素焼きの小さなチャイカップじゃ、アツい愛情も注げない。
言語化、というものが持て囃されているらしい。
なんかこう日常とか社会生活の中で「モヤっと」「イラっと」したことや、こういう属性の奴ってこういうところがムカつくよな!みたいなことを、スカっと言い当てるとバズって賢い人だと思われるんだろう。
でもまあ、そういうのって結局は世の中をジロジロ見過ぎて何でもかんでも腹立つようになっていくんだろうな。プロのお笑いの人でも世間に切れる芸風は数年で無理が出るのに。なんかこう独自の視点とか、独特の言語感覚に憧れる部分ってあって。
何か違うことをやろう、言ってやろう、という試行錯誤の繰り返しで、伸びてる人たちの言い草ってどことなく似ているんだよな。
ちまきさんって人が前にnoteで書いてたけど、人間だれしも誰かに自分の隠された部分を喝破されて
パァァァァ
ってなりたいんだ。鬱屈としていた心が晴れて目の前がパァァァァって明るくなる。
そのパァァァァってさせる側に、みんななりたい。
でも実際そんなことって滅多になくて、自分がさせる側どころか、する側に回ることだって無い。そりゃそうだ、何千人何万人も見てきた人にだって人間ひとりの心を言い当てることは容易じゃない。誰だって騙されたり裏切られたり、信じたり愛したりするわけで。それを一人一人見抜けるような人が、SNSアカウントにゴロゴロしてたら有難みもないよな。
自分で自分がどんなにありふれた人間だと思ってたって、誰にも真似できないドラマの一つや二つ、一瞬だけでもあるもんだ。それは誰かに見抜けるものでも、言い当てられるためのものでもない。アンタが今そこに立っている、今日その一瞬の積み重ねを続けていくためのものだ。
で言語化。
そういう他人の積み重ね、日々の鬱屈、言葉にするほどじゃないけど誰かにそっと代弁して欲しいような気持ち。
それを、一人一人に寄り添わず、誰にも何の遠慮も無く雑に括って悪意で縛り、静かな湖に音を立てて放り込む。それだけのことだけど、それが刺激のない日々には立派なアクシデントになる。そうやって日々誰かが何処かに、誰かに火をつけて、それを消したり真の火元を暴いて見せて、小銭を稼いでいる。
誰かと違うことを言おうとしたり、やろうとする前に、当たり前のことを当たり前に出来て言えているほうがきっとかっこいいんだ。と40歳を数か月過ぎたところで、ふと思った。身近に(大阪と愛知くらいの距離はあるが)そういう人が居て、私はその人のことが大層お好きなのだが、この人のことをつまらなく、腹立たしく思う人は、きっとそれが今ちょっと疎かなのだろう。自分が出来ないこと、思いもよらないことを颯爽とやってのける人を見たら、嫉妬するか感嘆するか、どっちかだ。
嫉妬する人は自分を悔み、相手に対する蔑みに変える。
見習いたいなと素直に思える自分でありたい。
それは自分が好きな人がそうだから、そういう人が好きで居られる自分で居たいから、ということでもあるが、いくらイケ好かない人であってもちゃんとしてる人のことは認められる程度の心の器は持っていたい。素焼きの小さなチャイカップじゃ、アツい愛情も注げない。




