第50話 東和の申し出
火曜日の朝。昨日伏せたメールを開いた。
送信元は、東和プロモーション・ダンジョン配信事業部。
企画担当、中村。
* * *
「佐々木ユウト様。平素よりお世話になっております」
「このたび、弊社にてダンジョン食材配信部門の新設を予定しており、配信者候補として、ぜひご相談させていただきたく、ご連絡いたしました」
「まずは提案内容のご説明のみです。契約判断は後日で構いません」
丁寧な文章だった。
前に来たスカウトDMとは違う。
前回は「ご登録者数を拝見して」から始まる定型文で、最後にURLが貼ってあった。
今回は、俺のチャンネル名と、B5動画の固定コメントに触れていた。
「安全条件の明示を含め、非常に信頼性の高い配信運営と拝見しております」
そこまで読んで、俺は一度、画面から目を離した。
カナメの言葉を思い出す。
条件が良い時ほど、契約書と、誰が動かしてる話かを見る。
俺は返信の前に、カナメへ短くメッセージを送った。
「東和から来た。今日は説明だけ聞く。契約は判断しない」
すぐに既読がついた。
「それでいい。資料もらったら、ちゃんと持って帰って」
その返事を見てから、俺は東和へ返信した。
「ご連絡ありがとうございます。提案内容のご説明を伺います。契約判断は持ち帰らせてください」
二十分後、返信が来た。
「本日午後一時、または明日以降でご都合のよい枠をご指定ください」
早い。
少しだけ引っかかった。
午後一時という近さは、便利でもあった。
でも、便利さに乗ると、相手の速度に合わせることになる。
俺はカレンダーを見ながら、一度、深呼吸した。
面談の前に聞くことを、メモ帳へ書き出す。
資料は持ち帰れるか。
第三者に相談できるか。
録音やメモは可能か。
誰が最終承認者か。
会ってからだと、きれいな言葉に押されるかもしれない。
だから、聞くことだけは先に決めておく。
でも、聞くだけなら今日でいい。
急いで決めない。
その線だけは、先に決めていた。
* * *
火曜日、午後一時。
東和プロモーションの本社ビルは、駅前のガラス張りの高層ビルだった。
入口の床が白く光っている。
受付の背後には、東和のロゴが壁いっぱいに浮かんでいた。
最浅層の湿った岩壁とは、まるで違う。
受付に名前を告げると、会議室へ通された。
ガラス張りの部屋。
机の上には光沢のある提案資料と、水のペットボトル。
中村さんは三十代くらいだった。
明るく、よく通る声。
「ご来社ありがとうございます、佐々木さん。今日は説明だけで大丈夫です」
名刺を受け取った。
「東和プロモーション ダンジョン配信事業部 副部長 中村翔太」
副部長。
メールの「企画担当」より、ずっと上の肩書きだった。
「急なご案内で失礼しました。もちろん、契約判断はお持ち帰りください」
中村さんは資料の表紙を指で押さえた。
「こちらはNDA前の提案資料です。持ち帰り可能です。契約判断のために信頼できる専門家や関係者へ相談していただいて構いません。ただし、SNS公開と複製配布はご遠慮ください」
メモは構いません、と中村さんは続けた。
録音については、社内規定で確認が必要だという。
俺は録音アプリを開かず、ノートを出した。
その一文で、少し息がしやすくなった。
北条さんに見せられる。
有希さんにも、必要なら相談できる。
* * *
一時間、話した。
内容は想像以上だった。
「月額保証:三十万円」
「撮影機材一式:弊社負担」
「専属カメラマン・編集スタッフ:弊社派遣」
「B15以深素材サンプルの合法調達・提供:弊社手配」
「チャンネル名と配信スタイルは原則、変更なし」
資料の紙は厚く、写真もきれいだった。
カメラ、照明、マイク。
俺がいつも台所で苦労しているものが、全部、揃う。
月三十万円。
母が今の仕事を少し減らせるかもしれない額だった。
B15以深の素材サンプルは、俺が中層へ入る権利ではない。
東和が合法的に調達したものを、料理監修用に提供するという説明だった。
それでも、写真だけで胸が少し熱くなった。
