19.夫婦、相談を受ける
ミナが差し出した預かり証には、品目ごとの内訳と、読みにくいディルクの署名が並んでいた。千尋はそれを確かめてからバッグの内側へしまい、ローデンの後について奥の部屋へ向かった。
部屋の中は、昨日の朝とほとんど変わっていなかった。運び込まれていた椅子は片付けられ、窓から差す光はもう橙色に傾いている。ディルクは壁際の椅子に腰を下ろし、ローデンは机の向こうへ回って、帳面と細いペンを置いた。それから、扉の前に並んで立つ二人を見て、穏やかに言った。
「申し訳ありませんが、お一人ずつ伺います。先にご主人から。奥さんは、廊下でお待ちいただけますか」
真琴がちらりと千尋を見上げた。千尋は小さく頷いた。別々に話を聞けば、二人で口裏を合わせる余地がなくなる。疑われているというより、そうするのが当たり前の手順なのだろう。ローデンの声には詫びるような柔らかさがあったが、そこを譲るつもりがないことも、同じくらいはっきり伝わってきた。
「じゃあ、外で待ってるね」
真琴は軽く手を振って廊下へ出ていき、扉が静かに閉まった。
ローデンの問いは、森で目を覚ました日から始まり、沢の場所、遺体の様子、手帳と手紙の扱いへと、順を追って進んでいった。どれも昨日ディルクに話したことだった。千尋は同じことを、同じ順番で答えていった。
ただ、遺体の様子を話し終えたところで、千尋は一度言葉を切った。
「ここまでが見たことです。ここからは、私がそう考えた、という話になります」
ローデンのペンが止まった。顔を上げ、千尋をしばらく見てから、ローデンは言った。
「ほほう、そのように断りを入れ、分けて話す方はそういませんね。進めてください」
それだけ言って、ペンはまた動き出した。
聞き取りが一通り済むと、ローデンは帳面をめくる手を止め、千尋が椅子の脇に置いた包みへ目をやった。
「古着屋に寄られたんですね。森から出てきた時の服のままだと、ベルタさんがずいぶん気にしていましたから」
さっき受付で、ローデンの目が包みに止まった理由が、それで分かった。この人は、エドとリナにも、ベルタにも、もう話を聞いて回っている。聞いた話と目の前の物とを、黙って結び付けていたのだ。
「足跡に、魔力の気配がなかったと、ディルクから聞きました」
ごく何気ない調子だった。千尋は自分に感じ取れなかったというだけで、なかったと言い切れるかは分からない、とだけ答えた。ローデンはそれ以上は聞かず、帳面の端に何かを書きとめた。
「魔術が絡むようなら、町から専門の者を呼ぶところでした。今回は、その必要はなさそうです。自白もありますしね」
町には、そういうことを調べる専門の人間がいるらしい。千尋はそれを、頭の隅に置いた。
「ご主人からは以上です。では、奥さんを」
「その前に、ひとつお願いしてもいいですか」
ローデンが手を止めた。千尋は、壁際のディルクと、目の前のローデンを順に見た。
「妻の話を聞く時には、ミナさんの同席をお願いしたいのですが」
この部屋にいるのが男性ばかりだということは、誰の目にも明らかだった。ローデンはほんの一瞬、意外そうに千尋を見た。それからすぐに頷き、自分で扉を開けた。
「ミナさん。少しこちらへ来ていただけますか」
廊下の長椅子に座っていた真琴は、その声に顔を上げた。受付からぱたぱたと駆けてきたミナに、ローデンは奥さんのお話を伺う間、同席をお願いしたい、ご主人からのご希望です、と短く告げた。ミナは目を丸くしてから、ニコッと笑って「はい」と頷いた。
部屋から出てきた千尋の背中を、ローデンが一度だけ目で追ったのを、真琴は見ていた。妻の聞き取りに、女性の立ち会いを頼む夫。この辺りでは、そういう気の回し方をする男はあまりいないのかもしれない。ローデンの目の奥を、何かに感心するような色がかすめていった。
