第170話「番外編『エピローグ』:家系継承!豊満?至福?」
王都ブランから馬車で数刻の距離にある、アスパルテーム公爵領。
その領都シュガーヒルの中央に鎮座するアスパルテーム公爵邸の朝は、静謐な空気に包まれていた。
かつては伯爵邸であったその建物は、パルスイート女王陛下の即位に伴う家格の上昇を受け、大規模な増改築が施されている。
パプリカ領から導入された最新のコンクリート技術と、意匠を凝らした石造りの外壁。
庭園には、専属庭師であるサッカリンが手配した季節の花々が咲き乱れ、かつての質素な佇まいは微塵も感じさせない。
その磨き上げられた廊下を、規則正しい足音を立てて歩く一人の男がいた。
ソルビット・アスパルテーム。
アスパルテーム家の分家筋の出身でありながら、若くしてこの巨大な公爵邸を統括する「執事長」の座に就いた男。
父であるソルビトール譲りの鉄面皮と、眼鏡の奥で光る冷静な瞳は、数百人の使用人たちにとって絶対的な規律の象徴であった。
カツ、カツ……
ソルビットは主賓室の前で足を止めると、衣服の乱れを一分たりとも許さぬ手つきで整え、音もなく扉をノックした。
「失礼いたします。公爵閣下。
本日の予定表と、女王陛下より届きました『緊急の要請』をお持ちいたしました」
部屋の奥、重厚なマホガニーの執務机に突っ伏していたのは、現当主代理であるマルチトール公爵だった。
かつての「胃痛持ちの伯爵」は、娘が女王に即位したことで、その心労と責任がさらに跳ね上がっているようだった。
「……あぁ、ソルビットか。
陛下からの要請……、今度は何だい?
正直に言って、封を解く前から既に胃がキリキリと痛んでいるんだが……」
マルチトールは、震える手で『龍の粉』を水に溶かして一気に啜った。
かつての精力増強剤は、今や彼の精神を支える唯一の杖代わりとなっていた。
「は。
『ワンニャン・ランドの来園者増加に伴う、隣接するアスパルテーム私有林の割譲、および新たな宿泊施設の建設費用全額負担』についての、陛下直筆の『お願い』でございます」
「…………」
マルチトールは絶句し、天を仰いだ。
「またか……。
あの子は、実家を自分の財布だと思っているのかい……?
公爵家になって領地の収入は増えたが、それ以上の勢いで陛下が予算を毟り取っていく……。
私の安眠は……パルスエットと共に夢見た穏やかな隠居生活は、一体どこへ行ってしまったんだ……」
「閣下。
陛下は追伸にて『お父様、これも全て国民の笑顔と、将来の不労所得のためですわ。愛していますわよ』とも記されております」
「愛しているなら……せめて、もう少し計画的な予算執行をしてくれないかなぁ……」
マルチトールは深く溜息をつき、震える手で承認の印を捺した。
ソルビットはその様子を、感情を一切表に出さずに見守っていた。
彼にとって、この理不尽なまでの「女王の無茶振り」を、公爵家の実務として完璧に処理することこそが、己の使命であった。
「手続き、承りました。
では、私はこれで失礼いたします」
ソルビットは完璧な礼を捧げ、部屋を退出した。
廊下に出た瞬間、彼は一度だけ眼鏡の位置を直し、僅かに口角を上げた。
彼もまた、この「甘くない」王国の歯車として、充実した日々を過ごしている一人なのだ。
執務を終えたソルビットは、そのまま公爵邸の奥まった一角にある、自身の家族に与えられた私室へと向かった。
ガチャリ。
扉を開けた瞬間、それまでの「鉄面皮の執事長」としてのオーラが、魔法が解けたかのように消失した。
「ステビア、ただいま。
ソルビタンは良い子にしていたかな?」
部屋の中にいたのは、一人の女性だった。
かつては「学年で一番カワイイ」タイプの美貌の持ち主であり、パルスイート女王の専属侍女を務めていたステビア。
今の彼女は、かつての華奢な少女の面影を、柔らかな幸福のヴェールで包み込んでいた。
アスパルテーム公爵邸の豊かな食生活。
そして、一人息子であるソルビタンの出産を経て。
彼女の身体は、全体的に「ふっくら」とした、丸みを帯びた曲線美に包まれていた。
「あ、おかえりなさいませ、ソルビット様。
ソルビタンなら、つい先程ミルクを飲んで寝てしまいましたわ」
ステビアが、ゆったりとした素材の部屋着姿で微笑む。
その仕草に合わせて、かつてよりも豊かになった肢体が柔らかに揺れた。
「そうか。
……ステビア、どうかしたのかい?
