十五話
また翌朝、光誠が寝坊をしていると夏掛けの上に腰を下ろされた。
「う」
「んんっ、お兄ちゃん起きてえええ!」
「うおっ! うるさい!」
瑠璃のビブラートが鼓膜を直撃し、光誠は飛び起きた。
「な、なんだ?」
地震か火事でもあったのかと、辺りを見回して耳を澄ませるも騒がしさはなく、瑠璃と紫織がベッドをベンチ代わりにしている。
「兄さん、今日は一日私たちに付き合って欲しいのだ」
「なら、朝食の時でも良いだろう」
「プール、ランチ、縁日とやることはたくさんある」
「勝手にそんな予定を組んだのか?」
「兄さんの今月分のお小遣いは、雲雀さんから預かっている。返して欲しければ付き合うのだ」
「なに?」
お小遣いは、各家庭の長から支給される。
八木姉妹は藤華紗から、瑠璃は羽歌から、そして光誠は雲雀からだった。
寝坊して雲雀と接触する機会がなかったせいで、お小遣いを預けられた。
「さぁ、状況と立場がわかったらプールに行く準備と食事だよ!」
瑠璃が光誠の腕を引っ張り、身体を引き起こす。
「ぐ、卑怯な」
「いつも可愛い妹たちを虐める悪いお兄ちゃんにはお似合いだね」
「虐めてないだろ。あと、可愛いのは認める」
「シオリン! お兄ちゃんがカワイイだって!」
「今のは言わせただけなのだ」
瑠璃や紫織は、部活や夏期講習で忙しかった。
遊ぶ予定を組むのは大変だったろうと起き抜けの頭で想像した。
まったく使う予定のなかった水着袋を引っ張り出し、海パンやタオル、ラッシュガードを放り込む。
「終わったら食事なのだ」
まるで囚人のような扱いだった。
手を引かれ背中を押されて、食卓へ座らされると口にパンを突っ込まれた。
「ごふっ、そこまでしなくていい!」
「早く食べるのだ。プールがカップルだらけになってもいいのか?」
「夏休みなんだからどこへ行ってもカップルだらけだろ」
「ルリ気になってることがあるんだけど、ここにもカップルがいるみたいなんだよね?」
光誠はリアクションを取るまいとパンを咀嚼することに集中した。
紫織と瑠璃は、そんな光誠へ顔を寄せてじっと表情を伺う。
さりげなくキスの相手を読み取ろうとする油断のならない義理の妹たちだった。
「雲雀姉さんたちのことかな?」
光誠は、世話になっている姉を隠れ蓑にする。
「シオリン」
「雲雀さんを犠牲にするとは思ってもいなかったのだ」
「お兄ちゃん、ひどくない?」
「口が堅いことはわかった。また次の機会を狙うのだ」
次があるのかと、光誠は一日の始まりにうんざりする。
この場の追求を避けるため、話題を変えることにした。
「いつも思うんだが、二人は本当の姉妹みたいに仲がいいんだな」
まるで最初から姉妹だったように二人は馴染んでいた。
性格がまるで違うのに、紫織は瑠璃の騒がしさに拒否を示さない。
瑠璃もまた紫織の冷たさに腹を立てたことがない。
光誠でさえ、紫織にはとっつきにくいイメージを持ち、瑠璃にはうっとうしさを感じる。
二人がいつ仲良くなったのか疑問だった。
「同じクラスの他人だと思ってた人が姉妹になるって面白すぎるよね。しかも血が繋がってないから姉妹なのに他人だし、よくわかんなくてシオリン大好き」
瑠璃の主張は、論理もクソもないフィーリングのみの繋がりだった。
「瑠璃ちゃんの言うとおり、私たちはユニークな姉妹だ。でも一番の理由は、一緒にいても嫌にならないことだと思うのだ。それはなぜかと言うと」
「言うと?」
光誠は、瑠璃の的確な言葉で表現することを待った。
それが朝食の時に聞くべきない言葉になるとは思いもしなかった。
「私も瑠璃ちゃんもここに来るまで、寂しかったから」
「そう! それだね! さっすがシオリン!」
二人が笑い合う。
日高家では、珍しくない光景だった。
表情に乏しい紫織と空元気に見える瑠璃は、影を隠していた。
