後編
今回の記憶喪失を、カイは自分への罰だと感じていた。カイにとっては、彼女が慕ってくれていたのが昨日のことのようなのに。目を開けたら、フィーはどこか余所余所しくなっていた。
(フィーの成人まであと2年。そうしたら妖精の痣が現れて、彼女は本当の出自を伝えられる。それで、焦っちまったのか?)
彼女に不相応な恋心を抱いてしまったのは、もう8年も前のことだ。それが罰の理由だとするならば、もっと早くに記憶を失っていないとおかしい。だからカイは、失ってしまった数ヶ月の間に、フィーに対して、とても失礼なことをしたのではないかと危惧していた。ざっくばらんに言うと、彼女に無理やり、迫ったりしてやいないだろうか、と。
(嘘をついてはいないようだったから、その線は消えたけどな)
ひとまず、聞いた話では紳士的な振る舞いを保ててはいたらしい。ならばなぜ、彼女に距離を置かれるのか。カイにはもう、心当たりは一つしかなかった。
(好きだって、言っちまったのか)
どうも、悪友たちの態度が、まるで彼女とカイが付き合っているかのように振る舞いなのだ。振った相手と、そんな風に冷やかされたりするのは、彼女もきっと迷惑だっただろう。ガックリとカイは肩を落とした。この恋は、墓場まで持っていくつもりだったのに。なんて己の意思は弱いのか。しょげつつも、なんだか馴染みのない自室を見渡してため息をつく。いったい、記憶を失っている間の自分はどうしてしまっていたのか。部屋の中には、フィーの持ち物がたくさん紛れていた。
(まさか、フィーが手に入らないなら物で埋めようとして盗みを? いやいや、そこまで屑ではないはず……)
過去の自分が恐ろしくて堪らないが、このままフィーの私物を置いておくわけにもいかない。カイはのろのろと立ち上がると、それらを回収しようと手を伸ばした。最初に手を取ったのは、見覚えのないノートだ。背表紙に指を引っ掛けたところで、ばさっと落としてしまう。慌てて拾おうとしゃがみ込んだカイの目には、花のスケッチといくつかの計算式が飛び込んできた。
「これは、妖精の花と、フィーが成人するまでに必要な花の分量? 痣が現れるまで時間はあるはずなのに、なんでこんな」
フィーはカイが記憶を失った場所である森を訪れていた。カイが記憶を失った原因は、フィーを助けようとしてくれたからだ。フィーを安心させるように笑いかけた彼の顔が、恋人として会った最後の彼の姿だった。優しくて、恋しい記憶に思いがけず目が潤む。フィーは慌てて目元を拭った。だいたい、痣に怯えて彼を頼ったことが間違いだったのだ。己の問題は、己の力で解決するべきだった。
「そうよ。自分の面倒も見れないくせに、彼の愛まで欲しいだなんて、おこがましいことだったんだわ」
彼を巻き込んだ自分への怒りを原動力に歩みを進めていくと、フィーはやがて開けた泉に辿り着いた。周辺には、透明な花弁をもつ花が咲き乱れている。その花はまるで、お伽話に出てくる妖精の羽ように、見る角度によって色を変えた。
(――ああ。これは、私の求めていたものだ)
とろん、と思考があやふやになる。ついさっきまで、手掛かりなど全くなかったというのに、これこそが自分を救うのだと確信している。フィーは、導かれるようにして花弁に手を伸ばした。それに触れる寸前で、夢を覚ますように鋭く制止される。
「触るな!」
「……っぁ、か、カイ?」
「間に合ってよかった。驚いたよ。おまえ、そんなに行動派だったっけ?」
「行動しなかったら、他の人が酷い目に遭う。それを思い知っただけよ」
ぱちぱちと、フィーは数度瞬いた。そして、自身の身体がカイに抱き締められていることに気付いた。少し前までは、手を伸ばせば当然にあった温もり。それを、どうしてこんなに切なく感じてしまうのだろう。
