Chap.2 - EP4(1)『魔女 ―正体―』
裂けて破れた手の平は、血塗れで赤く濡れていた。
脳天まで貫くような痛みがあったものの、アクセルオは己の手がまだ動く事を確認し、安堵する。
周囲は暗闇。
ここはダンメルクの王都オールフスの、いずれかの場所。
街中なのは確かだが、詳しい場所は分からない、どこかの路地裏である。
ラグイルに助けられて王都の中に避難させられたアクセルオは、そのまま誰にも気付かれぬよう、人気のない街の片隅に身を隠し、ようやっと一息ついたところだった。
双子の塔で捕まっていたあの時――。
皆がクローディアとレイアのやりとりに意識を奪われた一瞬の隙をつき、〝あの男〟はアクセルオに近寄って、彼を縛り付けていた戒めを解いたのである。
そして、窓の外に蔓があるからそれを伝って逃げろ、と男はアクセルオに素早く耳打ちをしたのだった。
逃げられる――と教えられたものの、それは決して楽な方法ではなかった。
確かにロープのように太い植物の蔓が一本、神霊力のようなもので窓縁に絡みついていた。しかしそれは、イバラのように棘のある蔓。そんなものを掴んで五階から降りるなど、ある種の拷問にも近い行為だ。
だが手の平がボロボロになるのが分かっていても、捕縛された状況から逃げ出すにはそれしかなかった。
ならば決断するしかない。
アクセルオはロープで降りるように、蔓を滑る要領で塔から降りたのである。蔓のトゲが手の肉を裂く。その激痛にも耐えて。
結果的に、両手に惨たらしい傷を負う代償を払いはしたものの、こうやってあの博士のもとから逃げ出せたのだから、あの男を恨む話ではない。
だがそれよりも。
――ラグイル……あの、聖女兵器という事は……。
ここにジャンヌがいるという事。
いや、今は妹・レイアの騎士アムロイと呼ぶべきか――と複雑な感情を抱くアクセルオ。
ロスキレの街で会った際、彼はアムロイの口からラグイルという名前を聞いている。そして気を失った朧げな意識の中で、茜色の巨人が出現した事も。
それらが繋がり、彼に啓示的な直感を与えていた。
――アムロイという若者が、ジャンヌ……。いや、ジャンヌこそが仮の姿なのか……? それともアムロイという騎士に、ジャンヌが扮しているのか?
アクセルオにはアムロイに関する情報がほとんどないため、正しい答えは分からなかった。
だが仮に自分の考えが当たっているなら、それはそれで尚の事問題があるとアクセルオは思っていた。
塔から逃げたアクセルオは、空を飛ぶ聖女兵器ラグイルによって街中へ降ろされたのだが、しばらくしてそのラグイルが凄まじい閃光と共に、遠くの方へと吹き飛ばされるのを目にしたのである。
誰がどう見ても、ラグイルに何かがあったのは明白。もしかしたら、中のジャンヌ――アムロイ――にも万が一の事があるかもしれない。
とはいえ今のところ、アムロイの命そのものに別条がないのは感じ取っていた。
何故ならアクセルオは、そのアムロイと契約をした守護士なのだ。
聖女に何か重大な事態があれば、守護士はそれを感じ取れるもの。
それに今のアクセルオは神霊力が強化されており、聖女への感知力・感応力が、かつてないほどに高まっていたのだ。
「あの博士のせいか……」
ロスキレの街で倒れたアクセルオを、モーリス博士は〝あの女〟の力で拘束し、ここダンメルクに連れてきた。
目的は、ジャンヌに対し何かをするためだという事は、塔においての会話でも聞いている。
そのために、アクセルオには複数の投薬がなされたのだ。その一つには、博士に対し歯向かわないようにするという種類のものもあったらしい。
神霊力が増幅したのは、まさにそれらの薬によるもの。
