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第二十七章  ルカの手

転写から五十五年が経った年の秋に、私はルカの村を訪ねた。


年に一度、この時期に必ず訪ねることにしていた。


峠を越えると、村が見えてきた。山の斜面に張り付くように建てられた、石造りの小さな家が並ぶ場所。ルカが帰ってきた場所。ルカの父親と母親が眠っている場所。


村に入ると、若い男が出てきた。エレナの息子の一人だった。二十代だった。


嫌な予感がした。


「アンさん」と男は言った。声が沈んでいた。


「ルカさんは」


「……二日前から、床に臥しています。あなたが来る時期だと思って待っていました」





ルカの家は、村の中ほどにあった。


石の壁、木の扉。ルカが帰ってきた夜に初めて入った家だった。


中に入ると、エレナがいた。エレナは六十代になっていた。髪が白くなっていた。でも目は、初めて会ったときと同じ目だった。


「来てくれた」とエレナは言った。


「ルカさんは?」


「寝ています。今日は少し楽だと言っていました。あなたが来ることを、楽しみにしていました」


奥の部屋に入った。


ルカが横になっていた。


八十代半ばだった。顔が変わっていた。頬がこけて、髪がほとんど白くなっていた。でも肩の幅は変わらなかった。大きな体は、年を経ても大きかった。


「ルカさん」


ルカが目を開けた。


ゆっくりと、私の方を向いた。


「アンか?」


「来ました」


「……お前は変わらないな」


「あなたが変わりました」


「そうか」


「でも、目だけは変わらない」


ルカは少し黙った。目を細めた。


「そうか。目だけか?」


「そうです。鋭い目は変わらない」


「……お世辞がうまくなったな」


「本当のことです」


ルカは短く笑った。笑うと皺が深くなった。


「座れ」


椅子を引いて座った。





「峠の地図のことを覚えているか?」とルカは答えた。


「覚えています。紙に描いてくれた。あの地図でグリアに着きました」


「役に立ったか?」


「役に立ちました。何十人もの人に、その道を伝えました」


「そうか?」ルカは天井を見た。「俺が描いた地図の中で、あれが一番役に立った気がする。他は作物の収穫量の記録くらいしかない」


「それも大切です」


「まあそうだ。食わなければ死ぬ」


しばらく黙った。


「コルのことを、聞いてもいいか?」


「コルは元気ですよ。お孫さんもいます」


「そうか」ルカはゆっくりとうなずいた。「コルは、よく笑っていた」


「そうですね」


「コルの目を持った人たちが、研究所にいます」


「コルの目か。どんな目だ?」


「真剣に光る目です。誰かのために何かしようとするときに、強く光る目」


「……それはコルだな」


「そうです。コルです」


ルカはまた天井を見た。


「俺は、コルを助けられなかった。あの戦争の中で、お前たちを助けられなかった。地図を描いて、それだけだ」


「それだけで十分でした」


「本当にそう思うか?」


「本当にそう思います」


ルカは黙った。


「お前が信じるなら、そうなのかもしれない。千年分の記憶を持つお前が言うなら」


「まだ七十年分ですが」


「それでもだ」


また沈黙があった。


窓から光が入っていた。秋の光だった。





「一つだけ、頼みがある」


「なんですか?」


「エレナに、礼を言っておいてくれ。あいつはよくやった。子供たちを育てて、この村を守って。俺が故郷に帰ってきたとき、待っていてくれた」


「直接言えます。今日、エレナさんに会いました」


「あいつは泣くか?」


「わかりません。でも、強い人です」


「そうだ。俺より強い。ずっと強かった」


「ルカさんも強かったと思います」


「どこが」


「怖くても、動くところです。故郷に帰ることが怖くても、帰ったところです」


ルカは何も言わなかった。


「怖かった、と正直に言ってくれた。それで、帰った。それが強さだと思います」


ルカはしばらく黙って、窓の光を見ていた。


それから私の方を向いた。


「お前に会えて良かった。あの峠で会えて良かった」


「私も良かったです。地図を描いてくれなければ、グリアに着けなかった」


「地図一枚で、大げさだ」


「大げさじゃない。一枚の地図が、百人以上の人を導いた」


ルカは目を細めた。


「……俺が変わった分、お前が覚えていてくれ」


「覚えます。全部、覚えます」


「峠の地図も」


「覚えています。今も描けます」


ルカは少しの間、何も言わなかった。


それから目を閉じた。


「眠くなった。今日はここまでだ」


「また明日来ます」


「……来なくていい。もう十分だ」


「でも来ます」


ルカは目を閉じたまま、少し笑った気がした。





その夜、私はエレナと話した。


「ルカさんから、礼を言うよう頼まれました。よくやってくれた、と」


エレナは目を伏せた。


「あの人は、口でそれを言わないんです。いつも、誰かに頼む。でも、それがあの人のやり方です」


「知っています。そういう人です」


「……知っているんですね」エレナは少し微笑んだ。「あなたはいつも、ルカのことをよく知っている顔をして来ます。長い付き合いだから、当然ですが」


「八十年、年に一度来ました」


「そうですね」


「ルカさんは、変わりませんでした。頑固なところが、一番変わらなかった」


エレナが、今度は声を出して笑った。


その夜、ルカは静かに逝った。


眠ったまま、呼吸が止まった。苦しんでいなかった。


私はルカの手を握っていた。大きな手だった。長年農作業をしてきた手だった。峠の地図を描いた手だった。その手が、私の手の中で、静かに冷えていった。





翌日、エレナの子供たちと孫たちが集まった。


私はルカの話をした。


峠で初めて会ったこと。銃を持っていたが、構えなかったこと。コルを見て「子供を旅に連れていくのは危険だ」と言ったこと。でも一緒に歩いてくれたこと。夜、星を見ながらグリアの話をしてくれたこと。地図を描いてくれたこと。


「ルカさんが描いた地図で、百人以上がグリアへ行きました」


エレナの孫娘が泣いていた。二十歳くらいの女の子だった。


「知らなかった。おじいちゃんが、そんなことをしていたなんて」


「ルカさんは自分のことを話さない人でした」


「そうなんです。いつも、そうなんです」


「でも、やることはやっていた」


孫娘はうなずいた。泣きながら、うなずいた。


私は、そのときのことを全部、記憶に刻んだ。


泣いている孫娘の顔を。エレナの横顔を。村の石の壁を。秋の光を。


ルカが変わった分、私が覚える。


そう約束したから。


その約束を、千年守る。


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