4. 初・人間にクッションを投げられる
ズィに聞いた通りに考えると、苦戦していた書物の文章が自然に読めるようになった。
そのまま音が似た単語や活用が似た単語についても見直していると、いつのまにか数日が過ぎていた。
使用人が運んでくる食事は本を片手に持って食べ、別のことをしている時間も考え事は続けているので、その間ズィは放置である。
図らずもマレが最初に棄却した『放置し続けて自分からここを出て行かせる案』が取られているのだが、ズィはいまだに部屋にいる。
「なあ、そろそろ私のことも構え」
「邪魔しないで。暇なら出て行けば」
「……」
この繰り返しである。
マレがぴしゃりと断るとなぜか素直に黙るので放置していたのだが、しばらくするともぞもぞし始める。
とはいえマレは本に熱中しているので特にしつこいとも思わず、というか気が付かず、そのまま時間ばかりが過ぎていた。
「——はぁ」
最後の文の訳まで書き終えて、意味が通ることを確認する。
苦戦していた翻訳が全て完了し、マレは達成感に満足の息を吐いた。
「終わったのか!?」
「……誰?」
「誰!?」
叫ぶようにマレの言葉を繰り返してギョッとする美貌の男を見て、数日前の記憶を取り戻す。
「ああ、ズィ。まだいたの」
「いるわ! そしてそう、私はズィだ! そなた、せっかく私に名を授けたのだから呼ばねば意味がないではないか! この4日間私のことはずっと放置! このような扱いを受けたのは初めてだぞ」
だからなんだ、と思ったが面倒そうなので口にはしない。
「ようやくその本が読み終わったというのならば、次は私との話に付き合ってもらおうか」
「……経過したのが4日だというのなら、それは無理ね」
「なぜだ!?」
時間を確認しながらにべもなく断ると、ズィはわなわなと震えながらぎゃんっと叫んだ。
(……あまり見たことがあるわけでもないけど、子どもみたいね)
「晩餐の予定があるの。この時間になっても遣いが来ないということは通常通り行われるはずよ」
「晩餐だと? それは私より優先するべきことなのか?」
「そうね」
マレが軽くあしらおうとすると、ズィは悪者じみた笑みを浮かべる。
「マレはいまだに理解していないようだがな、私は神なのだ。人間よりもできることはずっと多い。そなた、あまり私を侮らぬ方が良いぞ?」
嗜虐的な表情になった彼はこれまでの中で最も神らしい。
マレはひたりとズィの目を見つめた。
(困ったものね……)
神を名乗るズィを過度に邪険にしようとは思わないが、今日は本当に時間がないのだ。
普段であればきちんと予定を気にしながら行動するのだが、翻訳のラストパートで熱中してしまったこともあってぎりぎりの時間になってしまっている。
「……そういえば、あなたが先日言っていた契約とやらについて話を聞いていなかったわね。説明してもらえるかしら」
唐突な話題転換だったが、ズィは自分の脅しが効いてマレと話ができることに満足したのか、表情を明るくして質問に答えた。
「ああ、契約か。世界の理のひとつだ。契約を破った場合、その主体には大きな罰が課される。父神でさえ逃れられぬ唯一の理と言えよう。手首の内側を見てみろ」
そう言われて見たマレの右手首には、美しく複雑な造形の紋様が浮かび上がっていた。
白い肌に鮮やかな黒で刻まれたそれは非常に目立ち、先ほどまで無かったことは確かである。
「いつのまに……?」
「普段は見えないようにできるからな。そら、私にも」
そう言って見せられたズィの手首にも同じものがある。
契約とやらがマレとズィの間で結ばれたのは確かであるようだ。
であれば。
「残念ながら今、あなたが私の邪魔をすることはできないのではなくて?」
「は? あ、まさか、晩餐とやらが契約に関わると?」
狼狽えた様子で何かを試し、失敗したのか固まってしまったズィを完全に無視して立ち上がると、分かりやすく衝撃を受けているズィが顎を落とした。
「……あなた、仮にも自分が神であるというのならば間の抜けた表情を晒すのはいかがなものかしら」
「そなたのように意地の悪い人間は初めてだ!」
ソファの上に蹲ってくぐもった声でそう叫ぶ様子があまりにも悲惨なので、隣室で身支度をしながら話に付き合ってやることにする。
「ズィ」
「なんだ!」
扉越しのマレの呼びかけに答える声は、揶揄われたことに怒っているとアピールしつつも構ってもらえた喜びを隠しきれない幼子そのものである。
(……忙しいお兄様にくっついてあしらわれたときの私にそっくりね)
幼い頃の自分はさぞ鬱陶しかっただろうと反省しつつ、適当に話題を探す。
「私のように意地の悪い人間に出会ったのが初めてということは、それなりに人間に関わってきたのかしら。そもそもあなた、一体何歳なの?」
「いや、意地が悪いというのは言葉の綾のようなもので……そなたに対して本当にそう思っているわけでは……」
「その部分は別にどうでもいいわ」
(さて、今夜のドレスはどうしましょうね。誕生日パーティーが終わってしばらく参加が必要な公式行事がないということは、間違いなく王太子は仕掛けてくるはず。となると帰ってきてからのことを考えて、着脱のしやすいものかしら。まあ、その点で考えると私の衣装は良く言えばシンプルなものしかないのだけれど)
王城で生活して姫君と呼ばれる者の衣装を保管する場所とは到底思えない、部屋ですらないワードローブの中の数少ない選択肢を眺める。
