第107話「愛娘誕生!悲報?決意?」
――オギャア、オギャアッ!!
か細くも、しかし力強い産声が、血の匂いと汗に塗れた寝室の中に響き渡った。
それは、新しい命がこの残酷な世界に確かに誕生したことを告げる、希望の凱歌であった。
「……っ、はぁ……っ、はぁ……」
私はベッドの上で、荒い呼吸を繰り返し、冷や汗でぐっしょりと濡れたシーツを握りしめていた。
全身の骨が軋み、筋肉が引き千切れるような、経験したことのない激痛。
だがそれ以上に私を苦しめていたのは、胸の奥で今にも破裂しそうなほどに激しく、そして不規則な脈打ちを続けている己の心臓だった。
視界は白く明滅し、耳鳴りが鳴りやまない。
私の持つ『アンホーリー(反神聖)属性』のせいで、産後のダメージを癒やすための高位神官による回復魔法も、高価なポーションも一切効果がないのだ。
すべては、私のこのポンコツな身体自身の自然治癒力に頼るしかないという、文字通りの死線であった。
だが。
「パルスエット……!
パルスエット、頑張りましたね……!
女の子です、元気な……私たちの娘です!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔のマルチトールが、温かいお湯で清められた小さな命を、そっと私の胸元へと運んできてくれた。
まだ赤く皺だらけで、目を固く閉じたまま泣き叫んでいる、小さな小さな命。
その温もりが私の胸に触れた瞬間、激しい痛みが遠のいていくような錯覚を覚えた。
「……私と、マルチトールの……」
私は震える指先で、その柔らかな頬にそっと触れた。
温かい。
間違いなく、私がこの世界に生きた証であり、愛する彼との結晶だ。
「……名前、どうしようかしらね」
「パルスイート……というのはいかがでしょう」
マルチトールが、私の汗で張り付いた前髪を優しく撫でながら言った。
「あなたの名であるパルスエット。
そこに『甘く愛らしい』響きを加えた名前を、ずっと考えていたのです」
「パルスイート……。
ええ、いい名前だわ。
私たちの……パルスイート」
愛娘の名前を口にした瞬間、私の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
幸せだった。
命を懸けて、この子を産んで本当によかったと、心の底から思えた。
(……よくやった。
本当によく耐え抜いたな、パルスエット。
お前は、強い母になったのだな)
虚空から、私と魂を繋ぐ絶対防御のインテリジェンスウェポン、アスラムテイルの思念が優しく降り注ぐ。
彼の声も、微かに震えているように感じられた。
だが。
「……う、ぐっ……!」
その幸福な時間は、容赦のない発作によって無残に断ち切られた。
胸の奥をギリリと締め付けられるような、かつてないほどの鋭い痛み。
限界を迎えていた心臓が、ついに悲鳴を上げたのだ。
「パルスエット!?
しっかりしてください!
先生!
先生!!」
マルチトールがパルスイートを慌てて乳母に預け、私の肩を抱きとめる。
お抱えの老医師が駆け寄り、顔面を蒼白にしながら私の脈を取り、聴診器を当てた。
「……いけません。
出産によるダメージが、想像以上に心臓に負担をかけております。
回復魔法が効かない以上、これ以上の延命は……」
老医師の言葉は、最後まで紡がれなかった。
だが、その絶望的な表情が、私の命の限界がすぐそこまで来ていることを如実に物語っていた。
私は、重い瞼を無理やりに開け、マルチトールに向かって弱々しく微笑んだ。
「……泣かないでよ、マルチトール。
……パルスイートのこと……よろしくね……」
「何を言っているのですか!
あなたも一緒に、この子の成長を見守るのですよ!
