第十章 赫の芽吹き・憤怒
1
午前八時を三十分ほど過ぎていた。
衆議院議員会館のロビーには、突然、帝都を襲った未曽有の超大規模磁気嵐の対策をめぐり昨日来から続く政府対策本部の緊張が、乾いた空気のように残っていた。
陣幕源治は、上着の襟を無造作に正すと、深く息を吐いた。
足元には、昨夜から履き続けていた革靴が、くたびれた光を宿している。
靴下が汗で滲む。
都心直下に突如発生した磁気嵐は、発電設備のトラブルを引き起こし、国土交通省の通信網を破壊し、鉄道、金融を麻痺させ、病院の医療機器の誤作動を引き起こした。
それでも表向き、政府発表は「通信障害の原因は、自然現象によるものであると思われるが、未だ調査中である。
今のところ、今後、火急の危機はないと予想される」として、国民に伝えた。
それで良い。下級国民など、真実を知らされずに生きている方が幸福なのだ。
源治は昨夜から一睡もしていない。
いや、それだけではない。
背広の裏地を湿らせているのは、政治家としての疲労ではなく、血脈を同じくする〈彼等たち〉の、死の咆哮を、薄く、しかし確かに感じ取っていたからだった。
秘書が「お車のご用意ができました」と小声で告げる。
源治は無言で頷き、重い扉を押し開けた。
梅雨前の東京の朝は、湿気とともに車の排気で濁っていた。
黒塗りのレクサスLS600hが静かに寄せられ、後部座席のドアが開く。
乗り込んだ瞬間、座席の対面に座していた男が、ゆるりと頭を下げた。
法衣姿の禍眼導師・冥影、50歳。
源治と同じ邪馬統の系譜に連なるこの老導師は、政と呪、両界をまたぐ神勅の会の長老格であり、源治が唯一「使うに足る」と認める知恵者だった。
「ご苦労だったな、冥影。……野党どもの様子は?」
源治が問うと、冥影は口元をわずかに歪めた。
「どうしてくれる!まどうてください!あんたらもうやめなさい……、ただただ罵倒の限りを尽くすことに必死のようですな……野党どもには、現実の危機など耳に入らぬようです」
カスどもめ!
本質を問うことなく、重箱の隅を楊枝でほじくり出して騒ぐ連中どもが……。
……まあ、重箱をちゃんと洗わないのも問題は、あるのだがな……。
源治は鼻を鳴らし、黙ったままネクタイをゆるめた。
車は静かに仙台坂へ向け、永田町を後にした。
走り出してしばらく、冥影は、細い指で革鞄から一枚の封筒を取り出した。
「遅ればせながら、昨夜の"現場"について報告がございます」
源治は眉をひとつ動かすだけで応じた。
「八傑衆より。蒼刄姫・冥華、及び配下の風魔・雷桜が、赫の一族に――敗れました」
時間が止まったような空気だった。
車内の冷房が微かに唸る音だけが、源治の耳に残った。
「……冗談は、言わんだろうな?」
低い声が、空気を割った。
「我が目で確かめております。蒼刄姫は、命こそ取り留めましたが、赫き焔を止めるには至らず。むしろ、その噴出を招いた格好です」
車内の空気が、はっきりと変わった。
2
源治のまぶたの奥が熱を帯び、こめかみがぴくりと動く。
「……赫の焔が、都心に踊ったと?」
「はい。結界内の戦闘でしたので、直接目撃された者はおりませぬ。ただ、磁気嵐の波動と同時に異能の兆候が感知され、事後の現場に“赫の痕”が確認されております」
冥影の言葉は淡々としていたが、内容は致命的だった。
神勅の支配が象徴する〈平穏なる帝都〉において、赫の焔が公然と顕現したのだ。
源治は拳を握った。指の関節が白く変わる。
「冥華が……赫の息吹に、遅れを取ったのか」
冥影は目を伏せたまま、静かに肯いた。
「赫の息吹は、もはや一人の力ではありませぬ。覚醒した“赫”たちが連鎖し、何か大きな流れに変わりつつあるように感じます」
「……弥生は、今どこにいる」
「仙台坂の地下。医療班の手当てを受けつつ、懺悔の構えにてお待ちしております」
源治は鼻で笑った。冷たい笑いだった。
「赫の焔に油を注いだ者が、懺悔で済むとでも思うておるのか」
冥影は応えなかった。
代わりに、車が仙台坂の旧御屋敷前に静かに停まる音が、二人の間に落ちた。
「お館様の今の立場もございます。いよいよ、夏の参議院議員の選挙が、近づいておりまする。今一度、赫と一戦交えるとなると、昨日のような騒ぎが再度怒らないとは断定できません。されば、我らが与党を推す、下級国民どもの心に乱れが生じるやもしれません。一旦、拳を開いて赫を導く者と、膝を一度交えてみては……」
冥影の問いを、源治は、容赦なく遮った。
「下等な弱者への情けなど、赫に与える道理はない」と。
扉が開く。
朝の陽は、すでに高く昇りかけていたが、聖堂の門はなお重く、冷たく閉ざされていた。
3
地下聖堂は、戦後の再建時に改修されたはずだったが、そこに流れる空気は、まるで千年前のまま凍りついたようだった。
重い鉄扉を開くと、礼拝室の奥、石床に両膝をつき、ひとり膝を折る少女の姿があった。
冥華蒼刄姫・弥生。かつて帝都に“蒼の鬼火”と恐れられた神勅の刃である。
だが、今は見る影もなかった。
衣は裂け、肋を数本砕かれたまま治癒の呪を受けながら、額を冷たい床に擦りつけている。
源治の足音に、弥生の肩が一度だけ震えた。
「……お父上……」
かすれた声。
その語尾は、痛みににじむ咳にかき消された。
「赫の焔を止められなんだ、か」
源治は問いではなく、呪詛のように吐き捨てた。
「……不覚にございます……ッ」
弥生は、肋の痛みを堪えるように、震える指先で拝礼の印を結んだ。
血が滲んでいた。
源治は黙って、その姿を見下ろす。
「赫の力の流れに最も近い位置に、貴様を置いたのは他でもない。この地で赫を喰い止めるためだ。それを、果たせなんだか」
弥生の額が、床に深く沈んだ。
「……お裁きを……」
その一言に、源治の掌が空を裂いた。
鈍い音と共に弥生の頬が赤く腫れ、石床に血の飛沫が飛び散った。
源治はしばしの沈黙の後、吐き捨てるように言った。
「雷桜と風魔の回復を待て。その間、貴様の命は預けておく」
弥生が、わずかに顔を上げる。だがその目は、安堵でも感謝でもなかった。
「……再び、お役目を頂けるのであれば……命を賭して、赫を討ちます」
源治は背を向け、無言で歩き出した。背中に怒りと冷酷さをまとったまま。
冥影が扉の前で軽く頭を下げた。
「御身に刻まれた傷の痛みが、赫への憎しみに転ずることを」
扉が、重々しく閉ざされた。聖堂の奥に残された弥生の呻きは、誰にも聞こえなかった。




