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『蝶は灰国に沈む』~二人で一人の旅路~  作者: 紅音・フィオ・カワハギ


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第三章 一つの答え⑦

 リュックのショルダーストラップを極端に短くし、余った部分を腹部に巻いて締めつける。

(なるほど。これでもインナーが透けて見えない。黒い服に拘るのはそういう意味があったんだね)

 セルマは目を赤く光らせ、足をノクーヴェに変えて全力で走りだした。

 土埃を巻き上げながら畦道を駆け抜けていく。

 数分足らずで農家が見えてくる。家は真っ暗だが、念のため少しスピードを緩めて駆ける。

(このペースだと遅くても三時間以内だね。あの電車と勝負したら?)

 左に目を向けると遥か彼方で走る電車の明かりが見えた。月明かりだけが頼りの畑からは、明かりが夜空を流れるようだった。

 走りながら少し微笑むと、前傾姿勢でスピードを上げ、電車を抜いていく。目の前に自分の頭を越える高さの岩が現れ、ハンドスプリングで飛び越えた。

 電車とは方向が違うようで、いつの間にか電車の明かりはなかった。代わりに前方に明かりが現れる。

(あれがケフースか?)

(いや、それはさすがに早すぎる。うーん、三軒、あるね。個人経営じゃなくてどこかの企業じゃないかな)

(監視設備はあると思うか?)

(あると想定したほうがいいね)

 見えてきた建物は工場のように大きかった。

 マティンゲンファームという大きな看板があり、州で一、二を争う一流企業だとレインが説明した。

 建物は小さな明かりだけだが、できるだけ迂回し、全力で走る。

 風が心地よい。 

 ――もし、何かの奇跡が起きて、アウス・エーヴィスに会えたなら……。

 空は雲がほとんど消え、星が瞬いている。

 二つの月が畑の続く地平線の大地を照らす。

 それから休憩を挟まず二時間は走った。

 やがて、微かに上り坂になり始め、遥か先に、連なる尾根が見えてきた。

(あの山は?)

(ケフース連山)

(じゃあ……)

 手前の建物の明かりも見えてきて、顔が綻ぶ。

(ボク、ノクーヴェになりたい)

(私の村でトレーニングするか? 崖を走って登ったり、川を逆立ちして進んだり、あとは大雨で濁流が発生したらそれに逆らって走るんだ)

(それ、ノクーヴェなら誰でもできる?)

(濁流逆走は村では私だけ。他は知らない)

 次の言葉は出てこず、黙レインを必要としなかった。

 走るのをやめ、歩く。畑が続いたまま山に向かって民家が増えていく。

(これだけ畑があるのに山に集落を作らなくてもいいと思うが)

(歴史と地理の観点から簡単に話すと、古くは、水だよね。遥か昔には機械なんてないし、上質な湧き水を求めて近くに住んだんだ。話の流れからするとセルマの心配は土砂崩れだよね。昔も今も心配の種。だから民家は必ず高台にあるでしょ。大規模じゃない限り浸水の心配はない。あとは、ケフースで休んでから山越えして南に進んでいたらしいよ)

 説明の通り、あちこちにある水飲み場は絶えず水が流れ続け、民家はほとんどが階段を使わないと玄関にはいけない。村の中心には廃墟の旅館がお化け屋敷のように立ち並んでいた。

(自然豊かで懐かしい気持ちになるが、彼らの生活は自給自足がメインなのか? 医者や店は?)

(車があるでしょ。この先にはトンネルも整備されているし、十分から二十分で街に出られる。セルマの寂れた村とは違うよ)

 凸凹した農道から、舗装された道路に変わった。

(ひとこと余計だ。ん、あれは?)

 道路の先、おそらく村で一番高い場所に、長方形で三階建ての建物が見えた。国旗である、月とそれを囲む三つの星の蒼い旗を掲げている。くすんだ灰色の石造りからは、古びた牢獄のような陰気臭さを感じた。

(どうやらあれが国防軍駐留所みたいだね。辺境勤務ご苦労さまです。これからノクーヴェが山に無断侵入するよ。必ず捕まえてね)

(あの建物から東に一キロだったな)

 人通りのない夜道を歩いて十分程度、王国軍駐留所にやってきた。

 木に隠れ、様子を窺う。

 建物には明かりが灯っているが物静かだ。

 右側には、自分の倍はあるだろう塀があり、山を囲むように東に向かって伸びている。山道ヘの入口の門には王国軍が両側に立っている。

(あれ)

(どうした、レイン)

(いや……)

 口数が少ないと、少し不安になる。振り返るが人の気配はない。夜遅いようで民家の明かりが消えていく。

(こんな所にいつまでもいたら不審者に思われるな)

(安心して。君はよい子じゃないから)

(黙レイン。お前に言われたくない)

 来た道を戻っていく。周辺の民家に警戒しながら明かりのまったくない場所で道路から外れ、土手に入ると塀にそって走った。畑を突っ切り民家を二軒過ぎて、雑草だらけの道なき道を塀伝いに歩いていく。

(こんな人のいないところまで塀を敷くなんて、よほど警戒してるんだな)

(怖い動物が山から下りてくるのかもしれないよ)

(ふぅ、これ以上は遠ざかるだけだな)

 周囲を確認する。目を赤く光らせた。

 自分より遥かに高い塀を軽々と飛び越える。

 緑に覆われた山の中を一歩進むとザクッと音がし、虫の音がやんだ。靴を脱いでノクーヴェの足で大きくジャンプして、トンッと逆立ちで着地する。

(誰もいないよ)

(動物たちを起こしたらかわいそうだ)

(夜行性が騒ぐよ)

(相変わらずの減らず口だ)

(クマに襲われちゃえ)

(可愛がってやる)

 ジャンプと逆立ちを繰り返して山を登っていく。

(君より強いノクーヴェはいた?)