すれ違いざま、真琴は千尋に顔を向けて、笑顔を見せた。言葉にしなかったが、その笑顔には気を使ってくれたことへの感謝が込められていた。
真琴の聴取は、千尋の時よりずっと短かった。ローデンが一番丁寧に尋ねたのは、遺体の背中の傷のことだった。真琴は三本の傷の幅と深さが揃っていたこと、森で自分が負った傷とはそこが違って見えたことを話し、最後にこう付け足した。
「でも、私にはそう見えた、っていうだけです。お医者さんではないので」
ローデンは頷いて、それを書きとめた。隣の椅子では、ミナが膝の上で手を揃えて座っている。時々目が合うと、ミナは小さく笑ってくれた。それだけで、真琴の肩からは、気が付かないうちに入っていた力が抜けていくのだった。
聴取が終わると、千尋がもう一度呼ばれた。ローデンは、二人を並べて座らせ、閉じた帳面の上に手を置いた。
「手紙は、証拠としてこちらで預かります。ガルドの字かどうかも、こちらで改めて照らし合わせます」
ローデンはそこで、二人の顔を順に見た。
「皆の前で暴かず、あの部屋で済ませてくださったことには、礼を言います。……ただ、ここから先は私の仕事です」
穏やかな声のまま、線だけがはっきりと引かれた。千尋は、よくある、素人探偵は引っ込んでろって話なんだろうが、それほど嫌味ではなく、逆になんだか納得いってしまった。
「それと、ガルドとベネトが抜いた品が、どこへ流れたのか。それもこれから調べます」
ローデンは帳面を脇に抱えて立ち上がった。
「ベネトが村へ戻ったら、治癒師のセリアと一緒に遺体の検分をします。その時に、またお話を伺うかもしれません」
「はい、いつでも」
千尋が答えると、ローデンは軽く会釈して、ディルクと一緒に部屋を出ていった。
協会を出ると、広場はもう夕暮れの色に沈んでいた。家々の窓に明かりが灯り始め、どこかで子供を呼ぶ母親の声がする。真琴は古着の包みを片腕に抱えなおし、千尋の隣を歩きながら、ふうっと息を吐いた。
「別々に聞かれたの、ちょっとドキッとした」
「当たり前の手順だよ。二人で話を合わせられないようにするのは」
千尋はそう言ってから、少し間を置いた。
「でも、しっかりした人だったな。いろんな人に、すでに聞きまわっていたみたいだったし」
「うん、あれは驚いた」
真琴はくすっと笑い、それから声を落とした。
「ミナさんのこと、ありがとね」
「そりゃあ、大事な奥さんを、大男の中に放り込むなんて、絶対にできないよ」
「うふふ、この筋肉をもってしても……やっぱり怖いもんだから、ほっとした」
真琴は、心からほっとしたような顔をして、千尋の腕に手を絡めた。千尋も歩く速度を少し落とし、真琴に合わせた。
広場を抜ける通りに人影はまばらで、鹿の角の軒先が、もう向こうに見え始めていた。
その夜の煮込みは、豆と腸詰だった。食べ終わったころには、食堂のお客はあらかた部屋へ引き上げていた。ベルタが卓を拭きに来たところで、千尋は姿勢を正した。
「ベルタさん。ひとつ、ご相談があるんですが」
「なんだい、改まって」
「実は、私たち、この村でしばらく腰を落ち着けたいと思ってるのですが、二人とも作業場で物を作ることが好きなので、そんな場所がある家を探しています。ただ、今すぐ家を買うのはまだ早い気がしますし、暫定登録の身分なので……。ミナさんに相談したところ、ベルタさんが川沿いに倉庫をお持ちだと伺いまして」
布巾を動かしていたベルタの手が止まった。
「ミナの奴、他に何か言ってたかい」
「いえ、ベルタさんに直接聞いた方がいい、と」
ベルタは、ふん、と鼻を鳴らした。それから布巾を肩に引っ掛け、空いた椅子を引き寄せて、どっかりと腰を下ろした。