なんだか、少し顔色が優れないように見えるけれど」
ソルビットが歩み寄り、妻の肩に優しく手を置く。
ステビアは少しだけ俯き、自分の腰回りを気にしながら、消え入りそうな声で呟いた。
「あの……ソルビット様。
最近、私……その、一段と『育って』しまったような気がするのですわ。
先週仕立て直したばかりのドレスが、もう、その……重力に抗えなくて……」
ステビアは、自身のふっくらとした頬を指先でなぞり、不安げに夫を見上げた。
「……私、ダイエットしなきゃだめかしら?
こんなに丸くなってしまっては、貴方に嫌われてしまわないかと……。
その、質量というか、厚みというか……」
問いかけ。
その瞬間。
ソルビットの眼鏡の奥の瞳に、激しい、そして異常なまでの情熱の火が灯った。
「…………とんでもないッ!!!!!」
静かな私室に、ソルビットの魂の咆哮が響き渡った。
彼はステビアの両肩をガシッと掴むと、至近距離から熱い眼差しを注ぎ込んだ。
「何を言っているんだい、ステビア!
ダイエット?
そんな愚かな行為、この私が、アスパルテームの男が許すとでも思っているのかい!?」
「え……ええっ?」
「君の唯一の欠点は……!
君のこれまでの人生における、最大にして唯一の落ち度は!!
今までずっと『痩せていた』ことだよ!!!」
ソルビットは、狂喜に満ちた顔で断言した。
「見てごらん、この至高の曲線を!
この、母性の包容力が物理的な質量となって結実したかのような、圧倒的な美を!
私はかつて、古い文献で読んだことがあるんだ」
ソルビットは一度ステビアを離すと、本棚から一冊の、使い込まれた古書を取り出した。
「『愛は質量である』。著者、デラック・デラデーラ……
そこにはこう記されている。
『愛とは即ち、受け止めるべき重みであり、豊かさの象徴である』とね。
今の君こそが、私の求めていた究極の理想像なんだ!
理想にまた一歩近づいてくれて……ありがとう、ステビア!!」
「ソ、ソルビット様……?
あの、目が、目が血走っていますわよ……?
それに、その本……表紙のイラストが何だか、とても威圧感がありますわ……」
「気にする必要はない!
さあ、今夜もソルティさんが開発した特製の『元気が出る夜食』をたっぷり食べて、さらなる高みを目指そうじゃないか!」
ソルビットは「愛の重さ」の解釈を、碌でもない文献の影響を受け「質量」という方向へ歪ませて昇華させていた。
その時。
スゥー……
扉が音もなく開き、一人の老人が姿を現した。
「……ほう。
騒がしいと思えば、息子よ。
お主もようやく、分家の男としての『真理』の一端に触れたようだな」
ソルビトールだった。
かつての鉄面皮な老執事は、今や孫にデレデレの好々爺……というわけではなく、無表情のまま、しかしその瞳には深い慈愛(と若干の虚無)を湛えていた。
「お義父様!」
ステビアが赤くなって身を隠そうとするが、ソルビトールはそれを気にする様子もなく、ベッドで眠るソルビタンの元へ歩み寄った。
「……ふむ。
今日も孫は健やかだな。
このふっくらとした頬の感触、実に良い。
これならば、アスパルテームの未来は明るいと言えるだろう」
ソルビトールは、息子が嫁の体型について熱弁を振るっている様子を、完全にスルーした。
彼にとって、他人の性癖など路傍の石に等しい。
ただ孫が元気であればそれでよく、それ以上のことに興味を持つのは時間の無駄だと考えていたのだ。
「ステビア殿。
あまり息子の戯言を気にする必要はありません。
貴女が健やかで、孫を健やかに育ててくれれば、それで十分なのです。
……さあ、陛下への定期報告の親書をお預かりしました。
近況を書き添えてお返しするように、とのことです」
ソルビトールは、事務的に一枚の羊皮紙を差し出した。
「あ、はい。
ありがとうございます、お義父様」
ステビアは、親子揃っての「ズレた対応」に戸惑いながらも、ペンを走らせ始めた。
数日後。
新生王城『モン・ブラン』の女王執務室。
「……ふぅ。
やっと、隣国との関税調整案が終わったわ……。
次は……え、何?
