第1話 皇女誘拐ですって?!
千年ぶりに初めてポリモーフ(変身)に成功した。
これで自分も外の世界に出て、ついに遊戯(お忍びの旅)というものができるのだと希望に胸を膨らませ、同じ世界の代行者であるドラゴンのソラレティに内緒で、『全大陸美食紀行』という本を『帝国歴史の黎明』に表紙をすり替え、こっそり読みながら悦に入っていた。
少なくとも、突然押しかけてきて私に皇女誘拐を言い渡す前までは!
穏やかな風と波が、追い風を受けた帆にスイスイと吹き付けていた。
おかげで予想より早く陸地に到着することになった船の周りでは、カモメたちが歓迎するかのように鳴きながら飛び回っていた。
そよ風は、甲板に座る男の美しい銀青色の髪を揺らし、優しくくすぐった。
真っ白な波が船にぶつかり、泡を立たせている。
予想以上に早かった順調な航海に、船乗りたちは皆表に出て、興奮しながら陸に向かって手を振って喜んでいた。
ただ一人、銀青色の髪の男だけがぼんやりと海を見つめ、ため息をつくばかりだった。
『違う、そんなはずはない』
美しい金色の瞳が瞬いた。
手で額を押さえ、首を横に振る男に向かって、日焼けした屈強な筋肉を持つ老船乗りが近づいてきた。
「おいおい、若いもんがそんなにため息ばかりついてどうする。俺は海仕事をして30年以上になるが、今回みたいに順風満帆な航海は初めてだぜ。ははは! おかげで予想より早く陸に着けたんだ、祝い酒を飲まなきゃならんってのに、若い男がため息とは何事だ!」
両手を腰に当ててガハハと笑っている老人を眺めながら、男はそっと海へ目を向けた。
船に乗って一ヶ月以上も航海しながら、よくある嵐や津波に一度も遭わず、無事に港に到着できたというのは、この人たちの一生に一度あるかないかの出来事だ。
確かに海神の祝福だと言って喜ぶべきことではあったが、男にとっては特別なことなど何一つなかった。
「はぁ、本当に自分のことじゃないからって酷すぎませんか、ソル様」
男は呟いた。
大陸の反対側、コーセン公国を境界に広がる広大な未知の森、フォンテン。
シエリア砂漠とアルメニア帝国を挟み、世界の中心と呼ばれる最も奥深くに位置する場所だ。
魔物すら容易には近づけないフォンテンの森。人々は、フォンテンの森を征服する者こそが全大陸の覇皇になるだろうと噂していた。
中でも森の最奥部、始まりと終わりが共存する場所から、男の旅は始まった。
「ズガァァン!」
オリハルコン合金で作られ、並大抵の力では壊れないはずの扉が一瞬にして粉砕された。
窓際で静かに読書を楽しんでいた男は、長いため息をついて本を閉じた。
「ロッシー!」
「はぁ、ソラレティ様」
眉間をひそめた男の神経質な指が額を押さえた。
「ソル!と呼べと言ったでしょ!」
「だからといって、入ってくるたびに扉を壊すんですか? 扉を直すのにどれだけお金がかかると思ってるんですか?」
「そんなの私が知るもんですか! 扉が脆すぎるのを私にどうしろって言うのよ!」
脆い……? オリハルコン合金が……?
ロッシーと呼ばれた男は呆れ果てていた。
「それに、私の名前はロッシーじゃなくてルセテリなんですが」
「そうね、ロッシー」
真夜中であるにもかかわらず、白金色のくせ毛を持つソラレティの周りだけがやけに金色の光彩を放ち、彼女からは眩い光が発せられていた。
「何の用ですか」
「あなた、遊戯(お忍びの旅)に出るんですって? やっとハッチリング(幼竜)を卒業して出かける初めての遊戯ね?」
からかっているのか、それとも今までポリモーフ(変身)すらまともにできなかったハッチリングが珍しかったからなのか……。
自分より10倍も年上の大先輩であるソラレティに対し、ルセテリがわずかたりとも反撃できるはずがなかった。
「からかってるんですか?」
「何が? やっとハッチリングを卒業したこと? それとも、初めて遊戯に出ること?」
「ええ、まったく。私が遊戯に出るのがそんなに珍しいことですか?」
「いや、改めて考えると不思議でね。たまに学問の専門書なんかを書きながら、外に出る気なんてこれっぽっちもなかった奴が出かけるって言うから、不思議に思ってるのよ」
ここ、フォンテンの森にいなければならないのが、よっぽど退屈だったようですね、ソラレティ様。
ルセテリはどうしても言いたい言葉を飲み込み、何も言えないまま読んでいた本を本棚にしまった。
「人間たちの世界で興味深い本を見つけたものですから」
「ふーん? そう?」
自分が満足できる答えではなかったのか、ソラレティは左手で顎を撫でながらルセテリをじっと見つめた。
その視線に、ルセテリの胸がギクッとした。
今、本棚にしまおうとしている本の表紙はこうだったからだ。
『帝国歴史の黎明』
しかし、それはただの目くらましに過ぎなかった。
表紙をすり替えた本の本来のタイトルは『全大陸美食紀行』。
帝国の歴史どころか、大陸のグルメに関わる本だったのだ。
「いやね、世界に二匹しかいないドラゴンのうち、若い方が遊戯に出るって言うからさ。本なら通信販売でも手に入ったんじゃないの?」
「直接いろいろと見てみたいものが多かったので」
「直接?」
「ええ、短い間に人間界の技術がずいぶん発展したようですね。ついでに自分の目で直接見物しようと思いまして」
ルセテリはハラハラしていた。
まさか本がバレたわけじゃないよな?