紫がかった結晶状の根。
黒光りする小さな球体。
水晶みたいに透けた肉片。
採取Sは動かなかった。
写真だからだ。
それでも、料理したらどうなるのか、想像は勝手に動いた。
見てみたい。
触ってみたい。
料理してみたい。
その気持ちは、確かにあった。
「スタイルは変えないという条件が入っているんですか」
「はい。佐々木さんの今のスタイルこそが必要だと考えています。手順を守る配信者は、今のダンジョン食材市場に必要です」
中村さんは笑った。
きれいな笑顔だった。
入り口が、きれいすぎるくらいに。
俺は資料の一行を見た。
「原則、変更なし」。
原則。
その二文字が少しだけ引っかかった。
まだ理由は言葉にならない。
でも、そこに鉛筆で小さく印を付けた。
* * *
「一点、聞いてもいいですか」
「もちろんです」
「この案件を推進されているのは、どなたですか」
中村さんは一秒だけ間を置いた。
「親会社である東和グループのダンジョン事業本部です」
そこで資料を一枚、めくった。
「最終承認者は、ダンジョン事業本部専務の槇原総一です。槇原は佐々木さんの動画を以前から高く評価していると聞いています」
槇原総一。
初めて聞く名前だった。
中村さんの声は変わらなかった。
でも、一秒の間だけが、耳に残った。
カナメが言っていた。
誰が動かしてる話かを見る。
資料の端に、「槇原総一」と書き写した。
採取Sは何も言わなかった。
ただ、ペンを持つ指先が少し冷えていた。
* * *
帰り道。
東和のビルが後ろに小さくなった。
資料は鞄の中にある。
重かった。
紙の重さではない。
月三十万円。
機材。
スタッフ。
B15以深素材サンプル。
全部、今の俺にはないものだった。
俺が選んだ仕事ではなく、俺が選ばれた仕事。
そういう言葉が、ふと浮かんだ。
選ばれるのは、気持ちがいい。
でも、選ばれた仕事をそのまま受け取ることと、自分で選ぶことは同じじゃない。
ピコが鞄の口から顔を出した。
『ぴ……』
低い、一声。
答えではなかった。
ただ、俺の手元を見ていた。
「まだ決めない」
そう言うと、ピコの羽の光が少しだけ落ち着いた。
* * *
夜、カナメに電話した。
「来た。東和から」
「内容は?」
「月三十万。機材とスタッフ。B15以深の素材サンプル提供。スタイルは原則、変更なし」
「原則?」
カナメの反応はそこだった。
「俺も引っかかった」
「北条さんと有希さんには?」
「明日、まず北条さんに見てもらう。必要なら有希さんにも」
「それがいい」
「カナメは、東和の何が引っかかってる?」
少し沈黙があった。
「まだ確証はない。だから、今は断定で言えない」
「うん」
「でも、所属した人の動画が急に変わった話を何回か聞いた。本人の言葉じゃなくて、事務所の言葉みたいになる」
事務所の言葉。
俺は資料の「原則、変更なし」を思い出した。
「ユウが自分で決めることだよ。ただ、大きいものは入り口が綺麗でも、中が違うことがある」
「わかった」
「あと、今日はもう考えすぎない。食べて寝て」
「またそれ」
「大事」
電話が切れた。
カナメの声は最後まで落ち着いていた。
でも、軽くはなかった。
* * *
深夜、台所でB1のゼリーをひとすくい食べた。
冷たくて、甘い。
いつもの味。
東和の資料はテーブルの上に置いてある。
父の書斎のザックは、隣の部屋にある。
まだ開けていないザックと、今日もらった光沢のある資料。
どちらも、俺の前に置かれている。
片方は、父が残したもの。
もう片方は、東和が差し出したもの。
すぐに決めることはできない。
でも、逃げる話でもない。
俺はゼリーをもう一口食べた。
冷たさが、少しだけ頭を静かにした。
資料の「原則」に丸を付ける。
その下に、もう一つ書いた。
「明日、まず北条さんに見せる」
有希さんにも、その後で相談する。
今夜はそれで終わりにした。
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