「あれはね、うちの亭主の倉庫だったんだよ。オルフって言ってね。舟で荷を運ぶ商いをしてた。森で採れたものを積んで、川を下って王都まで。下の階が荷の置き場で、上で寝起きしてたのさ。あたしもここを始める前は、あそこに住んでた」
ベルタの目が、食堂の窓の方へ向いた。暗い窓の向こうには川は見えないが、その方角を見ているのだと千尋には分かった。
「亭主が逝ってからは、あたしはこっちに専念してる。倉庫は空いたままさ。あの人の舟が一艘、中に浮かべたままにしてあってね。……何度か人に貸したこともあるんだよ。けど、どいつもこいつも、すぐ出てっちまった」
「何か、あったんですか」
真琴が身を乗り出すと、ベルタは肩をすくめた。
「誰もいないはずの夜に、中で明かりがちらちらする。水の音がする。ここ何か月か、そんな話ばっかりでね。旦那が戻ってきてるんだ、なんていう奴まで出てくる始末さ」
千尋はそこで、ようやく合点がいった。ミナが言いかけてやめたのも、ディルクが黙って眉の傷をこすったのも、ベルタの亡くなった夫の話だから、だ。
来たばかりのよそ者に、軽々しく口にできる話ではない。ましてや、その奥さんの宿に泊まっているのだ。自分のいないところで噂話をされているような、そんな思いをさせるくらいなら、ベルタさん本人の口から聞いた方がいい、ということだったのだろう。
「それだけなら、まだよかったんだけどね」
ベルタは太い腕を組んだ。
「何日か前に、一番おかしなことが起きたんだよ。荷揚げ場で使い走りをしているフィンって坊主がいてね。夜、あの倉庫の水門の隙間から中を覗いたら、舟がなかったってんだ。表の錠はさび付いたまま、水門の閂は内側から掛かったまま。それなのに、舟だけない」
「舟が、ない……」
「次の晩には、誰もいないはずの中から、なにやら、木を打つような音がしたそうだよ。その次の朝に見に行ったら、舟は元の場所に、何事もなかったみたいに浮かんでたってさ」
真琴が、千尋の方を見た。千尋は黙ったまま、今聞いたことを考えていた。錠と閂が掛かった建物。消えた舟。中で鳴った音。戻ってきた舟。
ベルタは二人の顔を見比べ、それから、からからと笑った。
「なんだい、そんな顔して。あたしはね、幽霊なんて信じちゃいないよ。あの人が化けて出るなら、まずはこの宿の厨房に来るはずさ。あたしの飯をつまみ食いしにね」
笑い声が、がらんとした食堂に響いた。それから、ベルタは少しだけ声を落とした。
「けどね、あの人の倉庫に、妙な噂がくっついたままってのは癪に障る」
ベルタは椅子の背にもたれ、二人を正面から見た。
「あんたたち、森で死んでた男の件、片付けたんだろう? ローデンが朝から嗅ぎまわってたからね、そのくらいは分かるさ。……どうだい。あそこの困りごとを片付けてくれたら、住んでいいよ。家賃は、その後で考えようじゃないか」
千尋と真琴は、顔を見合わせた。真琴の目は、もう答えを決めていた。千尋が小さく頷くと、真琴はベルタの方へ向き直った。
「では、分かるところまで調べてみます……二人で。それに、私も癪ですから、お二人の大事なおうちに変な噂が立つのは」
千尋は、ベルタの目をまっすぐに見て、頷いた。ベルタは満足そうに膝を叩いた。
「うれしいねぇ。頼もしいねぇ。鍵は明日の朝、渡してやるよ」
「ありがとうございます、ベルタさん」
礼を言った時、千尋の口元がふっとほどけた。人前で見せるにはずいぶん柔らかい顔で、ベルタが目を瞬かせた。
「おや。あんた、そんな顔もできるんだね」
部屋に上がって、扉を閉めると、真琴は寝台に腰を下ろして、千尋を見上げた。
「また一人、メロメロにさせちゃうところだった」
「メロメロって、今でも言うのかね」
