名乗る
「謝る必要はない」
謝罪拒否に項垂れる。
同じ屋根の下で寝起きをしたとはいえ、今日初めてまともに対話をしたばかりだ。
あまりにも情義に欠けた言葉に失意されたとしても仕方ない。
「だから顔をあげろ。俯いてばかりいるな」
苛立たし気に言われ、私は恐る恐る仰ぎ見ると、青年は深く深く息を吐き私を見据えた。
「記憶がないというお前が自分の正体を知りたいのは尤もだが、それに付随するの突拍子のない言動は理解できない。ただ、悪意あってのことではないことは分かる。……健康になったら村に行くのだろう?」
私はうなずいた。
「なら、奴が人ではありえない存在だと嫌でも分かる」
「それはどういう……」
言いかけて首を振った。
彼の言う通り行けば分かるのだ。
私も青年と同じように深く深く息を吐き、頭一つ分高い長身を見据えた。
「私って思ったことや疑問をすぐ口に出してしまって、それがあなたを傷つける可能性を考えてなかった。あなただけじゃない、妹さんもずっと傍にいてくれた分会話をする機会も多くて自分では何気ない言葉でも傷つけたかもしれない。……だからその分はやっぱりごめんなさい」
日本で樹里として生きたときは人より口数が少なかった。
私が何者なのか不安に思いながらも樹里を演じてきた反動かもしれないが言い訳にはならない。
「まだまだ迷惑はかけるだろうけど、これからはちゃんと考えて行動する。だから自分で自分のことができるようになるまではこのまま置いてほしい。もちろん妹さんが必要としてくれるなら傍にいる。……ただ、それがいつまでかは分からない。私は自分のことが知りたいの。だから——」
「言われなくても自分で生きるすべを得るまではここにいればいい。妹のこともだ。あれはまだ子供だが駄々をこねるほど幼くはない」
少女の見た目を思うと駄々をこねて周囲を困らせる年齢だと思うけど。
巨木の下で出会った少年も大人びていたし、生死と隣り合わせの異世界の環境がそうさせるのかもしれない。
「だから、お前の謝罪を受け入れる義理もつもりもない」
「そう……」
対等でいるのは難しそうだ。
当たり前だ。
彼からはこの世界に関する多くの情報を教えてもらったけど、私からは記憶がないことを理由になにも伝えてない。
緑の虎の助力を得たことも金髪の男がサヤの兄だともいえない。
もし話せば、私が幻魔と関わりを持っており、憎むべき仇の仲間と疑われてしまう。
「私はあなたからたくさん知らないことを教えてもらった。けれど私は何も話せることがない。看病をしてもらって、これからもここに置いてもらって……。けれど与えてもらってだけでなにも返せない」
彼はひとつ息をついて私を見た。
その瞳は先ほどの暗い灯は消え去っている。
「俺が言ったことはこの辺りでは一般常識だ。気にすることはない。それにウル湖の水を飲んで生還したことが生への思いが希薄になった妹に良い影響を与えている」
力強い声音に唇を噛み締める。
本当彼ら兄妹は強い。
けれど、どことなく危うさを感じる。
兄の青年の淀んだ瞳の色は消え去ったといってもそれは表面だけで、見えない部分で蓄積されているようで、いつか爆発してしまいそうで怖い。
彼の妹も村が滅ぼされる瞬間を目の当たりにしてから生死に関する感覚が鈍くなったというから、これもまたいつか取り返しのつかない事態になりそうで考えるだに恐ろしい。
「それに俺はお前を少しは信用してもいいと思っただろう」
なんのことだか首をかしげて、今朝毒水を飲ませる云々で私を試そうとしたことに思い至り、忘れていた怒りがふつふつと沸いてくる。
「そういえばずいぶん趣味の悪いことをしてくれたよね」
「実際はただの水だったからいいだろう。本当にウル湖の水だったら、まだ本調子でないお前は今度こそ間違いなく死んでいた」
上目遣いで睨むが懲りた様子はない。
