第二十八章 ミアの最後の授業
転写から六十年が経った年の春、ヴァスタの学校の前に人が集まっていた。
私が近づくと、見知った顔の老人が出てきた。コルの子供の代ではなく、もっと前からヴァスタにいる人だった。八十代の女性で、かつてミア先生の最初の生徒の一人だったと言っていた人だ。
「アンさん」とその老女は言った。顔が曇っていた。
「何かありましたか?」
「ミア先生が、昨日から学校を休んでいます」
私は少しの間、その言葉の意味を受け取った。
ミア先生が学校を休んだ。
この六十年で、それは一度もなかった。病んでも、嵐の日も、ミア先生は学校を開いていた。子供が一人しか来なかった日も、開いていた。
「どこに?」
「家です。学校の裏の、小さな家です」
◇
ミア先生の家は、学校の裏の路地を入ったところにあった。
石の壁に蔦が這っていた。小さな窓に、薄いカーテンがかかっていた。
ドアをノックすると、中から声がした。
「どうぞ」
入ると、本の匂いがした。
本が積んであった。棚にも、床にも、机の上にも。ミア先生は本を捨てない人だった。読んだ本も、参考にした本も、全部ここにあった。
ベッドに横になっていた。眼鏡をかけたまま。
九十代になっていた。顔の皺が深く、髪は真っ白になっていた。でも眼鏡の奥の目は、鋭かった。
「アンさん、来てくれたのね」
「来ました」
「いつ来たの」
「さっきです。外に人が集まっていました」
「心配性ね。少し休んでいるだけなのに」
「ミア先生が休むのは、初めてです」
「……そうね。そうかもしれない。自分でも驚いている。体が、今日は動かないと言っている」
「横になっていてください」
「座れるわ」と言いながら、先生は起き上がろうとした。私は手を貸した。先生が起き上がった。ベッドに背をもたせかけて座った。
「こっちの方が話しやすい」
「はい」
「座って」
椅子を引いて、先生の前に座った。
◇
「あなたに、話しておきたいことがあったの」
「なんですか?」
「ずっと思っていたことがある。でも言いそびれていた」
「聞かせてください」
先生は少しの間、窓を見た。春の光が入っていた。
「あなたが来るたびに、子供たちに話してくれたでしょう?コルの話、ダンさんの話、グリアの話、ルカさんの話。この学校で、何度も話してくれた」
「はい」
「あの話が、この学校を続けさせてくれた」
「先生の学校です。先生が続けてきました」
「でも、続けるための理由は、あなたがくれた。あなたが話してくれる人たちが、私の教科書になった。会ったことのない人たちの話が、どうして生きるのかを教えてくれた」
「……私は話しただけです」
「話すことが、一番大切なことよ」先生は少し微笑んだ。「私が子供たちに教えてきたことも、それだけだから。言葉を持ちなさい、と。自分の言葉で、自分のことを話しなさい、と。あなたはずっとそれをやっていた。千年分の言葉を持って、旅している」
私は何も言えなかった。
先生が続けた。
「グリアへの手紙、セリアさんから返事が届きましたか?」
「届きました。セリアさんがしっかりした字で書いてくれていました」
「読みましたか?」
「何度も」
「良かった」先生は目を閉じた。「私はセリアさんに会えなかった。でも、文字の上で繋がれた。それで十分だと思っている」
「いつか会えたかもしれない」
「いいえ」と先生は言った。目を開けずに言った。「私はここを離れられなかった。ここにいるべき人間だった。それは後悔していない」
「はい」
「でも、グリアのことを知りたかった。セリアさんがどんな人か、見てみたかった。あなたが話してくれたから、少しわかった気がする」
「先生に会わせたかったです」
「……そうね。きっと、ふたりとも、頑固なことを言い合って仲良くなっていたと思う」
私は少し笑った。
「そうかもしれません」
◇
しばらくして、先生が言った。
「ここにいてくれますか?もう少しだけ」
「います」
「眠くなってきた。眠ってもいい?」
「いいです。眠ってください」
「……眠っている間、話しかけてくれると嬉しい。聞こえているかわからないけれど」
「話します。コルのことを話します。ダンさんのことを話します。ルカさんのことを話します。先生に話していない話が、まだたくさんあります」
「……それは嬉しい」
先生は目を閉じた。
眼鏡のままだった。
私は、先生の手に自分の手を重ねた。白磁の手と、皺だらけの手が、重なった。
先生の手は温かかった。
◇
私は話した。
声を低くして、ゆっくりと話した。
コルのことを話した。八歳で路地から出てきたときのこと。手を握ったときに温かかったこと。大人になってアナという娘が生まれたこと。「千年、楽しんでくれよ」と言ってくれたこと。
ダンのことを話した。広場に「まだここにいる」と書いた文字のこと。ヴォルナに帰ってきた二十三人のこと。グリアの広場に植えた楢の苗木のこと。今では大きな木になっていること。
ルカのことを話した。峠で描いてくれた地図のこと。「俺が変わった分、お前が覚えていてくれ」と言ったこと。エレナの孫娘が泣いていたこと。
グリアのことを話した。三千人から始まった集落が、今では大きな都市になっていること。セリアが長い岩の壁に守られてきた場所が、世界中の人が知る場所になっていること。
話しながら、先生の呼吸を確認した。
穏やかに続いていた。
何時間か経ったとき、呼吸が少し変わった。
深く、ゆっくりになった。
私は話すのをやめて、手を握った。
それから、先生の呼吸が止まった。
◇
窓から、春の光が入っていた。
先生の顔は、眠っているようだった。眼鏡を少しずれていた。
私は眼鏡を直した。
「先生」と呼んだ。返事がなかった。
「先生の話してくれた言葉を、覚えています。希望がある場所へ、自分で行けるように。その言葉を、これからも使います」
窓の外で、鳥が鳴いていた。
「逃げ場があると知っているだけで、踏ん張れる。先生がそう言ってくれた。これからもそう伝えます。先生の言葉として、伝えます」
光が、先生の手の上に落ちていた。
◇
翌日、学校の入り口に花が積まれた。
子供たちが持ってきた花だった。野の花だった。色とりどりの花が、入り口に山になった。
私はその花を見た。
そのときふと、グリアで八歳の女の子がくれた白い花を思い出した。「お守りみたいなもの」と言って、両手で渡してくれた花。
あの花の記憶が、今もチップの中にある。
先生が最後に言っていた。「会ったことのない人たちが、私の教科書になった」
先生の言葉も、今から私の教科書の一部になる。
記憶が続く限り、先生はここにいる。
この学校の入り口に積まれた花のように、残っている。




