ。あんたの訓練、全部エンタメベースだったの?」
斎は答えない、むしろ、不貞腐れたように布団をさらに引き上げた。
遥は床にしゃがみ込み、デビルマンの漫画の単行本の第1巻を手に取った。
紙は使い込まれ、表紙は柔らかくなっていた。
「……面白いの?」
布団の中から、ぼそりと声が返る。
「……どうかな。……でも、そいつは、3巻の途中でやめとけ」
遥が顔を上げる。
「なんで?」
斎は、顔を出さないまま、低く言った。
「そこから先は……おすすめできない。精神衛生上、よくねぇ。この国の奴らが、俺たち、赫の一族にやったことが、そのまんま、まるっと描いてある」
遥は、静かに本を閉じた。
指先に感じる古い紙の温度と、そこに込められた痛みのような何かが、胸に残った。
「……精神衛生上、よくないって、どういうことよ?」
斎は、布団の中から顔をのぞかせた。
枕に埋まった横顔。髪がかすかに汗で貼りついている。
「3巻の途中からさ、世界が変わるんだよ。物語の空気そのものが……ひっくり返る」
「それって、バッド・エンドってこと?」
「それどころじゃねえ」
斎の声は淡々としていた。
「善も、悪もなくなる。愛する人を救うために戦っていた主人公の不動明が、何のために戦ってたのかその意味も、戦う大義も失われ、最後に残るのは、無力感と、憎しみと、侵され、穢され、破壊された者の骸だけだ」
遥は視線を落とし、膝に置いた本を見つめた。
「……救いのない話なのね」
斎はうっすらと笑った。
「"救い"なんてさ、お伽噺の作者が作ったもんだ。俺たちが生きてるこの世界に、もともと最初からそんなもんはない」
遥はゆっくりと呼吸を整え、斎の瞳をまっすぐに見た。
「すると、あなたは……不動明にはならない、ってこと?」
斎のまぶたがわずかに動く。
布団の中の手が、ぎゅっと拳を握っていた。
「ああ。ならないさ」
「なぜ?」
「……あいつは、愛する人を護ろうとして、人間を信じて、結局、信じていたはずの人間に裏切られて全てを失った。俺は、違う。俺は最初から、誰も信じていない。俺を脅かすものは、容赦しない。たとえ神であっても、だ」
遥は黙ってその言葉を聞いていた。
斎の口調に、怒りも悲しみもなかった。
ただ、冷たい決意だけがあった。
それが逆に、遥の胸に何かを強く打った。
「悲しいね……それ、わたしは……」
遥はゆっくりと言葉を紡いだ。
「あなたほど強くないかもしれない。でも、わたしには、護りたい人がいる。信じたい人たちがいる。全てを失うといわれても、その想いは、絶対に棄てられない……」
斎は黙って遥を見つめた。
「わたしは、あなたと違って……最初から、誰かに支えられて生きて来た」
「恥ずかしいことじゃない」
「恥じてなんか、ない。でも、傷つけるのが怖い。……私を支えてくれた人たちが、私を支えたが故に傷つくのが怖い」
斎の視線が、かすかに揺れた。
「……それなのに、全てを敵に回してもいいなんて言ってる俺の前から逃げないのか。俺といると、お前が護りたい人、信じたい人、皆が酷い目に遭うかもしれないんだぞ」
「逃げない。私はあなたと一緒に闘うと決めたから」
その言葉に、斎は驚いたように瞬きをした。
遥の声は静かだったが、決して揺るがなかった。
斎はゆっくりと布団から身体を起こした。
Tシャツの裾からは、昨日の闘いで出来た痣がまだうっすらと残っている。
「……そんな眼で見んなよ」
「どんな眼?」
「……なんか、救いの神のような眼をしやがって」
「救ってるんじゃない。お互いを信じて、一緒に、闘いたいだけ」
斎はしばらく黙っていた。
初めて出逢った時、学院の屋上で、斎がやったように、今度は、遥が斎に手を差し出した。
斎がその手を見て、ゆっくりと自分の手を重ねた。
彼の手は、熱かった。赫い焔の名残を感じた。
遥の手が、わずかに震えた。だが、斎の手がしっかりとそれを握り返す。
「……じゃあ、約束だ」
「うん」
「どっちかが壊れそうになったら、もう片方が止める。それができないなら、灰になるまで……共に、赫い焔の中で燃え尽きる」
遥は頷いた。
二人が交わしたもの、それは、戦士の契りであり、友としての、あるいはもっと深い絆の証だった。
部屋の空気が、すこしだけ変わった。
遥は目を細め、枕元の本の山を見やった。
「それにしても……平井和正、柴田昌弘に西村寿行、夢枕獏、永井豪……。なんか極端すぎない?この部屋の本」
「勘弁してくれ。本当は好きなんだよ、こういうやつ」
「"黄金の犬"とか、"陰陽師"とか、"百鬼夜行"とか?」
「そういうのしか、信じられねえんだよ、俺は」
遥はくすっと笑い、立ち上がった。
「じゃあ……その犬と陰陽師と一緒に、百鬼夜行の行列に、私も加えてよ」
斎は、珍しく笑った。
「お前、どんだけ物好きなんだよ」
遥は笑いながら、彼の手を引いた。
立ち上がる斎の背に、覚悟と何か新しいものが、確かに宿っていた。
ふたりは、並んで部屋を出た。
長く暗い廊下の先に、陽光が差していた。
新たな闘いが始まる。
されど、今は――
二人には、それを迎え撃つだけの、確かな絆があった。
毎日午前6時に更新(新章追加)されます。よろしくお願いします。