 太い枝に足をかけて逆さで答える。

(周辺の村にはいなかった)

(へぇ、誰かと戦ったことがあるんだ)

(山賊を名乗る連中。助けた次の日から、他で子どもたちがイタズラすると『正式な抗議』という村長宛のクレームになった)

(……)

 レインが静かになり、虫たちの声が耳に入るようになった。

 枝から降りて歩き始める。

 サクッ、サクッと一定のリズムで草を踏んでいたが、足が止まった。

「……」

 鳥肌が立って、肩がわななく。

「あれ……か」

 そこは開けていた。

 ハーフ・ティンバーの小さな家、隣に十字架の墓があった。ともに月に照らされ、そこだけ濃紺の世界が漂っている。近くで鳴く虫の声も、遠く小さく感じた。

 胸の高鳴りと冷や汗が同時だった。

 前に歩き出すがぎこちない。

 墓の前にきた。十字架は錆びた大剣だった。刃元から刃先に向かって文字が刻まれている。

『アウス・エーヴィス。大いなる器とともに、ここに眠る』

 指先で名を撫でる。ざらりとした錆びの感触が伝わる。目を細める。

「……」

(これで満足?)

 一陣の風が吹き、木々がざわめく。

 刻まれたアウス・エーヴィスの名から手が離せない。

(なぜ、殺したんだ……)

 頬がひんやりしてくる。

 一瞬、この世界から音が消えた。

(こういうとき、ボクの存在は邪魔だね。君の心を隠してしまうから)

(何を恥ずかしいことを言ってんだよ)

(ごめん。笑わせる気になれない)

 手がゆっくり、刻まれた文字から離れた。帽子の鍔を掴んで口まで引っ張る。

「……レヴニール、ごめんね」

 少しだけ高い声が出た。男でいられない。

 頭に、川遊びをしていた時の光景が流れた。

 他の子どもが流されセルマが救った。「お前のお姉ちゃんはカッコいいよな」と褒められるレヴニールは笑顔だったが、そうは見えなかった。どこかに寂しさを含ませていたような気がしていた。

(ジャンさんも言ってたでしょ。どんな理由であれ、簡単に生き返らせてはいけない。それに本物かどうか――あっ)

(ん)

消え入りそうな声を出した。

(今、家の入口が光ったような。あれ、カメラじゃない?)

 帽子を戻した。充血した目で凝らす。玄関の突きだした屋根に、隠れるようにこちらを向くカメラがあった。

 辺りが不気味という色に変換された。周囲が異様なほどに鮮明で、背中に妙な汗を掻いた。

 その数秒後、いくつもの激しい足音が続くと、瞬く間に王国軍が現れ、包囲された。鎌や斧を取り出して構えてくる。

「ここで、何をやっている」

(くっ……)

 すぐに閃いた。

「えっと、歴史の勉強で、この村の山にいるアウス・エーヴィスを調べようと」

(嘘つき、というよりそれ言う? 行動と言葉が一致しないんだけど)

「あっ」

 無意識だった。条件反射とはいえいつのまにか構えていた。慌てて首を縮めて手を組み、もじもじする。

(こ、これならどうだ)

(……もう手遅れ)

 王国軍たちの目付きが鋭くなっていた。

「嘘をつくな。村人の顔は全員知っているし来訪者のチェックもしている。何者だ、お前っ」

「まさか、ノクーヴェがここまで来たのか?」

「捕らえて、念のためチェックしろっ」

(くっ。どうしたらいい)

(カメラに証拠が残っているからね)

(それだけか?)

(え?)

(お前のことだ、全員やっつけてカメラを壊せって言うんだろ)

(……君がそうしたいのなら、止めはしないよ)

 レインの声が寂しく感じた。思わず震える。

(くっ、なんだってんだ。だが、もう躊躇っている場合じゃない)

 まず怯えた表情を振り撒いた。次に振り返り、家を陰にして蝶つがいの首飾りの片方を取りはずし口に含んだ。

 直後、腕に冷たい感覚が走った。総毛立った。王国軍に掴まれてしまったのだ。

(レイン)

(ごめん。見惚れてた……。とにかく冷静に)

小さく息を吐いて、肩の力を抜き、振り向く。

「二の腕を見せろ」

 怪しまれないよう、極めて冷静に、袖を肩までまくり上げる。

 肘の上を掴まれ、緑の光を照らされる。

 首飾りの蝶は舌の裏にあるが、口全体に力が入った。掴まれた場所に不快感があった。

 二の腕には何も現れない。

「次は鎖骨を見せろ」

(――っ!?)

 腕は解放されたが、その手が首回りに近づいてくる。

 嫌な汗が湧いてきた。息を飲んだ。

(こ、こうなったら、やってやる……)

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