第二十一章 ダンの木
転写から三十九年が経った年の、秋のことだった。
グリアからの通信が来た。
コルからだった。コルは今年、四十七歳になっていた。
「アン、来られるか?ダンさんが、会いたがってる」
その一言だった。
私はその日のうちに出発した。
◇
グリアへ向かう道は、もう何度も歩いていた。
峠を越えるとき、風が冷たかった。秋の終わりの風だった。この体で感じる寒さは、温度の数値として知覚する。でも、寒い、という感覚は確かにあった。
シスが隣を歩いていた。
「ダンさんの状態は?」と私は歩きながら聞いた。
「コルからの情報では、二週間前から床に臥しているとのことです。医療スタッフが診ていますが、心臓が弱っていて、根本的な治療は難しい状況です」
ダンは転写のすぐ後にグリアへ来た。あのとき四十代後半だった。それから三十九年。八十代半ばになっていた。
長く、生きてくれた。
でも、長いとは言えなかった。もっと長くいてほしかった。
◇
グリアに着くと、コルが出てきた。
四十七歳のコルは、すっかり落ち着いた顔をしていた。でも今日は、その顔に緊張があった。
「アン、来てくれた」
「来ると言ったから」
「ダンさんは、今日は少し楽だって言ってた。でも……」
コルは言葉を止めた。
「行こう」と私は言った。
ダンの部屋は、グリアの岩壁の近くにあった。石の建物だった。グリアに来た当初からずっと使ってきた場所だという。
ドアを開けると、温かい空気が出てきた。
ダンがベッドに横になっていた。
毛布に包まれていた。顔が細くなっていた。でも目は同じだった。鋭くて、静かで、ちゃんと生きている目だった。
「アン」とダンは言った。かすれた声だった。でも聞こえた。
「ダンさん」
「来てくれたか」
「来ました」
「……座れ」
椅子を引いて、ベッドの脇に座った。
ダンはしばらく天井を見ていた。それから、ゆっくりと私の方を向いた。
「コルが大きくなった」
「なりましたね」
「見たか?」
「見ました。すっかり父親の顔をしていた」
「……俺に似てきた、と思うか」
「正直に言っていいですか?」
「言え」
「似ていません。もっと素直です」
ダンが、短く笑った。笑うと少し咳が出た。でも笑った。
「そうだな。あいつは俺より素直だ。人を信用するのが早い」
「いいことだと思います」
「そうかもしれない」
しばらく、ふたりとも黙っていた。
部屋の隅にランプが一つあった。その光だけが、部屋を照らしていた。
◇
「お前に頼みがある」
「なんですか?」
「コルを、見ていてくれ。俺が見られなくなっても」
「見ます。ずっと見ます」
「千年、あるんだろう?」
「はい」
「ならコルが死んでも、その子供が死んでも、まだ見ていられる」
「そうです」
「……それは、すごいことだな。羨ましいとも、怖いとも思う」
「どちらかといえば?」
「怖い方が少し大きい。でも、お前が見ていてくれると思うと、安心する。俺が見届けられないものを、お前が見ていてくれる」
私は何も言えなかった。
「楢の木を植えておいてやる、と言ったな?」
「言ってました。覚えています」
「グリアの広場に植えたい。みんなが通る場所に。ヴォルナで俺が書いた文字みたいに」
「まだここにいる、という文字みたいに?」
「そう。あの文字は、役に立ったか?」
「役に立ちました。あの文字を見なければ、私はあの路地に入らなかった。コルに会えなかった」
「そうか」
「ダンさんが書いてくれたから、全部が始まりました」
ダンはしばらく天井を見ていた。
「……俺は、何もしていない。廃墟に残っていただけだ。文字を書いただけだ。あとは、お前たちがやった」
「残っていることが、一番難しいことだったと思います」
「そうかな?」
「はい。動くより、残る方が難しい。ダンさんはそれをやった」
ダンはまた、短く笑った。今度は咳が出なかった。