「もう、離して大丈夫よ。変ね、夢を見てたみたい。この花を見たら、なんだかとても安心してしまって」
「それは、この花がフィーを助けてくれるからだ。フィーの記憶と引き換えにして」
「私、こんなに綺麗な花は初めて見たはずなのに、何故だか懐かしい気がするの」
「初めてじゃ、ないからだよ。本当に、懐かしい記憶だけ?」
「……わからない。思い出せないわ」
「そっか」
フィーがそっと彼の腕を押すと、カイは慌てて手を離した。この様子からやはりカイの中にはもう、共に抱きしめあった記憶はないのだと思い知る。油断すれば再び目が潤みそうになるのを堪えて、フィーは彼と向き直った。
「触るなと言ったわね。……もしかして、カイが記憶を失ったのは、この花が原因なの?」
「それを説明する前に、確認しないといけないことがある。その、正直に言ってくれ。俺は君を」
「私を?」
「は、裸に剥いたのか?」
「はぁ!?」
フィーは思わず自分の身体を抱きしめた。カッと頬が朱に染まり、勢いのままに声を荒げようとする。眦を吊り上げたところで、フィーは彼が真っ赤であることに気づいた。それに勢いを削がれて、唇を引き結ぶ。
「姫様に誓っていうけど、そんなことは一度たりともなかったわ!」
「じゃあまさか、俺は覗きを?」
「どうしてそうなるの! あなた、そんなに私の裸に関心があるの!?」
「ああ、あるさ! 仕方ないだろ、好きなんだ!」
「えっ?」
あけすけに叫ばれて、フィーは耳を疑った。まさかそんな、こんな言葉を聞けるはずがない。フィーが目を見開いたまま動けずにいる間にも、彼は自棄になったようにして言葉を続けた。
「本当は墓場まで持っていこうと思ってたよ。でも俺は無くした記憶の中で告白してしまったんだろ?」
「こ、告白を? あなたが、したって?」
「それを君が拒否したんだろ? 誤魔化してくれなくていい。拒否して正解だ。俺は俺のこと、もうちょっとまともな奴だと思ってたよ。諦めきれなくて、物を盗んで、きっと覗きでもなんでもして、それで君の痣に気づいたんだ」
「私の、痣」
色々と否定しないといけないことを彼は口走っていた気がするけれど、それ以上の衝撃にフィーは身を固めた。
「俺はその痣を、少なくともフィーが成人するまでは封じなければと思ってここに来たはずだ。そして、花を摘み取る代償として妖精に関する記憶の一部を消された。俺の部屋にあったよ。この花が」
「妖精の記憶を、消された?」
「この花は、妖精を封じる花なんだ。この花があれば、君は普通の人になれる」
「そんな、カイはそんなこと教えてくれなかったわ」
「前の俺の話? ふうん。狂ってたわりに使命には忠実だったんだな」
「待って、待ってカイ。あなた、何を言っているの?」
混乱するフィーを横目に、カイは鞄から花を取り出した。数日前に手折られたはずなのに、未だ露を零さんばかりに瑞々しい。
「俺は、おまえが1番大事だ。おまえの役目もあるだろうけど、やっぱり駄目だ。俺ぽんこつだから、おまえに命の危険があるくらいならって思っちゃうよ。これに触れたら、フィーは普通の人になれる。ただ気をつけて、よく考えて選ぶんだ。代償として、記憶を失うことになる」
「それは、あなたのように?」
「もっと酷いかもしれない。俺は、ずっと君のそばにいたから影響を受けていた。その程度しか、失っていないのに、記憶が無くなるって辛かった。自分が何をしでかしたのか。理解して償うこともさせてもらえない」
「待ってカイ、話を聞いて! あなたは私に酷いことは何一つしなかった! そう言ったでしょう?」
「……わからないよ。何も覚えていないんだ。君が俺を思って、嘘をついているかも」
