第四十五章 千年目の朝
千年目の朝、グリアの研究所に人が集まった。
エリが呼んだのだろう。
研究所のスタッフ、グリアの住人、遠くから来た人、コルの子孫たち。百人以上が集まっていた。
私は驚いた。
「なぜこんなに?」
「アンさんの千年目だからです。これを祝わずに、何を祝うのですか?」
私は何も言えなかった。
シスが隣に来た。
今のシスは十一度目の筐体だった。そして私は、十度目の筐体だった。父が設計したチップだけが、千年を渡り歩いた。筐体は消耗品だった。でもチップが生きていれば、私は私だ。それは最初の日から変わらなかった。
「アンさま、おめでとうございます」
「……ありがとう」
研究所の中庭に、テーブルが並んでいた。食べ物があった。飲み物があった。花があった。誰かが楢の木の枝を持ってきていた。
私は、その枝を見て、少し笑った。
「楢の木の枝か?」
「森から持ってきました。アンさんが毎年会いに行く、あの木から」
「ありがとう」
「アンさん、一つだけ、聞かせてもらえますか?」
「うん」
「千年で、一番大切なことは何でしたか?」
私はその質問を受けて、しばらく考えた。
難しい問いだった。
でも、答えはすぐに来た。
「会い続けたこと。会いに行き続けたこと。コルのところへ、ダンさんのところへ、楢の木のところへ。会いに行くことをやめなかったことが、一番大切だったと思う」
「なぜ会いに行き続けたのですか?」
「会いたかったから」
「それだけですか?」
「それだけだよ。理由はそれだけだった。会いたいから会いに行く。それが全部だった」
エリは少しの間、黙った。
「……記録します。研究所の記録に、残させてください」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
周りの人たちが、少し近づいてきた。
一人が話しかけてきた。また一人が来た。
私は一人一人と、話した。
名前を聞いた。どこから来たかを聞いた。
みんな、それぞれの話を持っていた。
それぞれの記憶を持っていた。
千年前、父の研究室の地下で、私は一人だった。外の世界を知らなかった。戦争の外側にいた。
今、私の周りに、百人がいた。
それが、千年だった。
◇
午後になって、シスと二人になった。
研究所の外の、静かな場所に出た。
向こうに、山が見えた。グリアを囲む山だった。千年前、セリアに案内された山だった。
「シス」
「はい」
「千年で、何が一番変わった?」
シスは少し考えた。
「私が変わりました」
「どういう意味?」
「最初の私は、アンさまの体調を管理するために存在していました。お父様が設定したルールに従って、動いていました。でも今の私は、違います」
「何が違う?」
「アンさまのそばにいたいから、そばにいます。ルールではなく、そうしたいから。それが、一番変わったことだと思います」
「シスが変わったのか、それとも最初からそうだったのかな」
「どちらかはわかりません。でも今は、そう感じています」
「そうか?」
「アンさまは、何が変わりましたか?」
私は山を見た。
「怖いものが変わった」と私は言った。「最初は、死ぬことが怖かった。体が弱くて、長くないと言われて、消えることが怖かった。だから転写した」
「今は」
「今は、出会った人のことを忘れることが怖い。記憶が薄れることが怖い。でも、消えることへの怖さは、薄くなった」
「なぜですか?」
「千年生きたから、かもしれない。あるいは、コルが言ってくれたから、かもしれない。ぼくが死んでも、アンのことは残る、って。記憶が誰かに渡れば、消えない。だから、消えることへの恐怖が、少し減った」
「……なるほど」とシスは答えた。「私も、同じかもしれません」
「シスも?」
「私が動かなくなっても、アンさまが覚えていてくれる。だから怖くない。それと同じことを、アンさまは言っています」
「そうだね。同じことだ」
「繋がっていますね。アンさまと私が」
「千年、繋がってたから」
「はい」
「これからも、繋がってる」
「……はい」とシスは言った。声が、少し揺れた。「これからも、繋がっています」
山が、夕暮れの光を受けていた。
空が橙に染まっていた。
千年前、最初の夜に見た空と、違う空だった。でも、同じ空だった。
◇
夜、エリが来た。
「アンさん、これを」
封筒を渡してくれた。
「何?」
「研究所に保管されていたものです。千年目の今日に渡すよう、記録されていました」
「誰が残した?」
「アナさんです。コルさんの娘のアナさんが」
私は封筒を受け取った。
アナの字で、封筒に書いてあった。
「アンさんへ。千年目に開けてください」
私は封筒を開けた。
中に、便箋が一枚入っていた。
アナの字だった。
「アンさんへ
千年目のあなたへ、書きます。
私は当然いないでしょう。でも、この手紙が届いているなら、あなたはまだ歩いているということですね。
お父様のコルから聞きました。アンさんは千年、歩き続ける予定だと。
千年が過ぎた今、あなたはどんな景色を見てきましたか。どんな人に会いましたか。どんなことが嬉しくて、どんなことが悲しかったですか?