言ってみたものの、自分でも少し無理がある主張だと感じていたため、ソラレティにどれだけ通用するのか見当がつかなかった。
金色に輝くソラレティの爬虫類のような瞳孔が細く収縮した。
「まあ、そういうことにしておきましょう」
ソラレティの返答に、ルセテリは背中を一筋の冷や汗が流れ落ちるのを感じた。
やはり隠し事をしているのがバレバレだったようだ。
「それで、私をからかいに来たんですか? これから初めての遊戯に出るからと?」
「いや、そうじゃなくて。うーん……あなたが遊戯に出るついでに、一つ頼み事をしようと思って」
「頼み事ですか?」
頼み事という名の下に行われる『命令』だろう。
ルセテリはソラレティがどんな頼み事をしてくるのかと緊張した。
「うん、頼み事。ちょっと誘拐してきてくれない? アメリアの皇女を」
「……はい?」
いや、それってそんなに満面の笑みで命令することですか?
突拍子もない命令に、ルセテリは本棚にしまおうとしていた本を思わず床にポトリと落としてしまった。
誘拐? 何て奇怪な……。
「外に出るついでにアルメニアに行って、皇女を誘拐してこいって言ってるのよ」
「ゴホッ、ゲホッゲホッ」
突然激しくむせたように、ルセテリはひどく咳き込み始めた。
いや、唐突に帝国の皇女を誘拐してこいって、一体どういうことですか? ソルさん? もしもし?
「いくら何でも『ソルさん』はちょっと、ひどくない?」
歯を食いしばり、何事もなかったかのように床から本を拾い上げるルセテリを、ソラレティは腕を組んでじっと見つめていた。
「あなたがいくら私から何かを隠そうとしてもね、この世界に私を騙せるものがあると思ってるの? その本みたいにさ」
ああ、はい……おっしゃる通りです。
得意げな笑みを浮かべているソラレティの前で、ルセテリは挫折感に陥り、灰になって消え去る寸前だった。
「それにしても誘拐って。しかも帝国の皇女をですか?」
「ええ、やってきて」
なんだか『つべこべ言わずに』という言葉が省略されているような気がするのだが……。
いかなる異議も認めないという姿勢のソラレティを前に、ルセテリは言葉を失った。
理不尽極まりない彼女の要求に、ルセテリは髪をかきむしりながらその場にへたり込んだ。
「美食紀行? それよりはむしろ簡単じゃない?」
終わった。もう駄目だ。
やはりソラレティの真実を見透かす目の前では、隠しても無駄だったのだ。
私はなぜ、分かっていながらこんなにも隠そうと必死になっていたのか。
ルセテリは自責の念に駆られ、絶望した。
おそらく、エッチな本を読んでいて母親に見つかった息子のような、そんな心境とでも言うべきか。
「だからここへ連れてくるのよ。皇女を」
絶望に沈んで倒れ込むルセテリを容赦なく足で踏みつけながら、笑い声を響かせるソラレティだった。
ルセテリは、この理不尽な強制命令にどう反応すべきか困惑していた。
いくら世界の代行者だとしても、このように人間界に関与してもいいものかと疑問に思ったし、その上……
「いってらっしゃい〜 美味しいものがあったら通信具で絶対送ってね〜」
わざわざ港まで見送りに来て、ウィンクやハートマークを飛ばしていただく必要はないんじゃないでしょうか。
ルセテリは泣きたくなった。
気持ちとしては、上司の命令だろうが何だろうが無視して、自分の好きなように美食旅行を思う存分楽しみたいという思いでいっぱいなのだが。
絶対者の命令は絶対的なものだ。
神の代行者である彼女の命令に、単なる自分が逆らえるはずもないではないか。
ルセテリのそんな心を察してか察せずか、航海はこれ以上ないほど順調で、早くも港に寄港しようとしているところだった。
ああ、そうでもないか。
そういえば、ドラゴンである自分が乗っている船をむやみに攻撃してくるような、肝の座った魔物などいるはずもなかった。
そしてこの天候も、おそらくソラレティ様の悪戯に違いない。
そうでなければ、風までもが帝国に向かってこのように順風に吹いてくるはずがなかった。
「まさか、本気で誘拐してこいってわけじゃないよな?」
わざと時間を稼ぐために、自ら空を飛ぶ代わりに選んだ船旅だったのに、それさえもソラレティに見透かされていたようだった。
予想より早く港に到着した船は、錨を下ろすための準備で慌ただしくなり始めた。
『おそらく、皇城に黄金のドラゴンの旗が翻っている場所があるはずよ。そこへ行けばいいわ』
ニコニコと笑っていたソラレティは、ルセテリに向かって具体的な誘拐計画を語って聞かせるほどだった。
黄金のドラゴンの旗。
それはソラレティを意味し、アルメニア帝国を象徴する旗でもあった。
ドラゴンの祝福を受け、代々黄金色の髪と瞳の色を受け継いできたというアルメニア皇族。
とりあえず、ルセテリは深いため息をつきながら、下船の準備を急ぐことにした。
はじめまして、ミエ(美英)と申します。
この度、「小説家になろう」にて初めての連載をスタートすることになりました!
これから紡がれる、ドラゴン様と赤ちゃん皇女様のドタバタな物語を、どうぞよろしくお願いいたします。