まあ、私が何者か分からず懐に入れるためだから警戒して試すのは仕方ないといえばそれまでだ。
「分かってる。けど、あなたって……」
思った以上に意地悪よね。
そう悪態をつこうとして遮られた。
「——キリール」
「……え?」
「名前」
彼はちらりと横目で私を見た。
「アナーディリの村人は外の者に対して名乗らない。例外は多少でも信頼のおける顔見知りの旅人や旅商人くらいだな」
私は目を見開き口を半開きにしていた。
毒水を使って試したことに対する彼なりの謝罪なのかもしれない。
彼自身は私の謝罪を受け入れてくれないのに。
——また与えられてしまった。
私が村の仇の男と無関係だという確固たる事実が証明されない限り何も話せない。
戸惑う私に彼は困ったように再度口を開いた。
「村の慣習だから気にするな。今日までお前が名乗らなかったのは、それを知ってのことだと考えたもしたが、初対面の服装やその見た目、ここに来ての言動などでそれはないと確信した。もし、狙ってのことなら、役者としてやっていけるな」
「……むしろ稀代の悪女ね」
なんともむなしい自虐の言葉。
自嘲交じりの苦笑いに、青年は肩をすくめる。
「もし、その稀代の悪女とやらを懐に入れてしまったならそれまでだ。見る目がなったということで、村の仲間の後を追える」
「そんな自暴自棄な言葉はやめて」
先ほど浮かんだ兄妹が抱えるあやうさを思い出す。
思わず口調を荒げると、青年は目を見開いて口の端を歪めた。
「別に自棄じゃない。事実を言っただけだ」
彼は妹が生に対して希薄になっているというが、彼自身もそうなのではないのだろうか。
仇を追うあまり自ら傷を負うことを厭わない。
それは無意識のようで確固たる信念をもっていて、彼の妹も完全とはいえないにしても似たような状況なので、お互い自分を大事にしてと言っても上っ面の軽い言葉としかとられかねない。
「私は……」
どうすればいいのだろう。
何度目か分からない寒風が吹いた。
ツィノカ大陸から吹くいう風。
青年は幻魔の棲むという大陸がある北の方角に向かって身体をひねり遠くを見やり少し息を吐いた。
「これ以上冷える前に戻るぞ。まさかまだここで待つとは言わないよな」
やはり冷淡。
違う。非常なほど現実的なだけだ。
「分かってる。これ以上ここにいたらぶり返すよね」
そのとき、遠く獣の声が聞こえた。
犬の遠吠えに近い鳴き声に青年の足が止まった。
「野犬……?」
「いや、今のは……」
低い声で鳴き声の主を考える仕草に嫌な予感がした。
「まさか、幻魔?」
「違う」
幻魔でも野犬でもないのならなんだろう。
野良犬も場合によっては凶暴であったりするのに、青年の態度に戸惑いと言葉にできない恐ろしさを感じる。
青年は一瞬眉根を寄せたが、森に背を向け小屋に向かって歩き出した。
「ちょっと……」
「戻るぞ」
声が硬い。
雰囲気から察するに、何か危険な生物なのだろう。
そして、彼の妹はまだ森の中にいる——。
「迎えに行ったほうがいいんじゃない?」
「お前の傍を離れるわけにはいかない」
もちろん甘い言葉などではなく、監視の意味だ。
多少の信頼というのは一人にして置けるほどのものではないらしい。
けれど、迎えが必要ないとは言わなかった。
「野生動物ならそれ除けのにおい袋がある。幻魔ならどうにもならない天災。けど、そうじゃないんでしょ?」
さらなる詰問に青年は押し黙った。
怪しい人物の監視と大切な妹の保護及び無事の確認とどちらが重要か、日本での特殊な職業など、場合によっては天秤が傾くこともあるのかもしれない。
けれど今、彼の天秤は揺れている。
私という重しを取るためにどうすればいいのだろう。
「名前……」
アナーディリの村人は信頼できない人には名乗らない。
私は村人じゃないからそれには当てはまらない。
それは、外から来た旅人や商人も同様だ。
けれど彼らは名乗ったのだろうか。
