第68話 ゲン爺の話
源田屋の引き戸を開けると、古い木の匂いがした。
最浅層用の道具が、いつもの棚に並んでいる。
採取袋、平たい箆、B2の岩の隙間を掃除する細い刷毛、スライム用の小さな刃。
派手な装備は一つもない。
それでも、どれも手入れされていた。
最浅層を本当に歩く人間の道具だった。
「来たか、坊主」
奥の椅子で、ゲン爺が顎をしゃくった。
「座れ」
俺は向かいに座った。
椅子の座面が少し沈んだ。
源田屋に来るたび、この椅子は同じ音を立てる。
「電話で言ってた話って、何ですか」
「急くな」
ゲン爺は湯呑みに手を伸ばした。
「お前、槇原という姓を聞いたんだろう」
指先が止まった。
「有希さんから聞いたんですか」
「山田の孫娘、有希という娘からは、槇原という姓が出た、とだけ聞いた。細かい話は聞いとらん」
「……そうですか」
「あとは、お前の動画を見れば分かる。コメント欄の風が変わっとる」
ゲン爺はそう言って、湯呑みを置いた。
「年寄りでも、そのくらいは見える」
俺は黙った。
葉山食品のことも、黒葉のことも、ゲン爺は断定しなかった。
ただ、風が変わっていると言った。
それなら分かる。
俺自身も、その風を感じていた。
* * *
「槇原という姓を、ワシは昔の資料で見たことがある」
ゲン爺が言った。
「今の専務本人じゃない。先代側の名前としてだ」
「三十年前の話だ。大発現の後、最浅層にいろんな会社が入ってきた。石、薬草、魔物素材。何でも金になると思われていた時期だ」
「今は見向きされていないのに」
「最初は違った。何が価値を持つか、誰にも分からなかったからな」
ゲン爺の声は低かった。
「その中に、採取記録をまとめて押さえようとする動きがあった。どこで、誰が、何を採ったか。そういう記録を会社の棚にしまいたがる連中がいた」
「採取記録を、ですか」
「ああ。素材そのものより、記録を欲しがる奴らがいた」
採取袋を持つ手が少し重くなった。
俺は自分の動画を思い出した。
どこで採ったか。
どう処理したか。
何を作ったか。
ずっと記録してきた。
それを誰かが欲しがるという感覚が、少しだけ分かった。
「お前の親父は、その手の話を嫌っていた」
息が細くなった。
「父が」
「健次郎は、最浅層の記録は一社のものじゃないと言っていた。食えるものを見つけたなら、食える形で残せばいい。誰かが後から確かめられるようにしておけ、と」
ゲン爺は、棚に並んだ古い箆を見た。
「あいつはな、採るのが丁寧だった。根を傷つけない。岩の湿り具合を手で見る。採ったあとに、必ず少し残す」
「……」
「食べる前も同じだ。いきなり口に入れない。洗って、火を入れて、少しだけ味を見る。うまいと思ったら、すぐメモした」
俺は、父の姿を知らない。
でも、ゲン爺の声の中には、父の手つきがあった。
平たい箆を持つ手。
苔の根元を見る目。
鍋の前で、味を確かめる沈黙。
俺はその光景を、知らないのに想像できた。
「お前と似とる」
ゲン爺が言った。
「急がないところもな」
胸の奥が、一拍、詰まった。
「父も、そう言ってたんですか」
「言っていた。何度もな」
ゲン爺は鼻で笑った。
「急がないんで。食えるものは逃げませんから、と。若いくせに、年寄りみたいなことを言う男だった」
返事ができなかった。
俺が勝手に自分の言葉だと思っていたものが、父の声にもあった。
それが嬉しいのか、怖いのか、すぐには分からなかった。
* * *
「ただし、坊主」
ゲン爺の声が変わった。
「同じ言葉を使っても、同じ道を歩く必要はない」
俺は顔を上げた。
「父の続きじゃなくてもいい、ということですか」
「続きではある。だが、代わりではない」
ゲン爺はゆっくり言った。
「健次郎は、分からないものを一人で抱え込みすぎた。ワシにも言わなかったことがある。山田の爺さんにも言わなかったことがあるはずだ」
「……父は、何を知っていたんですか」
「全部は知らん」
即答だった。
そこが、かえって信用できた。
「分かっているのは、健次郎が槇原という姓を気にしていたこと。最浅層の記録を外へ出す時、必ず写しを残せと言っていたこと。それから」
ゲン爺は一度、言葉を切った。
「古い文書が、どこかにまだ残っているかもしれんということだ」