「年齢については数えたこともないな。いつも一眠りしている間に時間が過ぎているし。そういえば、前回私が眠ったのは丁度カナンサジュの没後200年だったんだが、どれほど時間が経ったんだ?」
「ケニン・フィランは今年で没後1218年とされているわ」
「ほう? では意外と早く目覚めたようだな」
約1000年眠っていて早く目覚めたというのは、時間の感覚がかなり違うということであろう。
「人間に関わってきたのかという質問については、まあそうだな。それぞれの時代で言語を覚えて友人を作ろうと試みたこともあるが、皆私を崇めて信仰の対象にするか捕らえて願いを叶えさせようとするかばかりで、あまり満たされた感じはしなかったな。カナンサジュをはじめとしたフィランの者はそなたと同じで会話ができたし、過度に崇められることもなかったから付き合いやすかったが。そなたは何歳なのだ?」
「15」
「15……!人間はほんに小さな生き物よのう……」
衝撃を受けているようだが、1000年を短く感じる者にとっては天寿をまっとうした者の人生も短いだろう。
「では、ここはどこなのだ? フィランのそなたがいるということは、フィラン王国の王城か?」
「………暇をしていた4日の間にそのくらいは情報収集したと思ったのだけれど」
言外にその程度のこともしないで何をしていたのかという意味を含ませたが、ズィは気にかけた様子もない。
マレは小さく息を吐いて説明してやる。
「フィラン王国王城の一角よ。あなたのいうカナンサジュ——ケニン・フィランは建国の父…………」
そこでマレはあることを思い出し、まさかという思いで身支度の手を止め、隣室に続く扉を見つめる。
「ああ、言われてみるとあの辺りの宮殿は私が建てた記憶があるな」
おそらく窓から外を眺めながら言っているであろうそのセリフに、やっぱり、とマレはこめかみを押さえる。
ズィは、フィラン王国の建国神話に出てくる神だ。
建国の父ケニン・フィランは元々普通の平民だったが、それが一代で王国を築くまでになったのは、彼を気に入った一柱の神が彼のために城を築いたためであるとされる。
その城を中心として周囲に人が集まり、民となって国が形成された。
度々ある天災や火事などでも王城の中央宮殿はその形を残してきており、それは神の加護があるためであるというのが建国神話だ。
およそ150年前に禅譲による王朝交替が起き、現在のミークシャー朝が始まった。
それ以来は建国神話も語られなくなり、現在はほとんど知られていない。
ズィの口から次々に出てくる壮大な話にマレは若干頭が痛くなるのを感じた。
「うん? であれば、なぜそなたが私の建てた宮殿に暮らしていないのだ」
「は?」
「そなたはフィランだろう。あの宮はフィランのために建てたものだ」
「…………」
マレが支度を終えてズィのいる部屋に戻ろうとした瞬間にそう言われ、ドアノブを持つ手が固まる。
(そう、あの宮はフィランのもの。フィランが存在する限り、あれは他の誰のものにもならない………だからこそ、あの者どもは)
「マレ?」
コンコンコン
返事をしないマレの名を呼ぶズィの声にぱっと顔を上げて扉を開くのと同時に、廊下につながる別の扉がノックされるのが聞こえた。
マレは焦りを露わにして小声でズィに呼びかける。
「誰か来た。奥の部屋に行っていて。ばれないように、早く!」
それまでずっと表面上は冷静に話をしていたマレの態度の急変に、ズィは少し驚きながら「落ち着け」と言った。
「他人に姿が見えぬようにできるから、ここにいても大丈夫だ」
「万一ということがあるでしょう! とにかくどこかに行って!」
「ああ待て。ほら、これでどうだ?」
声を残して突然消え失せたズィに、マレは思わず周囲を見回してしまう。
瞬間、再びズィがどこからか姿を現した。
自慢げな顔をするズィに苛ついたマレは、彼にクッションを投げて来客に対応しに向かう。
ちなみに、室内は常に散らかっているので訪れた者に見られたところで転がるクッションを不審に思われることはない。
「何の用」
「王太子殿下の遣いで参りました。姫君に宛てたお言葉をお預かりしておりますゆえ、拝謁叶いますでしょうか」
今日の晩餐は通常通り行われるものと思ったが、急に中止になったのだろうか。
積極的に参加したいものでは全くもってないので構わないが。
そう考えながら扉を開くと、そこには王太子の従者が最敬礼をとりながら立っていた。
定型の挨拶を終えて王太子の伝言を述べるよう促す。
「本日の晩餐について、開始時刻を通常の半刻早めることとする」
以上でございます、と告げて再び礼をする従者の頭を眺め、マレは首を傾げながら訊ねる。
「半刻早めるとなると晩餐はあとほんの少しで始まるということのようね。伝言は私に直接持ってきたのかしら」
「左様でございます。申し訳ありませんが、お急ぎくださいますようお願い申し上げます」
「急いだところで遅刻は確定ね」
王太子は、フィランの姫を蔑ろにしたということね。
そう考えたマレだが、言ったところで意味はない。
「すぐに行くわ。あなたは先に戻ってそう伝えなさい」
「恐れ入ります」
(心にもない。一体何を恐れるというのか)
辞去の挨拶を述べて立ち去る従者にそう思いながら、部屋の扉を閉める。
「……何」
振り返った室内で怒りを露わに立っているズィを見て、マレは困惑に表情を崩した。




