表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/17

第十五章 赫の芽吹き・契り

   1

 朝食を終えて遥は、ダイニングルームの扉を静かに閉じた。


 立ち止まり、ふっと今の自分に思いを寄せる。


 三人で食卓を囲んだその静かな時間の中で、なぜだか、自分だけが置き去りにされているような、そんな感覚があった。


 この人たちは、何処まで、斎と私の事をおもんぱかってくれているのだろうか?


 孟谷勲、お花茶屋博士。確かに、昨日の闘いにおける私たちの救世主だった。しかし、昨日の車の中、さっきの朝食での言葉を聞く限り、私たちを"闘いの駒"として扱っているようにも思える。


 彼等にとっては、昨日の闘いも、ただ"赫の一族の歴史に記されるべき出来事の一つ"に過ぎないのではないのか。


 だがすぐに、そこに思いを巡らせてしまった自分を、遥は小さく責めた。


 この人たちが、自分たちを護るためにどれほどのものを犠牲にしているかを、忘れてはいけない。


 けれど、それでも。


 私は、斎のことを、まもりたい。


 思えば、いつからだったのだろう。


 斎のことを"仲間"としてだけではなく、"誰か大切な一人"として、特別に意識するようになったのは。


 彼と初めて出会った時、当初は斎という人間の裡なるものが理解できなかったのだろう、共に進むことに若干の戸惑いがあった。


 仲間になろうと、手を差し出しながら、初めて出逢であった時の、他人を寄せつけようとしない冷たい瞳。


 風魔、雷桜に襲われた時、造作もなく戦の帷(イクサバ)の結界を張った時の、感情の昂ぶりを叩きつけるような、あの赫の力の大爆発。


 どこか、人の形をしていながら、人ではないもののようだった。


 でも、知った。


 斎のあの目の奥に、誰よりも深い孤独があることを。本当は、誰かを傷つけることを恐れていることを。


 誤って、自分の焔で、善き魂を持つ誰かを焼いてしまうことを、本当は、心のどこかで恐れていることを。


 遥は、斎の"焔"に触れた時、あの赫の暴走の中で、彼が誰にも言えないまま、裡に隠していた恐れと絶望の一端を、確かに感じた。


 限界を知らず、闘争本能の思うままに、我武者羅に焔を奮う。


 眼を逸らすことなく、彼の放つ焔に近づこうとする限り、これからも、遥自身もまた傷つく事があるだろう。


 だが、それでも、斎の裡なるその焔がいつの日か、"誰かを温める"ものになってほしいと、願わずにはいられなかった。


 遥は、エレベーターに向かって歩き出した。


 ふと、立ち止まり、トレイに載せられたままの斎の朝食をふと思い出す。


 ナイフとフォークに整然と添えられた布ナプキン。温度を保つ銀蓋の下で、まだ湯気を含んでいるだろうステーキ。


 ――食べているだろうか。


 それとも、見向きもせずに冷たくさせているのか。


 エレベーターホールに差しかかると、そこに小さな人影があった。


 メイド服に身を包んだ少女――綾乃だった。


 綾乃は、銀の食器が並んだトレイを丁寧に抱えていた。


 クロスに包まれた蓋付きの皿と、カトラリー。


 あれは、きっと斎の朝食。


「綾乃……?」


 遥が声をかけると、綾乃はぱっと顔を上げた。


 その顔には、朝日を受けてわずかに紅潮した頬があった。


「お姉様!」


 明るくはきはきとしたその声に、遥は自然と笑みを返した。


「……それ、斎の?」


 綾乃はうなづいた。


「はい。厨房で預かりました。斎様の今朝のお食事です」


「……彼の部屋に?」


「ええ。私がこれからお届けするところですが」


 遥は、言葉を遮るように微笑んで言った。


「私が持っていくわ。ちょうど、会いに行こうと思っていたところなの」


 綾乃の顔が、ぱっと花のように明るくなった。


「本当ですか? うれしいです!」


 彼女は腕の中のトレイを、そっと遥に差し出した。


 遥は丁寧にそれを受け取り、バランスを確認する。


 温かな香りがクロスの下からわずかに立ち上る。


「……綾乃は、これから何か予定が?」


 遥が何気なく尋ねると、綾乃は顔を少し上気させて答えた。


「はい、今日のお昼から、お友達と一緒に、台場のビーチまで散策に行ってそのあとお買い物に行くんです」


「ビーチ?」


「はい。先生の許可ももらいました。日帰りですが……ずっと楽しみにしていたんです」


 綾乃の声には、少女らしい無邪気な喜びがあった。


 それは戦いや葛藤といったものとは無縁の、日常の幸福の温度だった。


 遥はふと、自分がかつて持っていたはずの日常を思い出した。


 海へ行くこと。笑い合う友達の声。砂浜に残す素足の跡。


「いいわね。……楽しんできてね」


「はい!」


 綾乃はうれしそうに頷いた。


 そのまま、彼女は軽くお辞儀をすると、くるりと回って帰っていった。