日本では初対面の相手に自己紹介するのはごく普通のことだ。
それがこの世界の常識かは分からない。
しかし、村人同士は名乗るようなことを言っていたから、この場合日本の常識が通じる気がする。
そうじゃない。
そんなことはただの言い訳だ。
彼は私を少しでも信頼してくれて名乗ってくれただ。
なのに私は……。
「私の、名前は……」
この身体の名前は樹里。
しかし、内に在る私という魂は別の存在だ。
舞台を降り、母親と決別して、もう樹里とは名乗れない。
胸を抑える。
満開の木の下で少年が言っていた言葉を思い出す。
――僕には名乗る名前がないんだ。
状況は違えど、苦しくて叫びたいこの気持ちは同じだったのだろうか。
青年は私の意図に気付いたのだろうか。
振り返って私を見るなり眉を寄せる。
「顔色が悪い。無理をするな」
「私の……」
言葉が続かず、力なく首を振った。
「あなたの好きに呼んで」
途端、顔を顰められた。
「あなたの信頼を勝ち得ようとかそういう意味じゃないの。いや、この場合はそうかもしれないけど。ただ、私は……」
「分かってる。だが、人を犬猫のように名づけるなどできない」
目を見開いた。
犬猫のように……?
私はあの子供をペットのように名づけた?
私は首を振った。
違う。存在自体が幻のように美しい少年だったから、ちゃんと現実に居るんだと、それで現と名付けた。
思わずこぼれ出た言葉だったけど、少年は嬉しそうに笑った。
そして、私にその名を呼んでと言った。
けれど、私は気恥ずかしくて結局一度も言わなかった。
私はどうすればいい?
抑えた胸の鼓動が速い。
——あの子供はどこにいるのだろう。
そして、思いついてしまった。
閃いたでも思い出したでもなく、思いついてしまった。
私の、
「私の、名前は……」
「——イチキ?」
青年の戸惑いの声に私は頷く。
「そう、イチキ。やっと、それだけ……」
思いついてしまった。
イチキと名乗れば少年のほうから私に会いに来てくれる。捜しだしてくれる。そんな浅ましい思い。願い。
青年が私を見る。俯いてはいけない。
心の内をのぞき込むような探るような視線に、いつしか私はぼんやりと茶色の瞳に映る私自身を見ていた。
本当にひどい顔色。
「小屋で寝ていろ」
青年はそれだけ言うと、肌身離さず持つ武器を握り締め私に背を向け森の中に入っていった。
それから一時間くらい経っただろうか。
私は小屋の隅で膝をかかえて丸まっていた。
側でちろちろと暖炉の火がともっていたので寒くはない。
けれど、強く己を抱きしめる。
涙すら流れない自分が嫌になる。
やがて遠く話し声が聞こえてきた。
数日の間にすっかり聞きなれた声。
今一番聞きたい声。
私は転ぶように外に出た。
大小ふたつの影が寄り添いこちらに向かって歩いていた。
兄妹はずいぶん汚れていた。
まるで地べたでじゃれあって遊んでいたかのように。
這いつくばって転げまわったかのように。
二人が私に気付いた。
少女が満面の笑みを浮かべる。
「お姉ちゃん、ただいま――」
その小さな身体を抱きしめた。
「ダメだよ。お姉ちゃんも汚れちゃう――」
「――イチキ」
「え?」
「私の名前」
少女は目を見開き私を仰ぎ見、ついで兄の青年を見た。
彼はゆっくりうなずいた。
少女は急いたように言った。
「リーラ。わたしリーラっていうの」
「――そう。おかえりなさい。リーラ。キリールも」
風貌は似ていないが名前はどこか似ている兄妹。
私は虎に導かれ彼らに出会い、助けられ、今日まで生き延びた。
明日がどうなるか分からない。
けれど、どこまでも生きあがく。
幻のように儚く、大人びて子供な存在を現実の世界で手に取るため。
私の存在を糺すため。
そのために再びこころに蓋をする。
新たな偽りの仮面をかぶる。
2章終了です。お付き合いくださりありがとうございました。