実は、アムロイがオーデンセ城に到着してすぐ、この城にアクセルオがいると感知出来たのは、薬の副次的効果によるものだったのだ。ようは神霊力強化の副作用で、力を制御出来ず不安定になり、それをアムロイが感じ取ったのである。
本人が望んだものではないにせよ、力が強化された事自体は変えようがない。現に今さっき手に負った傷も、おそろしい速さで自然に治りつつあった。これも神霊力向上によるものだろう。
しかし、戒めを受けた事で得たものが、今になってアクセルオの助けになっているのは、皮肉な話だったかもしれないが。
そして、その強化された力が告げていた。
アムロイはまだ無事だと。
となれば、今すぐにでも助けに駆けつけるべきだろう。
それ以外に彼が取る道はないと思えた。
だが――。
アクセルオを、塔から逃したあの男。
「まさか、あいつが味方をするとは……」
後になって、モーリスからの投薬を受けてないただ一人のダンメルク騎士だからこそ、彼はあんな行動に出られたのだと判明する。
アクセルオは知るはずもないが――その前夜、アムロイへ勧誘を持ちかけた同じ仲間を問い詰めた事も、いや、そもそも全てに対して斜に構えた厭世的な目をしていたのも、だからこそだった。
しかも男は、アクセルオを助け出した時、密かに「明日の昼時、王都のウールヴ教会だ」と告げたのだ。
待っているという言葉。
果たしてそれを、信じるべきか否か。
しかし――
それこそが今のアクセルオが取る、最善の道ではないのか。
何故なら、モーリス博士と博士の連れる〝あの女〟に加え、クローディアと〝剣聖王〟ジェラルドといった敵に立ち向かうなら、アムロイと自分だけではおそらく不可能だろうから。
勝ち目など皆無。それだけは断言出来る。
だから〝あの男〟に協力を仰ぐのは、理に適っている。
だが、果たしてそれは現実的な考えか。可能性を探ると共に、思考の天秤にもかける。
アムロイの事は何よりも心配だったが――。
感情ではなく理性で、自分が本当に選択すべきは何なのかを考え抜く。
固く瞑った瞼の裏には、手の平の痛みを忘れるほどの強い懊悩。それを鉄の意志で呑み込み、やがてアクセルオは決断をした。
あいつに会おう――と。
「あの色白メガネの聖堂聖騎士――」
ホーク兄弟の兄、オズワルド・ホークに。
※※※
全身を襲う痛みで、アムロイは目を覚ました。
視界がぼやけている。
いや、真夜中の薄暗さで見え辛くなっているのか。
ここが何処かが分からない。
ひやりとした空気が肌をさす。草と土の匂い。暗闇に慣れた視界と共に、森の中だというのが分かった。
痛む頭部に手をあてると、ぬらりとした感触が指に付いた。額の上を切っているようだった。
頭に負った怪我の影響か、記憶にまで霞がかかった気分だった。しかしアムロイは、膝を震わせて立ち上がりながら、何が起きたのかを思い出そうとする。
どれくらい気を失っていたのかは分からぬものの、自分はラグイルを顕現させてクローディアの聖女兵器ミトロンと戦っていた。だが戦いの最中に別の何かの唄声が聞こえたかと思った直後、光と衝撃に貫かれ、ラグイルは吹き飛ばされたのだった。
おそらくその光の衝撃で、強制的に花を閉じ――顕現の解除――させられてしまったのだろう。
「そうだ……! ラグイル……!」
自分の状態から察するに、ラグイルもまた無事でないのは間違いない。無事ならば、まだ顕現したまま、自分は聖女兵器の操縦球の中にいるはずだから。
目を閉じ、己に宿る神霊の気配に意識を集中する。
いつもはそんな事をせずとも溢れんばかりの力を感じ取れるのに、今はそうでもしないと何も感じない。
――!