その影を共有する存在を得たとき、影は小さくなった。
二人にとって、光誠の父が残したこの家は寂しさをなくす場所になっている。
父の心残りは解消されつつあった。
父の願い通りに。
兄として慕われてはいても、その功績は父に譲らざるを得ない。
妹二人を救ったのは父だった。
その大きな仕事を尊敬しつつ、悔しさも感じていた。
兄として、妹たちの絶えない笑顔を守りたいと思いが強くなる。
「そういえばさ、シオリンとルリが同性愛だったら結婚できるの?」
「できるのだ」
「待て、なんの話をしている!」
「同性愛の話だよ?」
「うむ。ちなみに私と瑠璃ちゃんが別々に同性愛のパートナーを持つと、兄さんの妹がさらに二人増えることになる」
「なにそれ面白そう! 四人でお兄ちゃんのベッドに乗れる?」
「ノリが良ければ」
「やめろ! 俺を潰す気か!」
光誠は、まだ見ぬ妹が増えないことを祈るばかりだった。
朝食を終えると身支度を整えて、妹たちとプールへ向かった。
徒歩で行ける近所の屋内プールへと案内された。
体育館ほどの広さで、長方形のプールが一つあるだけの地味な施設だった。
「なぜここを?」
「カップルは邪魔なのだ。水泳が楽しめない」
紫織が言い切った。
そういう紫織は、ホルターネックでワンピースタイプの水色の水着を着ており、首から背中までががっつりと開いていて光誠は目のやり場に困った。
光誠と違い、身体に傷一つない肌は水に濡れればさらに艶が出そうだった。
長い髪は三つ編みのまま後頭部でぐるぐると巻いてシニヨンにしていた。
光誠は紺の海パンに白いラッシュガードを着ていた。
身体の傷が人目につくのは気分の良いものではない。
一緒にいる妹たちにも迷惑が掛かると思った。
「じゃーん! どう?」
遅れてきた瑠璃は、オフショルダーの青いビキニを着ている。
光誠が思わず注目したのは、ほっそりとしたくびれよりもうっすらと割れた腹筋だった。
合唱部で発声に必要なトレーニングを続けた結果だ。
髪の毛は頭の両サイドでお団子になっている。
「いい腹筋だ」
「そこじゃないでしょ! 水着を褒めてよ!」
「瑠璃は可愛い」
「み・ず・ぎー!」
人影のまばらな穴場とも言える冴えない施設で光誠たちは水と戯れた。
「シオリンってば全然日焼けしてないね」
「うん、正当化の原則を守っているのだ」
「え、なに? 全然わかんない。お兄ちゃんわかる?」
「いや、俺もさっぱりだ」
時々、紫織は難しいことを言う。
紫織は、プールサイドへ腰掛けて、水に浸かる兄妹へ向けて講釈を始めた。
「紫外線を浴びることはビタミンDを作ったりするから悪いことばかりではない。こういうリスクと引き換えたメリットがあることを正当化の原則と言うのだ。日焼けのデメリットを考えて、色々と工夫していたりする」
「へー」
「へー」
「兄さんも今日のプールへ来たことはメリットがある」
「ん? なんだ?」
「私と瑠璃ちゃんの貴重な水着姿を見れた」
「そうだー!」
賛同とともに瑠璃が水を掻き上げて光誠をびしょ濡れにする。
「ほう、それでお終いか?」
「あれ? なに? お兄ちゃん怒ったの?」
光誠は怯える瑠璃の首根っこを掴み、膝の裏に手を回すと一気に持ち上げた。
「あ、ちょっと待って! 高いって!」
「ほーれ、高い高い~」
「ぎゃああああ!」
瑠璃の絶叫とともに水しぶきが上がった。
「兄さん! 私も!」
紫織が敏感に反応し、プールへ飛び込んできた。
「いいぞ」
光誠は瑠璃と同じように紫織を抱え上げると、放り投げた。
「おー!」
反応に乏しい紫織にしては盛大なリアクションをしながら水没する。
「ぷはっ」
先に沈んだ瑠璃が顔を出し、紫織がその隣へ無言で顔を出した。
二人は顔を見合わせると、なにかがツボに入ったように笑い合う。
それが心からの笑いであることを光誠は願った。
