第二十七章 ルカの手
転写から五十五年が経った年の秋に、私はルカの村を訪ねた。
年に一度、この時期に必ず訪ねることにしていた。
峠を越えると、村が見えてきた。山の斜面に張り付くように建てられた、石造りの小さな家が並ぶ場所。ルカが帰ってきた場所。ルカの父親と母親が眠っている場所。
村に入ると、若い男が出てきた。エレナの息子の一人だった。二十代だった。
嫌な予感がした。
「アンさん」と男は言った。声が沈んでいた。
「ルカさんは」
「……二日前から、床に臥しています。あなたが来る時期だと思って待っていました」
◇
ルカの家は、村の中ほどにあった。
石の壁、木の扉。ルカが帰ってきた夜に初めて入った家だった。
中に入ると、エレナがいた。エレナは六十代になっていた。髪が白くなっていた。でも目は、初めて会ったときと同じ目だった。
「来てくれた」とエレナは言った。
「ルカさんは?」
「寝ています。今日は少し楽だと言っていました。あなたが来ることを、楽しみにしていました」
奥の部屋に入った。
ルカが横になっていた。
八十代半ばだった。顔が変わっていた。頬がこけて、髪がほとんど白くなっていた。でも肩の幅は変わらなかった。大きな体は、年を経ても大きかった。
「ルカさん」
ルカが目を開けた。
ゆっくりと、私の方を向いた。
「アンか?」
「来ました」
「……お前は変わらないな」
「あなたが変わりました」
「そうか」
「でも、目だけは変わらない」
ルカは少し黙った。目を細めた。
「そうか。目だけか?」
「そうです。鋭い目は変わらない」
「……お世辞がうまくなったな」
「本当のことです」
ルカは短く笑った。笑うと皺が深くなった。
「座れ」
椅子を引いて座った。
◇
「峠の地図のことを覚えているか?」とルカは答えた。
「覚えています。紙に描いてくれた。あの地図でグリアに着きました」
「役に立ったか?」
「役に立ちました。何十人もの人に、その道を伝えました」
「そうか?」ルカは天井を見た。「俺が描いた地図の中で、あれが一番役に立った気がする。他は作物の収穫量の記録くらいしかない」
「それも大切です」
「まあそうだ。食わなければ死ぬ」
しばらく黙った。
「コルのことを、聞いてもいいか?」
「コルは元気ですよ。お孫さんもいます」
「そうか」ルカはゆっくりとうなずいた。「コルは、よく笑っていた」
「そうですね」
「コルの目を持った人たちが、研究所にいます」
「コルの目か。どんな目だ?」
「真剣に光る目です。誰かのために何かしようとするときに、強く光る目」
「……それはコルだな」
「そうです。コルです」
ルカはまた天井を見た。
「俺は、コルを助けられなかった。あの戦争の中で、お前たちを助けられなかった。地図を描いて、それだけだ」
「それだけで十分でした」
「本当にそう思うか?」
「本当にそう思います」
ルカは黙った。
「お前が信じるなら、そうなのかもしれない。千年分の記憶を持つお前が言うなら」
「まだ七十年分ですが」
「それでもだ」
また沈黙があった。
窓から光が入っていた。秋の光だった。
◇
「一つだけ、頼みがある」
「なんですか?」
「エレナに、礼を言っておいてくれ。あいつはよくやった。子供たちを育てて、この村を守って。俺が故郷に帰ってきたとき、待っていてくれた」
「直接言えます。今日、エレナさんに会いました」
「あいつは泣くか?」
「わかりません。でも、強い人です」
「そうだ。俺より強い。ずっと強かった」
「ルカさんも強かったと思います」
「どこが」
「怖くても、動くところです。故郷に帰ることが怖くても、帰ったところです」
ルカは何も言わなかった。
「怖かった、と正直に言ってくれた。それで、帰った。それが強さだと思います」
ルカはしばらく黙って、窓の光を見ていた。
それから私の方を向いた。
「お前に会えて良かった。あの峠で会えて良かった」
「私も良かったです。地図を描いてくれなければ、グリアに着けなかった」
「地図一枚で、大げさだ」
「大げさじゃない。一枚の地図が、百人以上の人を導いた」
ルカは目を細めた。
「……俺が変わった分、お前が覚えていてくれ」
「覚えます。全部、覚えます」
「峠の地図も」
「覚えています。今も描けます」
ルカは少しの間、何も言わなかった。
それから目を閉じた。
「眠くなった。今日はここまでだ」
「また明日来ます」
「……来なくていい。もう十分だ」
「でも来ます」
ルカは目を閉じたまま、少し笑った気がした。
◇
その夜、私はエレナと話した。
「ルカさんから、礼を言うよう頼まれました。よくやってくれた、と」
エレナは目を伏せた。
「あの人は、口でそれを言わないんです。いつも、誰かに頼む。でも、それがあの人のやり方です」
「知っています。そういう人です」
「……知っているんですね」エレナは少し微笑んだ。「あなたはいつも、ルカのことをよく知っている顔をして来ます。長い付き合いだから、当然ですが」
「八十年、年に一度来ました」
「そうですね」
「ルカさんは、変わりませんでした。頑固なところが、一番変わらなかった」
エレナが、今度は声を出して笑った。
その夜、ルカは静かに逝った。
眠ったまま、呼吸が止まった。苦しんでいなかった。
私はルカの手を握っていた。大きな手だった。長年農作業をしてきた手だった。峠の地図を描いた手だった。その手が、私の手の中で、静かに冷えていった。
◇
翌日、エレナの子供たちと孫たちが集まった。
私はルカの話をした。
峠で初めて会ったこと。銃を持っていたが、構えなかったこと。コルを見て「子供を旅に連れていくのは危険だ」と言ったこと。でも一緒に歩いてくれたこと。夜、星を見ながらグリアの話をしてくれたこと。地図を描いてくれたこと。
「ルカさんが描いた地図で、百人以上がグリアへ行きました」
エレナの孫娘が泣いていた。二十歳くらいの女の子だった。
「知らなかった。おじいちゃんが、そんなことをしていたなんて」
「ルカさんは自分のことを話さない人でした」
「そうなんです。いつも、そうなんです」
「でも、やることはやっていた」
孫娘はうなずいた。泣きながら、うなずいた。
私は、そのときのことを全部、記憶に刻んだ。
泣いている孫娘の顔を。エレナの横顔を。村の石の壁を。秋の光を。
ルカが変わった分、私が覚える。
そう約束したから。
その約束を、千年守る。




