第一節 易姓革命の壁と体制の破綻 後編
建安二十五年(二二〇年)冬十月、後漢の第十四代皇帝たる献帝は、ついに帝位を退き、その天命を魏王曹丕へと譲り渡す詔を下した。いわゆる「禅譲」の儀式である。古来、堯から舜へと天下が譲られたという儒教的理想に基づくこの平和的な政権交代の儀式は、実のところ、圧倒的な軍事力と官僚機構の圧力によって周到に演出された、極めて冷酷なる政治的演劇に他ならなかった。華歆や王朗ら、かつて漢の臣下として禄を食んでいた重臣たちが率先して天子に退位を迫り、曹丕は百官からの執拗な勧進に対し、己の不徳を理由に三度にわたって辞退する「三譲」の儀礼を演じきった。そしてついに、やむを得ず万民の望みと天の意志に従うという体裁を整え、受禅壇に登ったのである。武力による簒奪という野蛮な汚名を回避し、あくまで易姓革命の正当な継承者としての合法性を獲得するためには、この複雑かつ周到な手続きが不可欠であった。
この禅譲の成立により、曹操が心血を注いで築き上げた「許昌の権威(朝廷)」と「鄴の実権(覇府)」という二重統治機構は、その歴史的役割を終えて完全に解体された。献帝は山陽公に降格され、四百年の長きにわたり中華の大地を統べた漢王朝は名実ともに滅亡した。曹丕は新たな帝都として洛陽を定め、これを大規模に修築して国家の中枢機能を集中させた。かつて鄴において曹氏の私的な権力機構として機能していた覇府の百官は、そのままの陣容を以て魏帝国の正規の朝廷を構成することとなった。権威と権力は再び一つの玉座へと統合され、中国大陸における統治の形態は、曹操が模索した極めて特異な覇権並立体制から、伝統的な単一の専制君主制へと回帰したのである。
一見すれば、この王朝交替は無血にて見事に完遂され、曹氏一族は「実権なき丞相」の地位から生じる凄惨な粛清の恐怖から永遠に解放されたかのように思われた。自らが天子となることで、天の任命権を自己の手中に収め、これ以上何者にも権力を剥奪されることのない絶対的な安全保障を獲得したかに見えた。しかし、この急進的な体制の変更、すなわち「禅譲という名目を用いた簒奪」の強行は、建国されたばかりの魏帝国に対し、極めて深刻かつ致命的な構造的欠陥を埋め込む結果となったのである。
その欠陥とは、「国家の正統性」に対する絶対的不可侵の神話が、曹丕自身の振る舞いによって完全に破壊されたという歴史的事実である。前漢の高祖劉邦以来、四百年にわたって天下の士大夫層の精神的基盤として共有されてきた「劉氏にあらずんば王たらず」という強固な権威の壁は、圧倒的な実力主義と形式的な儀礼の積み重ねによって、いとも容易く乗り越えられることが証明されてしまった。曹操は白馬の盟を実質的に破りつつも、形式上は最後まで漢の臣下に留まることで、この「簒奪の前例」を作ることを極力避けてきた。彼は、既存の権威を完全に否定することが、国家の統治インフラそのものを不安定化させる劇薬であることを知悉していたからである。
だが、曹丕が帝位に就いたことで、天下の万民、とりわけ国家の実際の運営を担う士大夫や軍閥たちの脳裏には、恐るべき一つの成功体験と行動規範が刻み込まれることとなった。「いかに長き伝統を誇る王朝であっても、巨大な軍事力と実務能力を掌握し、禅譲という正しい作法(手続き)さえ踏襲すれば、臣下が主君に取って代わることは合法であり、天命に適うことである」という、下克上の論理の公認である。
曹操が築いた「覇府」は、本来であれば自らの権力を守るための絶対的な防衛装置であったが、それが帝位を簒奪した瞬間に、その防衛装置自体が「新たな簒奪者を誘発する病巣」へと変質してしまったのである。魏の朝廷に仕える有能な官僚や将軍たちは、曹丕の禅譲劇を間近で自らの手によって演出し、新国家建国の恩恵に浴した者たちばかりである。彼らは「主君の権威をいかにして合法的に空洞化させ、最後には奪い取るか」という政治的手法(簒奪の作法)を、身をもって深く熟知してしまった。もし将来、曹氏の皇帝が幼弱であったり、暗愚であったりして実権を失うような事態が生じれば、彼ら強力な士大夫層は、かつて自らが漢王朝に対して行ったのと全く同じ手口を用いて、何ら道義的躊躇を抱くことなく曹氏から帝位を奪い取るであろう。
曹操が歴史の冷酷な教訓から導き出した「二重体制による権力維持」という極めて高度な生存戦略は、易姓革命という中国特有の政治思想の奔流に飲み込まれ、息子の代において呆気なく瓦解した。そして、その結果として選択された禅譲という名の簒奪は、魏王朝に「権威の簒奪は可能であり、正当化し得る」という取り返しのつかない原罪を負わせたのである。かくして魏帝国は、建国のその瞬間から、常に内部からの乗っ取りの恐怖に怯えねばならない宿命を背負うこととなった。
この「内部からの簒奪の恐怖」こそが、次節で述べる曹丕のもう一つの致命的なる制度設計、すなわち自らの兄弟や親族を政治的・軍事的に徹底的に封じ込める「宗室(親族)の無力化政策」へと彼を強迫観念のごとく駆り立てる最大の要因となる。曹操が苦心して構築した覇府という名の巨大な実権の器は、こうして次代の猜疑心と制度の欠陥によって、自戒の機能を持たない怪物へと変貌していくのである。
【引用文献・史料】
・陳寿『三国志』魏書 第二 文帝紀(および裴松之注引『献帝伝』)
・范曄『後漢書』巻九 孝献帝紀
・司馬光『資治通鑑』巻六十九 魏紀
・劉知幾『史通』疑古篇(禅譲の実態に関する史的批判の参照)