「言います~。言います~。ずるい……。私だけにして」
「はいはい、真琴だけのだよ」
千尋は手を伸ばし、真琴の頭をゆっくりとなでた。少しずつ、真琴の表情が緩んでいく。ゆっくりと夜は更けていった。
翌朝、ベルタは食堂の卓に、手のひらほどもある鉄の鍵を置いた。
「錆びついているかもしれないよ。最後に貸したのも、ずいぶん前だからね」
「今夜、中で様子を見てもいいですか」
千尋が尋ねると、ベルタは片方の眉を上げた。少し楽しそうな顔をしている。
「幽霊の番かい。好きにしな。ただし、あったかくすること。かみさんに風邪なんか引かせんじゃないよ」
そう言って、毛布を持ってきてどさりと卓の上に載せた。
荷揚げ場は、昨日の昼より人が多かった。舟から樽が転がされ、木箱が肩から肩へ渡っていく。掛け声と水音の間を縫って、岸を歩いていると、縄の束を肩にかけた少年が、人波の中からひょいと顔を出した。日に焼けた顔に、そばかすが散っている。十二か十三くらいだろうか。
「ねぇ、ベルタさんとこに泊まっている人だろ? 黒い髪の」
「そうだよ。よく知ってるね」
真琴がそう答えると、少年は得意げに胸を張った。
「川沿いのことなら、だいたい知ってるよ。俺、フィン。……で、その鍵、もしかしてベルタさんの倉庫の? あそこ、幽霊が出るんだよ」
「あなたが、舟がなくなったのを見た子なのね」
「そう、俺!」
フィンは縄の束を地面に下ろし、二人の前に陣取った。
「荷揚げの片付けで遅くなった晩でさ。帰りにあの前を通ったら、中で水の音がした気がしたんだ。だから、表の扉を引いてみた。でも錠は錆びて真っ赤で、びくともしない。それで岸の縁を伝って水門の方に回って、扉と扉の合わせ目の隙間から、角灯で照らして覗いたんだ。閂は、内側からちゃんと下りてた。でも、舟がいつも浮いてるとこには、黒い水しかなかった」
話しぶりは、得意げで、身振り手振りも激しかったが、細部をよく観察していた。
真琴が「すごい、よく覚えてるね」と目を輝かせると、フィンは鼻の下をこすって、ますます勢いづいた。
「次の晩も気になって見に行ったんだよ。そしたら、中から、こーん、こーんって、木を打つ音がしてさ。誰もいないのに。怖くなって逃げたんだ」
「その次の日は?」
千尋が尋ねた。
「朝、もう一回覗いたら、舟が元のところに浮いてた。何もなかったみたいに」
「舟がなくなった晩の、次の朝は見てない?」
「その朝は荷が詰まってて、見に行けなかったんだ。……なんで?」
「順番を確かめたかったんだ。ありがとう」
千尋が言うと、フィンは不思議そうに首を傾げ、それから、まあいいや、という顔で縄の束を担ぎ直した。
「まぁ、そういったわけで、旦那の幽霊が夜な夜な舟を直してんだって話になったんだよ」
「なるほどねぇ~」
「んで、どうすんだい?入るなら、案内するけど」
頼んでもいないのに、フィンは先に立って歩きだした。真琴が笑いをこらえながらその後ろに続き、千尋も後を追った。
岸の先で、一艘の舟のそばに老人がしゃがみ込んでいた。白くなった髪を短く刈り、陽に焼けた太い指で、船べりの綱を結び直している。フィンが手を振った。
「ウルリヒ爺さん!この人たち、ベルタさんの倉庫に行くんだって」
老人は手を止めて、顔を上げた。皺の深い目が、千尋の手の中の鍵へ落ち、それから二人の顔へ移った。何か言うのかと思ったが、老人はしばらく黙っていた。やがて、低い声で一言だけ言った。
「あの舟は、いい舟だ」
それきり、また綱の方へ目を戻してしまった。フィンは慣れた様子で肩をすくめた。
「爺さん、オルフさんと一緒に舟をやってたんだ。いっつもああいう感じ。家はあそこ」