 背後でドアが閉まるまで、遥はその姿を目で追っていた。


 その小さな背中は、確かに生きている者の命の光を宿していた。


 遥は、トレイを持ったまま、斎の部屋の方へと歩き出した。


 その足取りはゆっくりと、けれど迷いのないものだった。


 このまま、扉の前に立ってノックをする。


 斎が応じてくれるかどうかは、わからない。


 だが――たとえ拒まれても、彼の前に立つことに、意味がある。


 遥はそう思っていた。


 廊下の突き当たり、斎の部屋の扉の前。


 遥はトレイを片手に持ち直し、もう一方の手で、そっとノックした。


「……斎。朝ごはん、持ってきたよ」


 返事はなかった。


 けれど遥は、それでも立ち去らなかった。


 廊下には、陽射しと沈黙だけが、ただ静かに満ちていた。


    2   


 遥はそっと指先で扉を叩いた。


 しかし、三度目のノックを終えても、返答はない。


「……斎、入ってもいい?」


 声をかけても、沈黙が戻ってくるだけだった。


 部屋は、最高級のセキュリティを誇る。


 電子ロックと機械ロックの二重構造。


 カードキーなしでの解錠は不可能――のはずだが。


 だが、遥はそっと目を閉じた。


 掌に、小さな熱が宿る。


 赫の焔――それは怒りの炎でも、破壊の爆発でもない。


 いま彼女が灯しているのは、微細で静かな"焔"。


 気の流れを読むように、錠前の内奥に神経を這わせる。


 摩擦の向こう、金属の声を聞く。


 歯車の噛み合わせ、バネの弾性、ロジックICの流れ。


 焔は、熱だけではない。


 赫の血が操るのは、力の"形"そのものだった。


 カチリ、と小さな音が鳴る。


 遥が手を放すと、鍵が静かに外れていた。


 開かれた扉の向こうに、斎の身体の匂いが鼻をくすぐった。


 斎の部屋は、薄暗かった。


 カーテンは閉じられ、遮光フィルムで外光はほぼ遮られている。


 照明も点けられておらず、わずかに天井の通気口から差し込む青白い光が、空間をぼんやりと浮かび上がらせていた。


 壁はスモーキーブルー、備え付けの棚には、目を覚ましてから、一夜の間に郎党に集めさせたと思しき、書籍の類が無造作に積まれ、ベッド脇のナイトテーブルも開きかけの漫画単行本が幾冊か投げ置かれている。


 遥は一歩、足を踏み入れた。


 ベッドの上。


 その中心に、斎がいた。


 白い布団にくるまり、背を向けている。


 髪は少し乱れており、首筋が汗で濡れていた。


 シーツの上には、どこか不穏な熱が残っているように見える。


「孟谷さんに叱られたのね」


「……」


 枕元にも、書籍がいくつも積まれていた。


 平井和正の『幻魔大戦』、柴田昌弘の『紅い牙』、西村寿行の『峠に棲む鬼』、夢枕獏の『陰陽師』シリーズ。


 そして、無造作に積み重ねられた文庫と単行本の中に、永井豪の『デビルマン』第1巻があった。


 遥は、眉をひそめた。


「……あなたの、イメージトレーニングって……漫画ですか?」


 声をかけると、布団の中から呟きが返ってきた。


五月蠅うるさい……」


 くぐもった声。だが、確かに斎のものだった。


 遥はため息をつきながら、部屋の明かりを点ける。


 やや暗めに調整された灯りが、積まれた本の背表紙を照らし出す、漫画本特有の毒々しい背表紙。


「何よこれ。あんたの訓練、全部エンタメベースだったの?」


 斎は答えない、むしろ、不貞腐れたように布団をさらに引き上げた。


 遥は床にしゃがみ込み、デビルマンの漫画の単行本の第1巻を手に取った。


 紙は使い込まれ、表紙は柔らかくなっていた。


「……面白いの?」


 布団の中から、ぼそりと声が返る。


「……どうかな。……でも、そいつは、3巻の途中でやめとけ」


 遥が顔を上げる。


「なんで?」


 斎は、顔を出さないまま、低く言った。


「そこから先は……おすすめできない。精神衛生上、よくねぇ。この国の奴らが、俺たち、赫の一族にやったことが、そのまんま、まるっと描いてある」


 遥は、静かに本を閉じた。


 指先に感じる古い紙の温度と、そこに込められた痛みのような何かが、胸に残った。


「……精神衛生上、よくないって、どういうことよ?」


 斎は、布団の中から顔をのぞかせた。


 枕に埋まった横顔。髪がかすかに汗で貼りついている。


「3巻の途中からさ、世界が変わるんだよ。物語の空気そのものが……ひっくり返る」


「それって、バッド・エンドってこと?」


「それどころじゃねえ」


 斎の声は淡々としていた。


「善も、悪もなくなる。愛する人を救うために戦っていた主人公の不動明ふどうあきらが、何のために戦ってたのかその意味も、戦う大義も失われ、最後に残るのは、無力感と、憎しみと、侵され、穢され、破壊された者の骸だけだ」