「大げさだ」
「大げさじゃないと思っています」
部屋が静かになった。
風の音が外から聞こえた。
「眠くなってきた。今日は、もう休む」
「はい」
「また来るか?」
「来ます。明日も来ます」
「……そうか」
ダンの目が、ゆっくりと閉じた。
私はしばらく、その場にいた。
ダンの呼吸が、穏やかに続いていた。
◇
コルが廊下で待っていた。
「話せた?」
「話せた」
「……ダンさん、何て言ってた?」
「楢の木を、広場に植えてほしいと」
コルは少し目を伏せた。
「植える。絶対植える」
「うん」
「アン、ダンさんは、大丈夫かな?」
私はコルを見た。四十七歳の顔が、怯えていた。誰かを失うことへの怯えだった。
「わからない。でも、ダンさんは今日、あなたのことを話してくれた。大きくなったって。嬉しそうだった」
コルは何も言わなかった。
「コルが大きくなったのを見るのが、ダンさんは嬉しかったんだと思う」
コルの目が、少し赤くなった。泣かなかった。でも赤くなった。
「……ダンさんに、ちゃんとお礼を言えたかな?ヴォルナで助けてもらったときのこと、言えたかな?」
「言えてたと思う」
「言えてたかな?」
「コルがここにいること自体が、お礼だと思う。ダンさんが助けたコルが、ここで生きてる。それが一番のお礼じゃないかな」
コルはうつむいた。
しばらく黙っていた。
それから小さな声で言った。「……そうかな」
「そうだよ」
「……うん」
◇
その夜、ダンは静かに眠るように逝った。
朝になってコルが起こしに行き、呼んでも答えないと知って、私を呼びに来た。
私が部屋に入ったとき、ダンは毛布に包まれたまま、眠っているようだった。
表情は穏やかだった。苦しんでいなかった。昨夜、私と話して、それから眠って、そのままになっていた。
コルが部屋の入り口に立っていた。入れなかった。
私は振り返って、コルを見た。
コルは泣いていた。声は出していなかった。でも涙が出ていた。四十七歳の顔に、涙が流れていた。
私は部屋を出て、コルの隣に立った。
何も言わなかった。
ただ、コルの隣に立っていた。
コルが私の腕をつかんだ。白磁の腕を、力を込めてつかんだ。
私はそのまま、じっとしていた。
◇
翌朝、コルは広場に出た。
スコップを持って、一人で掘り始めた。
秋の地面は固かった。コルは必死に掘っていた。グリアの住人が何人か出てきて、手伝おうとした。コルは「自分でやる」と言った。
小さな苗木があった。
誰かがどこかから持ってきた楢の苗木だった。まだ細い木だった。
コルが穴を掘り終えて、苗木を植えた。
泥だらけの手で、土を固めた。一つかみずつ、丁寧に押さえた。
私はその隣に立っていた。シスも立っていた。グリアの人々が、離れたところから見ていた。
「ダンさん。植えたよ。広場に植えた。みんなが通る場所に。ちゃんと植えたよ」
風が吹いた。
秋の風だった。苗木の細い枝が、揺れた。
「大きくなるかな?この木」とコルは言った。私に言った。
「大きくなる。楢の木は、何百年も生きる」
「ダンさんが見られなくても?」
「見られなくても、大きくなる。コルが見る。私が見る。この先に生まれる人が見る。みんなで見る」
コルは苗木を見た。
細い苗木が、秋の光の中に立っていた。
「まだここにいる、って文字も、ダンさんが書いた。この木も、ダンさんが残した」
「うん」
「ダンさんは、いなくなっても、ここにいる」
「そうだよ。記憶が続く限り、いる」
コルはまた苗木を見た。長い間、見ていた。
それから立ち上がった。泥のついた手を、服で拭いた。
「……アン、ありがとう」
「私は何もしていない」
「来てくれた。いてくれた。それがよかった」
私は何も言えなかった。
空が、秋の青だった。
細い苗木が、その青の下に立っていた。
小さかった。でも、ちゃんとそこにあった。