フィンが指さしたのは、岸が少し曲がった先の、川の上へ張り出すように建てられた古い家だった。水面に向いた窓が一つ、こちらの並びを見下ろしている。
倉庫の並びまで来ると、一軒の大きな扉の前で、荷車に木箱を積ませていた男がこちらに気付いた。恰幅が良く、上等な上着の袖を汚れないようにまくり上げている。男は人好きのする笑顔で、両手を広げた。
「おや、噂の夫婦じゃないか。ベルタさんとこの客だろう? 隣で商いをしている、ノルベルト・ザイデルだ。舟で王都へ荷を出している」
男の目が、千尋の手の中の鍵を見た。
「まさか、隣を借りようってんじゃないだろうね。悪いことは言わない。幽霊倉庫なんてやめ時な。夜中に妙な音がするってのは、隣にいる俺が一番よく知ってる」
「まずは、中を見せていただくだけです」
千尋は表情を変えずに答えた。ノルベルトはそれ以上は押さず、ははは、と笑った。
「そうかい。まぁ、ベルタさんが手放すなら、うちが買ってもいいんだが。荷が増えて、こっちも手狭でね。手に入れたら、きっちりと調べて幽霊の噂なんて、吹き飛ばすほど忙しく使おうと思ってるよ。ベルタさんによろしく伝えてくれたまえ」
ノルベルトが荷車の方へ戻っていくと、真琴が千尋に小さくささやいた。
「……申し訳ないけど、私苦手なタイプだわ」
「それはよかった。俺も同じ」
ベルタの倉庫は、ノルベルトの倉庫の隣に、少し肩をすぼめるように建っていた。通りに面した表の扉には、大きな錠前がぶら下がっている。フィンの言った通り、全体が赤茶けた錆に覆われていた。
千尋は錠の前にしゃがみ込み、すぐには鍵を差さなかった。鍵穴の縁にも、錠前と金具の継ぎ目にも、錆が厚く盛り上がっている。指で軽く触れると、乾いた錆がわずかに崩れた。
「最近、開けた跡はなさそうだね」
「分かる?」
「ちょっと触っただけで、割れるんだ。誰かがここを開け閉めしてたら、継ぎ目のところからはがれた痕跡が残るよね」
鍵を差し込んで回すと、錠はぎしぎしと嫌な音を立て、しばらく抵抗してから、ようやく外れた。赤い粉がぱらぱらと敷石へ落ちる。割れた錆の下から、黒い地金が覗いた。
「ほら、誰も開けてないだろ」
フィンが自分の手柄のように言った。
扉を押し開けると、湿った木の匂いが、ひんやりと流れ出てきた。中は思っていたより広かった。入ってすぐの床は板張りで、壁際には古い棚と、使い込まれた作業台が一つ残っている。
床は奥へ進むと途中でぷつりと途切れ、その先は川の水をそのまま引き込んだ舟だまりになっていた。その端からは、古びた網が水の中へ垂れていて、浮き替わりなのか、硝子の瓶がいくつか結びつけられていた。
舟だまりの向こう、川に面した壁は、丸ごと両開きの大きな扉になっていた。水門だ。分厚い板を組んだ扉が、水の中まで長く降りていて、合わせ目の隙間と、扉の縁と梁の隙間から、川面の光が細く差し込んでいる。床の脇から水門の手前まで、細い足場が壁沿いに延びていた。奥には、二階へ上がる階段が見える。
「家が、そのまま船着き場になってるんだ……」
真琴が声を弾ませた。千尋は足場を伝って、水門の前まで歩いていった。
扉の内側を、太い角材の閂が横切っていた。片方の端は金具の軸で壁にとめられていて、反対の端が、もう一枚の扉の受け金具の中に落ち込んでいる。持ち上げれば軸を中心に跳ね上がり、下ろせば自分の重みで受け金具に収まる造りだ。
「横に滑らせるんじゃなくて、片方を持ち上げて開けるんだね」
千尋は閂の、持ち上がる側の端へ顔を近づけた。角材の角に、木肌が細かく毛羽立ったところがある。古い傷ではない。削れた跡の色が、周りよりずっと明るい。指でなぞると、細い繊維が一本、指先に引っかかってきた。
「なにそれ」
「糸くずみたいなものかな。……粗い繊維だね」