「兄さん、背中に私たちを乗せて泳げたりできる?」
「ん、できるぞ」
光誠は腰を曲げて水面に背中の島を作る。
紫織は光誠の背中へとよじ登った。
「おー」
「進むぞ」
「おー!」
紫織は興奮すると「おー」しか言わなくなるようだった。
「ルリもー!」
「なに?」
ジャバジャバと追いかけてきた瑠璃が、光誠の背中に乗る。
どういう訳かバランスが悪く光誠は足腰に力を入れて姿勢を保とうとした。
「おい、瑠璃!」
「さっきの恨みー!」
背中の上で足を滑らせるように、瑠璃のヒップドロップが光誠の頭部を襲う。
頭に乗られた光誠は二人を乗せたまま沈んだ。
溺れるようなプールではないので、悪ふざけだった。
ただ、そのふざけ方が幼く、二人の幼少期を垣間見た気がする。
八木の家では、葵が家を出たいと思うほど雰囲気が悪かったし、瑠璃に至っては母子家庭だった。
二人は、父に甘えるということができなかったはずだ。
紫織と瑠璃は先に水上で顔を見合わせると、うなずき合って同時に潜る。
沈みながらそんなことを考えていると、水中で二人が光誠の肩に手を掛けた。
上がってこないから不安になったのだと思っていた矢先、両頬になにかが押しつけられた。
冷たくて少し力がある。唇だった。
水中で悪戯のようにキスしてくるのは人魚のようだ。
光誠は、ぽかんとした拍子に水が気管に入り、慌てて浮上する。
「げっほ、おっほ!」
塩素特有の嫌な臭いが口に充満していた。
「だ、大丈夫?」
「プールの中でするのは失敗だったのだ」
瑠璃が心配し、紫織が反省する。
光誠としては、それを追求するよりも呼吸を整えて言うことがあった。
「あー、落ち着いた」
二人は、光誠の傍でバツが悪そうに怒られるのを待っていた。
「二人とも」
光誠が声を掛けると、二人は上目遣いで光誠を見る。
すでに反省しているようだった。
「唇が紫色だ。そろそろ上がろう」
光誠はそう言ってさっさとプールから上がった。
二人の顔は見なかった。ランチでもしながらゆっくりと話をするつもりだった。
プールの後に近くのファミリーレストランで昼食を取った。
プールでのことは、光誠が誰かとキスをしたと聞いてから立てた作戦だという。
「どうしてそれをしようと考えたんだ?」
聞くか聞くまいか悩んだ末、光誠は聞くことを選んだ。
「だって、お兄ちゃんが取られちゃう気がしたから」
「私は、てっきり兄さんと姉さんがしたと思ったのだ」
「えー、シオリン。その想像はないわー。普通に考えてみなぽんでしょ?」
「瑠璃ちゃんは甘いのだ。姉さんならそれくらいやりかねないのだ」
光誠は、否定も肯定もできず沈黙を保った。
葵にキスは迫られなかったものの、裸を見られ、しかもそれを絵に描かれていた。
考えようによってはキスよりも破廉恥だ。
紫織の読みは、当たらずとも遠からずだった。
それよりも、瑠璃の推測に背筋が寒くなる。
キスの相手が美奈星だとなんの根拠もなく思っていた。
瑠璃はハンバーグセットを、紫織はパスタを平らげて、それぞれにイチゴパフェをつつきながら推理合戦を繰り広げた。
「も、もういい。わかった。次は、縁日だな。一度帰るのか?」
「そうだよ。お兄ちゃんが大好きな浴衣に着替えるの」
「そんなこと一言も言った覚えはない」
そう言いつつも、瑠璃と紫織の浴衣姿は見てみたいと思った。
思ってから疑問が浮かぶ。
果たして、それは通常の兄妹でもあるものなのかと。
先ほどのキスやヌードモデルなども兄姉妹でやることではないと思えた。
すでに何か間違えていて、そのまま進んでいるような気がした。
「どうしたのだ?」
「いや、なんでもない」
パフェを食べ終えた紫織が心配そうな顔をする。
プールで笑っていた二人を思い出し、兄妹としての務めも果たしていると思うことにした。