置いていかないでください……どうか……!」
マルチトールの悲痛な叫び声が、遠く、水底から聞こえるようにくぐもっていく。
私は意識の混濁の中で、ただひたすらに、愛娘の寝顔を脳裏に焼き付けていた。
◇
私が出産という死線を彷徨ってから、数日が経過した。
マルチトールが付きっ切りで看病し、特製の薬草を煎じ続けてくれたおかげで、私はなんとか意識を取り戻し、ベッドの上で会話ができる程度には回復していた。
だが、それはあくまで「殆ど起き上がれない状態での安定」に過ぎない。
少し体を動かすだけで激しい動悸が襲い、呼吸が苦しくなる。
文字通り、ベッドから一歩も動けない満身創痍の体になってしまっていた。
「……パルスイート、よく眠っているわね」
ベッドの傍らに置かれたベビーベッド。
その中で、規則正しい寝息を立てる自分と同じピンク髪の赤ん坊を見つめ、私はそっと頬を緩めた。
「ええ。
とても大人しくて、手のかからない子です。
きっと、パルスエットを気遣ってくれているのでしょう」
マルチトールが、私の冷たい手を両手で包み込みながら優しく微笑む。
平和で、静かな時間。
このまま、私の命の灯火が消えるその瞬間まで、こうして穏やかに過ごせれば。
そう願わずにはいられなかった。
だが、運命はどこまでも残酷だった。
教国との国境付近が、数日前から突然として臭くなり始めていたのである。
産後で動けない私に代わり防衛の任に就くため、お父様が当主代理として執事のソルビトールを連れて急遽出兵していたのである。
『孫の顔を見たら、無性に守りたくなってな。
前回、私の代わりに戦ってくれた娘に代わり、今度は私がこの領地を守ってくる』
と、お父様はいつになく勇ましい顔で出立していったのだった。
バァンッ!!
突如として、自室の扉が乱暴に開け放たれた。
飛び込んできたのは、執事のソルビトールだった。
彼の出で立ちは戦装束のまま。
その服と鎧は泥と大量の血に汚れ、顔色は死人のように蒼白だった。
普段の冷静沈着で理知的な彼からは、想像もできないほどの取り乱した姿。
肩で激しく息をし、足元はおぼつかない。
「……ソルビトール、戻ってたの?
早かったのね。
どうしたの、そんなに慌てて……。
お父様は?」
嫌な予感が、胸の奥で渦を巻く。
ソルビトールは、その場に膝から崩れ落ち、震える声で絞り出すように言った。
「……申し上げます。
国境付近にて、ソーヴィニオン王国側が、教国との一時休戦協定を一方的に破棄。
別部隊が大規模な奇襲攻撃を仕掛けました。
……戦争が、再開されました」
「……ッ!!」
私とマルチトールは、同時に息を呑んだ。
「……戦況は?」
私が問うと、ソルビトールはギリリと奥歯を噛み締め、血の滲むような声で答えた。
「……大敗、です。
相手もこうなることを読んでいたのでしょう…
騙し討ちによる奇襲を受けた敵軍は、先日の戦いで重傷を負って退いたはずの『聖女』を即時戦線に投入してきました。
その回復魔法は以前にも増して強大になっており、教国軍は文字通りの『不死身の軍団』と化しています。
その後、王国軍は総崩れとなり、防衛線は次々と突破され……」
ソルビトールは、言葉を区切り、深く、深く頭を下げた。
「王国の主戦力として前線に立っておられた、ズルチン侯爵閣下が……。
敵の聖女が放つ強大な聖属性との『相克』により、頼みの綱である魔槍ズールティンの力が完全に無力化されてしまい……
防壁を破り切れぬまま教国軍の波状攻撃を受け、壮絶な戦死を遂げられました」
「……嘘でしょ」
私は、自分の耳を疑った。
ズルチン侯爵。
広域殲滅兵器である四大至宝『魔槍ズールティン』の使い手であり、王国軍最強の武人と呼ばれた男が。
あの聖女の放つ光の前に、魔槍の瘴気すらも封殺され、敗れ去ったというのか。
「主を失った『魔槍ズールティン』のみが、血まみれの状態で自力飛行し、ズルチン家へと戻ってきたとのことです。