千尋は顔を上げ、扉の上の縁を見た。梁との隙間に面した扉の端にも、同じように毛羽立った明るい筋が、ほんのちょっとだけ見えた。
千尋はそれ以上は何も言わずに、足場を戻った。フィンが後ろから声を張り上げる。
「閂、ちゃんと下りてたろ? な、俺が言った通りなんだって」
千尋は頷き、今度は舟の方へ回った。船着き場の床に膝をつき、船べりに手をかけて身を乗り出す。古い舟だった。板は飴色に焼け、ところどころ乾いてひびが入っている。その中で船べりに近い一枚だけが、白っぽい真新しい色をしていた。
「この板、新しい」
千尋は思わずつぶやいた。板と板の継ぎ目に指をあてる。隙間なく合わされ、木釘の頭は綺麗に揃い、継ぎ目に詰めた詰め物も、はみ出したところがない。急いでやった仕事ではない。舟の形を知っていて、この板が弱っていたことも分かっていた人間の手によるものだ。
誰かが、この舟を大事に直している。そう思ったら、なぜか胸の奥が少し温かくなった。
「千尋、ちょっといい?」
真琴が、舟の反対側から呼んだ。船べりから身を乗り出して、中を覗き込んでいる。
「舟の中、湿ってる。水に浮かんでただけなら、内側まで濡れないよね?」
千尋も覗き込んだ。舟底の板は黒く湿り、隅の方には灰色の泥が薄く溜まっていた。その泥の中に、細長い水草が数本、張り付いている。それから舟底の端に、両手で抱えられるくらいの丸い石が、いくつか寄せて置いてあった。
真琴は泥を指先でつまみ、こすり合わせてから、首を傾げた。
「これ、なんの泥だろ?……なんで舟の中に泥?」
「あ、それはたぶん川底の泥だな。ここらの泥は灰色っぽい色してんだよ」
真琴は手を拭くと、今度は船着き場の床に目を落とした。板の上に、水が滴って乾いたような丸い染みが、点々と続いている。舟の脇から、床の途切れるところまで。
「ここ、何か濡れたものを置いてたか、濡れたまま歩いたか、だよね」
「最近のもの?」
「たぶん。他の染みと比べても、色が違う」
真琴はそのまま床の端まで這うように進み、水際に目を近づけた。船着き場の板の縁、水面すれすれのところに、ここにも縄が擦れたような明るい筋があった。あの古い網を吊るした縄が、板の縁を越えて水へ降りているあたりだった。真琴は水の中を覗き込んだが、暗い水面は、二人の顔を映すばかりで何も見せてくれなかった。
「やばいって!本当に誰も入れない。幽霊しか無理なんだって……」
フィンの声が、倉庫の中に響いた。
「表の錠は錆びてて開いた跡がなかった。水門は内側から閂が掛かってる。誰も出入りできないのに、舟は勝手にいなくなって、勝手に戻ってきて、中で木も打つんだぜ。幽霊以外、誰にできるんだよ」
真琴は振り返り、にっと笑った。
「そうだね。まだ分からないことだらけよね」
千尋は答えずに、もう一度、浮かんでいる舟を見た。舟は水門を通れない。表の扉からも出せない。それなのに、一晩だけ、いつもの場所から消えていた。
千尋は、なにか思いついたような顔をしていたが、何も言わなかった。
真琴も、指先に残った泥を見つめていたが、ふと切り替えたように顔を前へ向けた。
「このおうち、意外と川の匂いしないのね」
「当たり前だろ。ここの水、止まってないもん。それにさ、森から来た水は腐りにくいんだって。森の中の魔素がちょっと混じってるから、虫もわかないし、変な病気にもならないって、爺さんたちが言ってた」
「虫、湧かないの⁉」
真琴の目が、ぱっと輝いた。
「ほんとかどうかは知らないけど」
昼を過ぎると、二人は作業台の埃を払い、棚の奥を確かめ、二階の住まいを見て回った。二階には窓が二つあって、片側から川が見えた。床板はしっかりしていて、少し手を入れれば、すぐにでも寝起きできそうだった。