「文書」
「ワシが持っているわけじゃない。山田の孫が祖父の遺品を調べている。何か出るなら、そっちだ」
有希さんの祖父。
山田善三。
最浅層探索者だった人。
そこに何かが残っているかもしれない。
答えではなく、場所だけが示された。
指先の奥に、細い熱だけが残った。
それはすぐに消えた。
答えではない。
ただの身体の反応だった。
「坊主」
「はい」
「急がないのはいい。だが、一人で抱えるな」
ゲン爺の目は静かだった。
「記録は残せ。誰かに見せろ。父親と同じところに立っても、父親と同じ失敗はするな」
喉の奥が細くなった。
「……分かりました」
「本当に分かった顔じゃないな」
「まだ、分かってる途中です」
ゲン爺は少しだけ笑った。
「それでいい」
* * *
源田屋を出たあと、B2に寄った。
JAGLアプリには通常採取の入場ログを残した。
父の地図は持っていない。
源田屋で聞いた話を写したメモも持っていない。
動画には、今日のB2の記録だけを入れる。
冬の空気からダンジョンの空気に変わると、肺が少し楽になった。
B2の苔の間はいつも通りだった。
岩盤は湿っていて、グリーンモスの青い匂いがする。
ピコが肩の上で羽を開いた。
「ぴこ」
一声。
俺は奥三番目の岩盤の前に立った。
指先を当てた。
細い通電感があった。
今日もある。
それだけだった。
この下に何があるのかは分からない。
父がこの感覚を知っていたのかも分からない。
槇原という姓とこの岩盤がどこで繋がるのかも、まだ分からない。
でも、分からないまま、記録はできる。
俺はスマホに日付と場所だけを入れた。
B2、奥三番目の岩盤。
通電感あり。
ピコ反応、一声。
それ以上は書かなかった。
分からないことを、分かったようには書かない。
父がどうしていたかは知らない。
でも、今の俺はそうすることにした。
* * *
帰りにパープルモスを少し採った。
色のいい株だった。
岩の割れ目に、青みがかった紫がまとまっている。
指先で根元を押すと、弾力が返ってきた。
指先で、いい株だと分かった。
それ以上の意味は載せない。
それでいい。
帰宅して、フライパンを出した。
JAGL資料では加熱推奨の素材だ。
生では試さない。
バターを落とす。
弱火でゆっくり溶かす。
白い泡が端から立って、甘い匂いが広がった。
パープルモスを入れると、パチッと小さな音がした。
紫の苔が熱を受けて、端から濃い青紫へ変わっていく。
木べらで返すたび、バターの膜が薄く絡んだ。
塩をひとつまみ。
それだけ。
器に盛ると、白い陶器の上で青紫が少し光った。
ピコがカウンターに乗った。
「ぴこぴこ」
二声。半音、上がった。
「熱いから待て」
「ぴこ」
一声。低い。
不満そうだった。
少し冷まして、先に分けた。
「ぴこぴこぴこ」
三声。高かった。
俺も食べた。
うまかった。
バターの丸みのあとに、パープルモスの甘みが来る。
塩が舌の上で短く立って、そのあと苔の香りが残った。
父も、こういうものを食べていたのかもしれない。
そう思った。
でも、父が食べたかどうかは分からない。
分からないままでいい。
俺は今、これを食べている。
それだけは確かだった。
* * *
夜、動画を投稿した。
動画タイトルは「B2のパープルモスをバターと塩だけで食べた」にした。
概要欄には、JAGL資料で加熱推奨を確認し、火を通してから食べていることを書いた。
生食せず、確認できる素材だけで試してほしい、とも添えた。
コメントが来た。
「バターと塩だけのやつ、絶対うまい」
「ピコが待てなくなってるのかわいい」
「tanuki_yamaより:シンプルなのが一番ですね。下処理済みで作ってみます!」
「今日の動画、静かだけど好き」
「毎回来てます。応援しています」
批判コメントは来なかった。
来なかったことが、かえって静かだった。
スマホが震えた。
カナメからだった。
「明日、時間ある? 見せたいものがある」
源田屋で聞いた言葉が、胸の奥に残っていた。
記録は残せ。
誰かに見せろ。
俺はスマホを握ったまま、しばらく画面を見ていた。
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