現場の混乱と絶望は、筆舌に尽くしがたいものでした……」
ソルビトールの言葉が、真実の重みを持って私にのしかかる。
主を失い、単独で飛来した血まみれの魔槍。
それは、王国軍の崩壊を象徴する、あまりにもおぞましい凶報だった。
「さらに……
さらに、最悪の報せがございます……」
ソルビトールの肩が、激しく震え始める。
彼がこれほどまでに感情を露わにするのは、彼が仕えてきた主に対する、底知れぬ絶望があったからだ。
顔を上げた彼の瞳からは、大粒の涙がとめどなく溢れ出していた。
「……当主様に代わり、アスパルテーム軍を率いて防衛戦の殿を務めておられた……。
前伯爵閣下が……旦那様が……」
ソルビトールの言葉が、涙に詰まる。
言われなくても、その先の言葉は痛いほどに理解できた。
「……防衛線を維持するため、自ら盾となり、我々部下たちを逃がした後……。
教国の刃に幾重にも貫かれ、帰らぬ人となりました。
私は……私は、旦那様をお守りすることもできず、こうして逃げ帰ることしかできなかった……!」
「…………あ」
頭の中が、真っ白になった。
心臓が、痛い。
ドクン、ドクンと、悲鳴を上げるように脈打っている。
「お父、様が……?
私の代わりに……戦って……」
私の妊娠を知り、私の命を第一に考えて、自ら危険な前線へと赴いてくれた、あの過保護で、優しくて、胃痛持ちのお父様が。
私と、生まれたばかりの孫の顔を、もう二度と見ることなく。
冷たい戦場で、泥と血にまみれて死んだ。
「……う、あぁぁぁぁぁぁっ……!!」
私はベッドの上で、獣のような絶叫を上げた。
悲しみと、悔しさと、自責の念が、濁流となって全身を駆け巡る。
「パルスエット!
落ち着いてください!
心臓が持ちません!」
マルチトールが必死に私を抱きしめるが、私の涙は止まらなかった。
ズルチン侯爵が討たれ。
お父様が戦死した。
防衛線は崩壊し、教国軍の侵攻はすぐそこまで迫っている。
「さらに……王家より、当家に対して『招聘(王命)』が下っております」
ソルビトールが、震える手で懐から王家の封蝋が押された書状を取り出した。
「『ソーヴィニオン王家の名において、絶鎧アスラムテイルの契約者、パルスエット・アスパルテーム伯爵に命ずる。
直ちに前線へ赴き、教国の聖女を討ち、防衛線を死守せよ』……と」
静寂が、部屋を支配した。
ベビーベッドの中で、パルスイートが小さな寝息を立てている音だけが聞こえる。
「……ふざけるな」
マルチトールが、地を這うような低い声で呟いた。
その顔は、かつてないほどの激しい怒りに歪んでいる。
「ふざけるな!!
パルスエットは、つい数日前に命懸けで出産を終えたばかりだぞ!
ベッドから起き上がることもままならない、満身創痍の体だ!
それを知っていて、前線へ出ろと!?
王家は、彼女に死ねと言っているのか!!」
マルチトールの怒声が、部屋に響き渡る。
ソルビトールも、ギリリと唇を噛み締め、床を睨みつけている。
彼らも分かっているのだ。
王家は、私の体調などどうでもいい。
ただ、教国の聖女の回復魔法を無効化できる『アンホーリー属性』と、絶対防御の『絶鎧』という手駒を、都合よく使い潰そうとしているだけだと。
(……パルスエット)
脳内で、アスラムテイルの重く、悲痛な思念が響いた。
(絶対に、行くな。
今の体で私を纏えば、外の攻撃は防げても、お前の心臓が確実に耐え切れない。
戦場に辿り着く前に、お前は死ぬぞ)
夫と、執事と、相棒。
私を大切に想ってくれる彼らは、皆、私に「行くな」と言ってくれている。
行かなくていい正当な理由も、いくらでもある。
だが。
「……マルチトール。
ソルビトール」
私は、マルチトールの腕から静かに抜け出し、ベッドの上に半身を起こした。
息は上がり、胸は激しく痛む。
それでも、私の目から涙は消え、静かな、けれど決して揺らぐことのない『覚悟の炎』が宿っていた。
「……行くわ」
「なっ!?