「私が嘘をついていたら、カイは見抜けるはずよ。そうでしょう? ちゃんと私を見て。確かめて」
フィーは花に触れないようにして、慎重にカイの手を包み込んだ、
「カイ、私のために、花を摘んできてくれたのね。でもごめんなさい。私は花に触れない。あなたのことを、忘れるわけにはいかないの」
泣きながら告白をした。勇気を出して、手を繋いだ。初めての口づけをした。カイが忘れてしまっても、フィーの中には記憶がある。それさえあれば、フィーは生きていけるのだ。
「反省するわ。私がくよくよ悩んだりしたから、カイは花を摘みに行ってくれたのね。でも私、どうかしていてたわ。妖精の証がある。それが何? それも含めて私なのに。危うく負けるところだったわ。私ね、子どもたちに勉強を教えることにしたの。たくさん学んで、災害や病に人間が自分の力で対応できるようになって。私は私を犠牲にせずに! そうやって生きていくんだわ」
啖呵を切ったフィーに、カイはしばし茫然とした。やがて、力が抜けたようにふっと笑みを浮かべる。
「……驚いた。おまえ、そんなに強かったっけ?」
「強くなったのよ。誰かのおかげで。この際だから、もう一つ言わせていただくわ」
まるで、あの日の再現のようだった。フィーの眦から、ぽろぽろと涙が落ちる。ぎょっとしたカイに、こんなところだけ変わらないんだから、と笑いがこぼれた。
「好きよ。カイ。あなたは忘れてしまったけれど、告白したのは私なのよ。あなたは泣きじゃくる私に頷いたわ。私たちは、お付き合いをしていたの。ふふ、おかしいわね。今度こそ、みっともない所は見せないって決めてたのに」
「待ってくれ、君が、俺を?」
「ええそうよ。嘘だと思うならちゃんと私を見て。今度は断ってくれて構わないから」
「……言っただろ? 俺は君が好きなんだ」
「うそ。だってあなた、付き合っても何も変わらない」
「だってそれは、本当にずっと、好きだったから。今更変わることなんてないんだよ。嘘だと思うなら、ちゃんと俺を見ろ」
涙でぼやけた視界を、カイに拭われる。目を開けると、意外と近い距離に彼はいた。まるで、付き合っていた頃のようだ。彼の真剣な眼差しに、思わず見惚れる。その一瞬を誤魔化したくて、フィーは目を逸らした。
「あなたの初めての口づけは、私がもらったのよ」
「それは覚えてないのが悔しいな。やり直しをお願いしても?」
余裕ぶった声に、フィーは『姫様が見てるのに?』と返そうとして固まった。声色と裏腹に、彼こそ、泣きそうな顔をしていたからだ。それは言葉通りの悔しさというよりは、想いがかなった瞬間の、フィーの泣き顔に近いような気がした。もしかしたら、とフィーは思った。もしかしたら、あの時間は、優しい嘘なんかではなかったのかもしれない。
「最後に一つ、確かめさせてくれたらいいわよ」
そう言って、フィーは彼の襟を引っ張った。思いがけない攻撃に、カイは抵抗できずにつんのめる。そのまま唇を塞いだフィーに、彼は掠れた声で問いかけた、
「……そんなかっこいいこと、どこで覚えてきたんだよ」
「あなたが私に教えたのよ。あなたこそ、どちらで学んできたのかしら」
「多分だけど、ぶっつけ本番。すごく緊張したに違いない」
「本当に? とっても余裕そうに見えていたわ」
「なら、一つ教えとくよ。今度もし、そいつが余裕そうにしてたらこう言ってやってくれ。嘘をついていいのかって」
ぐったりと崩れ落ちるようにして、彼はフィーを抱きしめた。耳元に近づいた唇が擽ったい。変な声が出そうになるのを必死に堪えていると、カイはそのまま耳元で囁いた。
「姫様が見てるぞ、って」
end.
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