 遥は視線を落とし、膝に置いた本を見つめた。


「……救いのない話なのね」


 斎はうっすらと笑った。


「"救い"なんてさ、お伽噺の作者が作ったもんだ。俺たちが生きてるこの世界に、もともと最初からそんなもんはない」


 遥はゆっくりと呼吸を整え、斎の瞳をまっすぐに見た。


「すると、あなたは……不動明にはならない、ってこと?」


 斎のまぶたがわずかに動く。


 布団の中の手が、ぎゅっと拳を握っていた。


「ああ。ならないさ」


「なぜ?」


「……あいつは、愛する人をまもろうとして、人間を信じて、結局、信じていたはずの人間に裏切られて全てを失った。俺は、違う。俺は最初から、誰も信じていない。俺を脅かすものは、容赦しない。たとえ神であっても、だ」


 遥は黙ってその言葉を聞いていた。


 斎の口調に、怒りも悲しみもなかった。


 ただ、冷たい決意だけがあった。


 それが逆に、遥の胸に何かを強く打った。

 

「悲しいね……それ、わたしは……」


 遥はゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「あなたほど強くないかもしれない。でも、わたしには、護りたい人がいる。信じたい人たちがいる。全てを失うといわれても、その想いは、絶対に棄てられない……」


 斎は黙って遥を見つめた。


「わたしは、あなたと違って……最初から、誰かに支えられて生きて来た」


「恥ずかしいことじゃない」


「恥じてなんか、ない。でも、傷つけるのが怖い。……私を支えてくれた人たちが、私を支えたが故に傷つくのが怖い」


 斎の視線が、かすかに揺れた。


「……それなのに、全てを敵に回してもいいなんて言ってる俺の前から逃げないのか。俺といると、お前が護りたい人、信じたい人、皆が酷い目に遭うかもしれないんだぞ」


「逃げない。私はあなたと一緒に闘うと決めたから」


 その言葉に、斎は驚いたように瞬きをした。


 遥の声は静かだったが、決して揺るがなかった。


 斎はゆっくりと布団から身体を起こした。


 Tシャツの裾からは、昨日の闘いで出来た痣がまだうっすらと残っている。


「……そんな眼で見んなよ」


「どんな眼?」


「……なんか、救いの神のような眼をしやがって」


「救ってるんじゃない。お互いを信じて、一緒に、闘いたいだけ」


 斎はしばらく黙っていた。


 初めて出逢であった時、学院の屋上で、斎がやったように、今度は、遥が斎に手を差し出した。


 斎がその手を見て、ゆっくりと自分の手を重ねた。


 彼の手は、熱かった。赫い焔の名残を感じた。


 遥の手が、わずかに震えた。だが、斎の手がしっかりとそれを握り返す。


「……じゃあ、約束だ」


「うん」


「どっちかが壊れそうになったら、もう片方が止める。それができないなら、灰になるまで……共に、赫い焔の中で燃え尽きる」


 遥は頷いた。


 二人が交わしたもの、それは、戦士の契りであり、友としての、あるいはもっと深い絆の証だった。


 部屋の空気が、すこしだけ変わった。


 遥は目を細め、枕元の本の山を見やった。


「それにしても……平井和正、柴田昌弘に西村寿行、夢枕獏、永井豪……。なんか極端すぎない?この部屋の本」


「勘弁してくれ。本当は好きなんだよ、こういうやつ」


「"黄金の犬"とか、"陰陽師"とか、"百鬼夜行"とか?」


「そういうのしか、信じられねえんだよ、俺は」


 遥はくすっと笑い、立ち上がった。


「じゃあ……その犬と陰陽師と一緒に、百鬼夜行の行列に、私も加えてよ」


 斎は、珍しく笑った。


「お前、どんだけ物好きなんだよ」


 遥は笑いながら、彼の手を引いた。


 立ち上がる斎の背に、覚悟と何か新しいものが、確かに宿っていた。


 ふたりは、並んで部屋を出た。


 長く暗い廊下の先に、陽光が差していた。


 新たな闘いが始まる。


 されど、今は――


 二人には、それを迎え撃つだけの、確かな絆があった。


毎日午前6時に更新(新章追加)されます。よろしくお願いします。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