光誠の小遣いから会計を済ませて家に帰り、妹たちの準備が終わるまでベッドで横になる。
久しぶりに水泳などをしたので体力を消耗した。
少し休むつもりでいたのが、うとうとし始め、エアコンから吹き出る風も気持ちよく、眠りに落ちた。
「呼んで来いというから来ましたけど、寝てますね」
葵の声がする。
光誠はあまりにも眠くて目を覆う腕を持ち上げられずにいた。
「あっくん。起きてください。紫織と瑠璃ちゃんが呼んでます。あっくん」
聞こえている。それ以上に睡眠の呼吸を続けることが心地よく覚醒に至らない。
「起きないと知りませんよ?」
葵の声が近づいてきているのはわかった。
唇になにかが触れる。
「は」
「起きました?」
光誠が息を吸い込むのと同時に葵が身体を離した。
「紫織と瑠璃ちゃんが居間で待ってます。縁日に行くんですよね?」
「あ、ああ。そうだけど、今」
光誠が慌てていると、葵は素知らぬ顔で人差し指を唇に当てて、静かにするようにと身振りする。
「内緒ですよ?」
葵はにっこりと笑って光誠の部屋から出て行った。
葵にキスをされた。
眠っていてよくわからなかったが、柔らかい感触が唇に残っている。
落ち着くために深呼吸した。
紫織が言っていたことは事実だった。
葵はやりかねない性格をしており、事実やられてしまった。
真っ先に浮かんだのは美奈星の顔だった。
また、彼女を傷つけるようなことをしてしまったと反省する。
気を取り直して居間に出ると、美奈星がいた。
「あ、光誠くん。紫織ちゃんたちと縁日に行くんだって?」
美奈星はニコニコとしていた。何も知らないから。
「あ、ああ。そうなんだ。美奈星も行くか?」
光誠は、後ろめたさを必死に隠した。
「え、いいよ。二人に怒られそうだから」
「そうか」
「ねぇ」
「ん?」
「なにかあった?」
美奈星や瑠璃の直感が鋭すぎて閉口する。なぜわかるのかと聞いてしまいたくなった。
「なにもないけど」
「そっか。行ってらっしゃい」
「ああ」
光誠は誤魔化し抜くことを選んだ。
ここで正直になって妹たちの楽しみを奪うのは得策でないと思ったのだ。
「遅いのだ」
「悪い」
玄関で待つ紫織に怒られた。
「ねぇ、お兄ちゃん。私たちどうかな?」
紫の生地に赤い金魚の柄が入った浴衣を見せびらかして、瑠璃がくるりと回って見せる。
「そうそう、どうなのだ?」
それに合わせて紫織も瑠璃と並んで、白地に青や紫の朝顔が入った浴衣を見せる。
どちらも涼しそうに着こなし、柄が二人の性格に似合っていた。
明るい瑠璃に華やかなひれを持つ金魚。
静かな瑠璃にひっそりと咲く朝顔。
「似合う。二人にぴったりだ」
「やったよシオリン! お兄ちゃんが褒めてくれた!」
「うん、兄さんもようやく人並の男に成長したのだ」
「何を偉そうに。ほら行こう」
縁日は人が多く、屋台を数軒回るのも大変だった。
二人を引き連れながら歩いているうちに花火が始まってしまい、なんとなく締まりが悪かった。
「んー、花火があまり見れなかった!」
「仕方ない。この人混みだ」
縁日の迷宮から脱出したところで瑠璃が不平を爆発させる。
ちゃっかりと兄の財布から金を出させて買ったリンゴ飴を食べきったところだった。
「そうだ、瑠璃ちゃん。この後、カラオケなんてどう?」
「名案なのだ」
「待て、もうすぐ門限が……」
光誠が夜の出歩きを気にしていると、途端に二人の妹は光誠を恨めしそうに見上げる。
泣きそうな顔をしていた。
「わかった。でも、危ないと思ったらすぐに帰るぞ」
「やったー!」
「兄さんは物わかりがよくて助かるのだ」
「ったく」
調子のいい妹たちはすぐに機嫌を直し、手近なカラオケボックスへと光誠を引っ張っていった。
「お兄ちゃんと練習したこの曲を聴いて欲しい!」
「は?」
借りた部屋に入り、瑠璃が一番に登録した曲を見ても光誠はぴんと来なかった。