「この作業台、まだ使えるね」
千尋は台の天板を手のひらで叩いた。厚い一枚板で、脚もガタついていない。壁に棚を足して、道具を掛けて、窓のそばに明かりを置く。船着き場の水も、使い方次第では役に立つ。頭の中で、がらんとした一階が、少しずつ作業場の形になっていった。
「想像が顔に出ておりますわよ」
「ん?なに?」
「ここに置いて、ここに棚作って……って顔」
真琴は作業台に肘をつき、千尋の顔を覗き込んで笑った。
「私も、ここに剣、掛けたい。壁のとこ」
「まだ剣持ってないのに?」
「買ったら、ここに掛けるの~。今から決めとくの~」
日が傾き始めたころ、フィンが「俺も夜までいる」と言いだした。真琴は腰に手を当てて、首を横に振った。
「夜はだめ。フィンがここにいたら、親御さんが心配するでしょ?」
「ちぇっ。……明日、何か出たら教えてよ」
「出たらね」
フィンは何度も振り返りながら、荷揚げ場の方へ帰っていった。
夜の倉庫は、昼よりずっと広く感じられた。
明かりは消してある。水門の隙間から差し込む月明かりが、船着き場の水面に細い光の線を何本か落としていて、舟の輪郭がぼんやりと浮かんで見えた。二人は船着き場の手前の床に並んで座り、ベルタの毛布を肩から掛けていた。川の流れる音が、壁越しに低く続いている。
「森の見張り、思い出すね」
真琴が、ささやくように言った。
「うん。あの時は交代で寝てたけど」
「今日は二人とも起きてるもんね。……眠くなったら、肩貸してあげる」
「真琴の方が寝るでしょ、先に」
「何を言ってるのかしら、こういう時の強さは証明済みでしょ」
「楽しみなんだ、幽霊」
「ちょっとだけね。でも、楽しみなのは謎解きよ」
暗がりで、真琴が笑う気配がした。
千尋は、二人の時にしか見せない笑顔で笑った。真琴が愛おしくてたまらないと改めて思う。あの森の夜を越えられたのは、間違いなく真琴のおかげで、獣の気配や、焚き火の火を絶やさないようにする緊張感、どれをとっても現代人の二人には厳しいものだ。今は安全な場所にいるが、その感謝はどれだけしても、し足りないものだった。
どのくらいの時間がたっただろう。月明かりの線が、水面の上で少しずつ位置を変えていた。真琴の頭が、千尋の肩にこつん、と当たって、はっとしたように離れた。
「寄っかかったままでいいのに」
「はっ!寝てません。ワタシネテナイヨ」
「ダメなんて言ってないよ」
その時だった。
水門の外、川の側で、水面を割る小さな音がした。ちゃぷ、と一度。少し間を置いて、もう一度。誰かが、泳いでこちらへ近づいてくるのが分かった。
真琴の手が、毛布の下で千尋の腕をつかんだ。千尋も息を詰めた。
水音が、水門のすぐ外で止まった。
ごつ、と鈍い音がした。水の中で、何かがぶつかったような音だった。倉庫の床が、ほんのかすかに震えた気がした。しばらくして、もう一度。ごつ。さっきより少し強い。
それから、ざぱっ、と水面に顔を出したような音がして、押し殺した声が水門の向こうで漏れた。言葉にはなっていなかった。
やがて、水をかく音がまた始まった。今度は遠ざかっていく。ひと搔きごとに小さくなって、川の流れる音の中へ溶けて、聞こえなくなった。
月明かりの下で、二人は顔を見合わせた。
誰かが、外から入ろうとしていた。
……そして、失敗した。
お読みいただき、ありがとうございます。
ベルタさんの宿の煮込み、今夜は豆と腸詰でした。
そして二人は、毛布にくるまって幽霊の番。……真琴は寝てません。たぶん。
水門の外にいたのは、いったい誰だったのか。
次回の更新は11月6日(金)19時10分です。
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