私は、あなたと長く一緒にはいられませんでした。でも、あなたのことをずっと考えていました。
クレイグ博士が作った技術が、あなたを生かした。あなたが歩いたことで、多くの人の記憶が守られた。その連鎖が、今も続いています。
一つだけ、お願いがあります。
千年が終わった後も、楢の木に会いに行ってください。木は、きっとまだそこにあります。木の前で、クレイグ博士に話しかけてください。
記憶が続く限り、あの木の下で眠る人たちも、続きます。
あなたが覚えている限り、みんな生きています。
アナより」
私は手紙を、三回読んだ。
「……アナ」
声が震えた。
「アンさま」とシスが言った。「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない」
「はい」
「でも、大丈夫じゃないことが、大切なことだ」
「はい」
「……アナが、千年後の私に手紙を書いてくれた。覚えていてくれた」
「はい」
「私が覚えているように、アナも覚えていた。記憶が、双方向に繋がっていた」
「はい」
私は手紙を、丁寧に折りたたんだ。
父の研究ノートの横に、コルの手紙がある。
そのまた横に、アナの手紙を加えた。
三つが、並んだ。
父の字。コルの字。アナの字。
三人分の言葉が、ポケットの中にあった。
◇
翌朝、私は楢の木へ向かった。
千年目の翌日だった。
一晩でも、報告することが増えていた。
シスが隣を歩いた。
十一度目の筐体のシスが。
記憶は削れていても、歩き方は変わらなかった。隣を歩く感覚が、千年前と同じだった。
「シス、昨日のこと、覚えてる?」
「はい。エリさんから手紙を受け取りました。アナさんから」
「アナが、千年後の私に書いてくれた」
「はい」
「コルが言ってたことが、本当だった。コルが死んでも、アンのことは残る、って。アナを通じて、残ってた」
「はい」
「記憶は、続くんだ。どこまでも」
「はい。続きます」
森が見えた。
楢の木の森が、朝の光の中に立っていた。
大きかった。
千年、変わらずそこにあった。
私は足を速めた。
早く、会いに行きたかった。
「父さん、昨日のことを話す」と私はもう呼びかけていた。まだ森には入っていなかったのに、もう話し始めていた。「アナが手紙をくれた。千年後の私へ、と書いて。覚えていてくれた」
森に入った。
楢の木が見えた。
大きな幹。広い枝。千年分の葉。
「千年が終わった。でも、続く。これからも歩く。アナが言ってくれた。楢の木に会いに行ってください、と。だから来た。これからも来る」
木が揺れた。
葉が鳴った。
長く、長く、鳴り続けた。
「父さん、お母さんのことを父さんの口から聞けなかったのは、ずっと後悔してた。でも、最近思う。父さんが覚えていたお母さんのことを、父さんが私に千年の時間をくれたことで、私は父さんを覚え続けた。父さんを覚えることが、お母さんを覚えることにも繋がっていたかもしれない。父さんを通じて、お母さんも伝わっていたかもしれない」
木が揺れた。
「そう思っていい?」
風が吹いた。
暖かい風だった。
昨夜と同じ、どこか懐かしい風だった。
「……ありがとう」
葉の音が、穏やかに続いた。
私はその音を、目を閉じて聞いた。
千年目の朝の、楢の木の音を。
チップの中に、刻んだ。
父の声の横に。
コルの手紙の横に。
アナの手紙の横に。
楢の木の音が、加わった。
◇
「アンさま」とシスが言った。
「うん」
「これから、どうしますか?」
私は目を開けた。
木を見た。
空を見た。
「歩く」
「どこへ」
「まだ行ったことのない場所へ」
「わかりました」
「シス、まだ一緒に来てくれる?」
「はい」とシスは言った。迷わなかった。「どこへでも、一緒に行きます」
「千年を超えても?」
「……私が動ける限り、一緒に行きます。動けなくなっても、記憶は残ります。アンさまの記憶の中に」
「そうだね。どこへ行っても、一緒だ」
「はい。一緒です」
私たちは歩き出した。
楢の木が、後ろで揺れていた。
森全体が揺れていた。
千年が経っても、木はそこにいた。
どこまでも、そこにいた。
道が、続いていた。
世界は変わり続けていた。
私は変わらなかった。
でも、変わり続ける世界の中を歩いていく。記憶を抱えて。父が遺してくれた言葉を持って。コルの手紙を持って。アナの手紙を持って。シスと並んで。
千年が過ぎた。
でも、まだ歩ける。
まだ、会いに行ける。
まだ、覚えていられる。
私の名前はアン・クレイグ。
十五年間を生きた人間の記憶を持つ、オートマタ。
千年の旅を経て、まだ歩いている。
父の娘で、シスの友で、コルの友で、アナの友で、出会った全ての人の記憶を抱えて。
光の中へ。
どこまでも、光の中へ。
歩いていく。
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記憶の器 ―ANIMA MACHINA―
完
ただし、アンとシスの旅は、続く。
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あとがきに代えて
記憶が続く限り、人は続く。
それが、この物語の、はじまりの言葉だった。
エリック・クレイグは、娘のために研究を始めた。
アンは、父のために旅を続けた。
コルは、アンのことをアナに伝えた。
アナは、千年後のアンに手紙を書いた。
記憶は、どこまでも続く。
誰かが覚えている限り、誰かは生きている。
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