パルスエット!
ダメです!
絶対にダメです!!
今のあなたが行けば、確実に死にます!!」
マルチトールが顔面を蒼白にして、私をベッドに押さえつけようとする。
ソルビトールも「当主様! ご自愛ください!」と叫ぶ。
(パルスエット!
お前は母親になったばかりだろう!
子供を残して死ぬ気か!!)
アスラムテイルの悲鳴のような思念波。
私は、彼らの制止を振り切り、ベビーベッドの中を覗き込んだ。
そこには、何も知らずに、無垢な寝顔を見せている愛娘、パルスイートの姿がある。
「……母親になったからこそ、よ」
私は、そっと娘の小さな手に触れた。
柔らかく、温かい、未来そのもの。
「この領地は戦線から王都への侵攻ルートにある。
教国の報復を野放しにすれば、ここは確実に戦火に飲まれることになるのよ。
この子に……パルスイートに、戦火と恐怖が満ちた未来を残して逝くわけにはいかないわ。
お父様が命を懸けて守ろうとしたこの領地を、教国軍の蹂躙に任せるわけにはいかないのよ」
私はゆっくりと顔を上げ、マルチトールとソルビトールを見据えた。
そこに、かつてのお転婆で我儘な令嬢の姿はなかった。
あるのは、愛する者を守るため、自らの命を燃やし尽くす覚悟を決めた、一人の『母』であり、アスパルテーム伯爵家の『当主』としての威厳だった。
「私のアンホーリー属性がなければ、あの聖女の回復魔法は止められない。
お父様の無念は、私が晴らす。
……これが、私の最後の仕事よ」
「パルスエット……っ!!」
マルチトールが、ボロボロと涙をこぼしながら私の手を強く握りしめた。
彼は分かっていた。
私が一度決めたら、誰の言葉にも耳を貸さない頑固者であることを。
そして、私の瞳に宿る覚悟が、決して揺るがない本物であることを。
「……アスラムテイル」
私が虚空に向かって呼びかけると、黄金色の鎧の幻影が、悲しげに揺らめきながら姿を現した。
(……本当に、どうしようもない主だ。
お前のその頑固さは、やはり岩よりも硬い)
「ええ。
だから、最後まで付き合ってちょうだい。
私の外側を、完璧に守って」
(……承知した。
我が半身。
お前の命の炎が燃え尽きるその瞬間まで、私はお前と共にある)
アスラムテイルの思念と共に、黄金色の光が私の体を包み込んだ。
荘厳にして華麗な、絶対防御の鎧。
『絶鎧アスラムテイル』が、私の体に顕現する。
鎧が心臓への負担を少しだけ和らげてくれたのか、立ち上がるだけの力が湧いてきた。
私は、壁に立てかけられていた愛用のモーニングスターを手に取り、肩に担ぐ。
「……マルチトール」
私は、泣き崩れる夫の前に立ち、その頬にそっとキスを落とした。
「パルスイートのこと、頼んだわよ。
貴方とこの子の未来は、私が絶対に守ってみせるから」
「……パルスエット……っ!!
愛しています……!
誰よりも、何よりも……っ!!」
私は彼の悲痛な声に背を向け、静かに、しかし力強い足取りで部屋を後にした。
外では、すでにアスパルテーム軍の残存兵力が、悲壮な決意を秘めて出陣の準備を整えて待っている。
死を悟った戦い。
だが、私の心に恐怖はなかった。
「さあ、行くわよアスラムテイル。
私達の……最後の戦場へ」
パルスエット・アスパルテーム。
のちに『聖女殺し』として歴史にその名を刻み、そして散っていくことになる一人の母の、凄絶なる最後の行軍が始まったのであった。