歌の練習を思い出そうとして、忘れかけていたことを思い出す。
屋上でハグを要求されたときに、歌の練習だと言っていたのを思い出す。
紫織は、タブレットとにらめっこして歌えそうな曲を探していた。
光誠と瑠璃は、紫織には気づかれないアイコンタクトをする。
瑠璃がはにかみ、屋上での抱擁を思い出して照れていた。
あのときの緊張を光誠も覚えている。
同じものを瑠璃が思い出している。
胸が締め付けられそうなほどに息を止めて、瑠璃の歌声を聞いた。
まっすぐに胸の内側へ抱きつくようなイメージが光誠を支配した。
「兄さん?」
異変を感じた紫織が顔を上げると、光誠は真剣に瑠璃の歌を聴いていた。
瑠璃もまた光誠と目を合わせたまま歌っている。
光誠のためだけに恋に苦しむ女性の歌を熱唱した。
紫織はのけ者にされたような気分だった。
二人だけの空間に居場所がない。
瑠璃の歌が終わるまで、紫織はうつむいて過ごした。
「ふぃー、以上でーす!」
「すごいな。こんなに上手かったのか」
「一年のアイドルだからね!」
光誠は瑠璃へ盛大な拍手を送った。
「いやー、熱い熱い。あ、私ちょっと涼みに行くね」
「ん、ついていこうか?」
「兄さん、トイレだから」
「あ、そうか」
瑠璃が部屋を出て、光誠と瑠璃は隣の部屋から聞こえる誰かの歌声をなんとなしに聞いていた。
「紫織は歌わないのか?」
「私はいい」
「そうか。俺も歌は苦手でな」
高校に入ってからも、こういう場所へ遊びに行く仲間もいなかった。
「兄さん、姉さんとキスしたのか?」
「な」
いきなり飛び出た質問に、光誠は思わず声を上げる。
「姉さんは単純なので、二人きりになればそれをする確率が高いはずだ。だから姉さんに呼び出してもらったのだ」
紫織は、そういいながら浴衣の裾がはだけるのも気にせず光誠の太ももの上に跨がる。
「待て、紫織。どういうつもりだ」
「姉さんが、兄さんと何をしたいのかわかるのだ。そして、私も同じことをよく考える」
徐々に近づく紫織の目は本気だった。
シャボン玉のように複雑な色の幕が張られた濡れた瞳が光誠を捉えて離さなかった。
「ま」
光誠の抵抗は唇と舌をもって塞がれた。
息もつかせぬ舌の奔走に為す術はない。
ただ呆然と紫織の紫織とも思えぬ行動に驚いていた。
紫織は、光誠の細胞を採取したときに感じた違和感を確かめたかった。
血のつながりは、遺伝子の同一性を示すもので、遺伝子が同一であれば本能で拒絶する。
その拒絶する素振りが感じられなかった。
本当に兄妹なのかとさえ思うほど、兄の頭を抱え込み忌避すらしなかった。
むしろ、もっとくっついていたいというあり得ない感覚があった。
それが、科学を信奉するものとして許せなかった。
「はぁ、やっぱりおかしい。兄さんとは半分も同じ遺伝子でできてるのに」
「な、なにが?」
ディープキスで頭が真っ白になった光誠は、紫織の言動を理解するのに時間が掛かった。
紫織は泣きそうだった。
科学を信じたいのに信じられなくなり、兄妹でいたいのに兄妹でいられない。
それから、兄を拒絶しないことを嬉しいと思うところもあった。
どうしたらいいのかわからなかった。
冷静さを失った感情が涙になってあふれ出た。
光誠はとりあえず、紫織を座らせて状況を理解するために立ち上がる。
「お待たせー。あれ、シオリン泣いてる……、え? お兄ちゃん?」
「帰るぞ」
「え、なに、どういうこと?」
瑠璃は状況が飲み込めないままで、光誠も混乱していた。
ただしくしくと泣く紫織の手を引いてカラオケボックスを出る。
帰り道で、光誠は何度も溜め息を吐いた。
瑠璃は事態を知ろうと紫織に話し掛けるも、泣き止んだ紫織はなんでもないと相手にしなかった。
門限を破ったことで、三人は藤華紗と雲雀と羽歌にこってりと絞られた。