ほんの微かに、ラグイルを感じ取った。しかし、その力は極めて弱々しいもの。
「そんな……」
無事である安堵感より、まさかラグイルがこんな事になるとは思ってもいなかった絶望感が、アムロイの体を打ち身による痛み以上に重くする。
「そんな――」
そこへ、全く同じ言葉が繰り返された。
思わずアムロイは、顔を上げる。
声の主はすぐ目の前。
森の草むらから姿を見せていたのは――
「陛下……」
レイアだった。
――どうして。何故ここにレイアが。
いや、墜落したラグイルを追ってきたのだろう。そんな事は分かっていた。分かっていたが、それでも、どうして――と。
「あなたがどうして、ここにいるの……?」
驚愕で大きな両目をあらん限りに開き、若すぎる女王は続けるべき二の句を失っている。
「レイア様……」
アムロイも何も言えない。
言えない事が、全てを物語っていた。
この瞬間、自分がジャンヌだと、彼女にバレてしまったのだと。
「……どういう事なの? あなたは一体……あなたが……ジャンヌなの?」
肯定すべきか否定すべきかも分からなかった。
何もかもが崩れ去ろうとしている。自分の復讐の何もかもが、今この場で。
だが答え合わせは、二人のどちらかからではなかった。
回答を告げたのは、予期せぬ者。
「ええ、そうよ。アムロイ様こそ、聖女ジャンヌ・ジャンセンの正体よ」
唐突な別の声。女の声。
ハッとなる二人だが、声の方向が分からない。周りを見渡しても、誰もいない。
「レイア陛下、そこにいるのが、貴女のお父君をその手にかけた張本人。でも――殺めた理由は、その父君に犯されかけたから。それに対して抵抗しただけ。オヴィリオ殿下は、そんなアムロイ様を救おうとして、命を落とされたの」
また、女の声。
思わず、クローディアなのか?! とアムロイが叫んでいたが、同時に声が別人のようだとも感じた。
姿を見せない女は、妖艶な笑い声を、二人にだけ聞こえるような音量で、森の中に響かせる。
「私は全部知っている。知っているからこそ、聞かせて頂戴。レイア陛下、貴女はそれでもアムロイを殺すの? 本当はその人こそが、王に手をかけられそうになった可哀想なだけの被害者なのに。オヴィリオの兄君を殺したのは、ダンメルクの刺客でもなければ、勿論ジャンヌではない。あの、ホランド司祭なのに」
「なっ……! どういう事?! 司祭が、兄上を……?!」
思わずアムロイも絶句する。そして直感する。
この女。
この女こそ、パウルス王に自分の正体を知らせた犯人だと。
「ねえ、聞かせて、アムロイ。あなたが殺そうとしているクローディアは、ただの空っぽの何もない人形なのに、それでもあなたは聖女でも魔女でもない、ただのまやかしのあの女を殺すの?」
「ど、どういう事――」
ぞわり――とした冷たさが、アムロイの頬に触れた。氷よりも冷たく、毒虫よりもおぞましく、なのに官能的な柔らかさを感じさせる、指先が。
全身が総毛立つ。恐怖が体を縛り上げる。
振り向けない。
己のすぐ真後ろにいるのに。
いつの間に、どうやってかは分からない。けれど振り向けばそこにいる。
それが分かっているにも関わらず、体が硬直していた。
気配に気付いたレイアが、アムロイの方を見て魂を消し飛ばしたような顔をした。
「ウェ……魔女……」
自分のすぐ真後ろにいるのは、魔女なのか。
それは誰なのか。知らない誰かなのか。誰かを知りたいよりも、知る事の恐怖が、アムロイを動けなくしていた。それでも、恐れを振り切らなければならない。
「そんな……」
レイアの上擦った声に、アムロイは勇気を奮い立たせる。
背中の気配から体を離しつつ、後ろを向く。
そこには――
「君……は――」
いつもの姿ではない。
魔女の衣服に身を包んだ姿に、何も言えなくなってしまった。
「聞かせて頂戴、二人とも。この〝造花の魔女〟ギルダ・スタンカに」
レイアの付き人であり、ジャンヌの世話係であったはずの、ギルダがいた。




