表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/46

第二十八章  ミアの最後の授業

転写から六十年が経った年の春、ヴァスタの学校の前に人が集まっていた。


私が近づくと、見知った顔の老人が出てきた。コルの子供の代ではなく、もっと前からヴァスタにいる人だった。八十代の女性で、かつてミア先生の最初の生徒の一人だったと言っていた人だ。


「アンさん」とその老女は言った。顔が曇っていた。


「何かありましたか?」


「ミア先生が、昨日から学校を休んでいます」


私は少しの間、その言葉の意味を受け取った。


ミア先生が学校を休んだ。


この六十年で、それは一度もなかった。病んでも、嵐の日も、ミア先生は学校を開いていた。子供が一人しか来なかった日も、開いていた。


「どこに?」


「家です。学校の裏の、小さな家です」





ミア先生の家は、学校の裏の路地を入ったところにあった。


石の壁に蔦が這っていた。小さな窓に、薄いカーテンがかかっていた。


ドアをノックすると、中から声がした。


「どうぞ」


入ると、本の匂いがした。


本が積んであった。棚にも、床にも、机の上にも。ミア先生は本を捨てない人だった。読んだ本も、参考にした本も、全部ここにあった。


ベッドに横になっていた。眼鏡をかけたまま。


九十代になっていた。顔の皺が深く、髪は真っ白になっていた。でも眼鏡の奥の目は、鋭かった。


「アンさん、来てくれたのね」


「来ました」


「いつ来たの」


「さっきです。外に人が集まっていました」


「心配性ね。少し休んでいるだけなのに」


「ミア先生が休むのは、初めてです」


「……そうね。そうかもしれない。自分でも驚いている。体が、今日は動かないと言っている」


「横になっていてください」


「座れるわ」と言いながら、先生は起き上がろうとした。私は手を貸した。先生が起き上がった。ベッドに背をもたせかけて座った。


「こっちの方が話しやすい」


「はい」


「座って」


椅子を引いて、先生の前に座った。





「あなたに、話しておきたいことがあったの」


「なんですか?」


「ずっと思っていたことがある。でも言いそびれていた」


「聞かせてください」


先生は少しの間、窓を見た。春の光が入っていた。


「あなたが来るたびに、子供たちに話してくれたでしょう?コルの話、ダンさんの話、グリアの話、ルカさんの話。この学校で、何度も話してくれた」


「はい」


「あの話が、この学校を続けさせてくれた」


「先生の学校です。先生が続けてきました」


「でも、続けるための理由は、あなたがくれた。あなたが話してくれる人たちが、私の教科書になった。会ったことのない人たちの話が、どうして生きるのかを教えてくれた」


「……私は話しただけです」


「話すことが、一番大切なことよ」先生は少し微笑んだ。「私が子供たちに教えてきたことも、それだけだから。言葉を持ちなさい、と。自分の言葉で、自分のことを話しなさい、と。あなたはずっとそれをやっていた。千年分の言葉を持って、旅している」


私は何も言えなかった。


先生が続けた。


「グリアへの手紙、セリアさんから返事が届きましたか?」


「届きました。セリアさんがしっかりした字で書いてくれていました」


「読みましたか?」


「何度も」


「良かった」先生は目を閉じた。「私はセリアさんに会えなかった。でも、文字の上で繋がれた。それで十分だと思っている」


「いつか会えたかもしれない」


「いいえ」と先生は言った。目を開けずに言った。「私はここを離れられなかった。ここにいるべき人間だった。それは後悔していない」


「はい」


「でも、グリアのことを知りたかった。セリアさんがどんな人か、見てみたかった。あなたが話してくれたから、少しわかった気がする」


「先生に会わせたかったです」


「……そうね。きっと、ふたりとも、頑固なことを言い合って仲良くなっていたと思う」


私は少し笑った。


「そうかもしれません」





しばらくして、先生が言った。


「ここにいてくれますか?もう少しだけ」


「います」


「眠くなってきた。眠ってもいい?」


「いいです。眠ってください」


「……眠っている間、話しかけてくれると嬉しい。聞こえているかわからないけれど」


「話します。コルのことを話します。ダンさんのことを話します。ルカさんのことを話します。先生に話していない話が、まだたくさんあります」


「……それは嬉しい」


先生は目を閉じた。


眼鏡のままだった。


私は、先生の手に自分の手を重ねた。白磁の手と、皺だらけの手が、重なった。


先生の手は温かかった。





私は話した。


声を低くして、ゆっくりと話した。


コルのことを話した。八歳で路地から出てきたときのこと。手を握ったときに温かかったこと。大人になってアナという娘が生まれたこと。「千年、楽しんでくれよ」と言ってくれたこと。


ダンのことを話した。広場に「まだここにいる」と書いた文字のこと。ヴォルナに帰ってきた二十三人のこと。グリアの広場に植えた楢の苗木のこと。今では大きな木になっていること。


ルカのことを話した。峠で描いてくれた地図のこと。「俺が変わった分、お前が覚えていてくれ」と言ったこと。エレナの孫娘が泣いていたこと。


グリアのことを話した。三千人から始まった集落が、今では大きな都市になっていること。セリアが長い岩の壁に守られてきた場所が、世界中の人が知る場所になっていること。


話しながら、先生の呼吸を確認した。


穏やかに続いていた。


何時間か経ったとき、呼吸が少し変わった。


深く、ゆっくりになった。


私は話すのをやめて、手を握った。


それから、先生の呼吸が止まった。





窓から、春の光が入っていた。


先生の顔は、眠っているようだった。眼鏡を少しずれていた。


私は眼鏡を直した。


「先生」と呼んだ。返事がなかった。


「先生の話してくれた言葉を、覚えています。希望がある場所へ、自分で行けるように。その言葉を、これからも使います」


窓の外で、鳥が鳴いていた。


「逃げ場があると知っているだけで、踏ん張れる。先生がそう言ってくれた。これからもそう伝えます。先生の言葉として、伝えます」


光が、先生の手の上に落ちていた。





翌日、学校の入り口に花が積まれた。


子供たちが持ってきた花だった。野の花だった。色とりどりの花が、入り口に山になった。


私はその花を見た。


そのときふと、グリアで八歳の女の子がくれた白い花を思い出した。「お守りみたいなもの」と言って、両手で渡してくれた花。


あの花の記憶が、今もチップの中にある。


先生が最後に言っていた。「会ったことのない人たちが、私の教科書になった」


先生の言葉も、今から私の教科書の一部になる。


記憶が続く限り、先生はここにいる。


この学校の入り口に積まれた花のように、残っている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