『芋虫ルクの増産に伴う、養殖場の衛生管理基準の改訂案』?
リシンに任せなさいよ、あんなの……」
パルスイートは、ボサボサになった髪を掻きむしり、死んだ魚のような目で書類を睨みつけていた。
女王になってからというもの、彼女の生活から「安眠」と「不労」の文字は跡形もなく消え去っていた。
「陛下。
公爵邸のステビア様より、近況報告が届いております」
侍女長サラヤが、銀のトレイに乗せて手紙を運んでくる。
「ステビアから?
あの子ののんびりした報告だけが、今の私の癒やしよ……」
パルスイートは、砂漠でオアシスを見つけた旅人のような勢いで封を切った。
そこには、ステビアの、どこまでも穏やかで、幸福に満ち溢れた近況が綴られていた。
『お嬢様……いえ、今は陛下ですね。
毎日、公務でお忙しいと伺っております。
わたくしの方は、ソルビット様のおかげで毎日とても穏やかに過ごしておりますの。
今は専業主婦として、可愛いソルビタンと、そして優しすぎる……いえ、少しだけ熱心すぎるソルビット様に囲まれて。
専業・不労でお菓子食べ放題という、最高に幸せな日々を過ごしておりますのよ。
ソルビット様は、わたくしがふっくらするほど『これこそが愛の質量だ!』と喜んでくださいますので、わたくしも安心して、新作のタルトを毎日三つも食べてしまいますの。
……陛下も、たまには美味しいお菓子を食べて、ゆっくり休んでくださいませね?』
……。
…………。
ピキッ。
パルスイートの中で、何かが、決定的な音を立てて砕け散った。
「…………」
「……陛下?
いかがなされましたか?
顔が……その、不浄の光を放とうとしているような気が……」
サラヤが、危機を察知してスッと距離を取る。
パルスイートは、手紙を握りしめたまま、天を仰いだ。
「……くぅぅぅぅぅぅぅぅっっっっ!!!!
うっ、羨ましいぃぃぃぃぃぃっっ!!!!!
専業!? 不労!?
お菓子食べ放題ぃぃぃぃ!?!?
それっ!!
私が一番やりたかった生活じゃないのよぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
女王の魂の絶叫が、王城『モン・ブラン』を揺るがした。
「なんで元侍女のあの子が達成してて!
主人の私が、こんな地獄みたいな残業地獄にハマってるのよぉぉぉっ!!
不公平よ!
この世界のシステムは、根本的にバグってるわよぉぉぉぉっ!!!」
パルスイートの、血を吐くような絶叫が、夕暮れの王都に虚しく響き渡る。
その側で。
アーリー王配は、窓の外を眺めながら優しく微笑んだ。
「……ふふっ。
今日もパルスは元気だね。
君のその生命力溢れる声を聞いているだけで、僕は幸せだよ」
デラック・デラデーラの著書が及ぼす深い業と、それぞれの幸せの形。
世界は今日も、女王の絶望と、周囲の深い勘違いを糧に。
力強く、そして「甘くない」音を立てて回り続けていた。




