第48話 B5のシャドウバット皮
火曜日。JAGLのB5入口限定の特例許可が下りたので、初めてB5に入った。
B4「蛍火の間」の奥にある、JAGL管理の下降通路。
その先がB5「影の境界」だ。
条件は、入口から三百メートル以内、三十分、戦闘なし。
採取対象はシャドウバットの脱落皮だけ。
異常があれば即撤退。
ピコは制度上の同行者ではなく、異常時の知らせ役。
俺はチェックイン端末に許可番号を読み込ませてから、胸の小型カメラを回した。
「JAGLの特例許可を受けた入口限定の採取です。真似してB5に入らないでください」
動画の冒頭に使うつもりで、まずそれだけ録った。
* * *
狭い岩の割れ目を横向きに進むと、天井が急に低くなった。
B5の空気は、B4より重い。
石の冷たさ。
微細な湿気。
生き物の気配が、薄い膜みたいに肌へまとわりつく。
戦闘F。
シャドウバットは素早い。
最初から戦う気はなかった。
地図、時計、退路。
それだけを何度も確認した。
ピコが俺の肩からふわりと浮いた。
先に行きたそうに羽を動かしたが、俺は手を出して止めた。
「三歩より先には行かないでくれ」
『ぴこ』
短い声。
ピコが一度だけうなずくように光った。
ピコが見る。
俺が止まる。
俺が進めると判断してから、一歩だけ進む。
そういう速度で歩いた。
B1やB2で採取Sが来る時は、「ここ」と点で来る。
B5では違った。
壁の湿り。
床石のざらつき。
奥から漂う獣の匂い。
あちこちから細い糸が伸びてきて、指先に絡む。
全部は拾えない。
拾いすぎると、逆に危ない。
俺は深く息を吸って、シャドウバット皮の反応だけを探した。
入口から百二十メートルほど進んだところで、指先が壁際へ引かれた。
* * *
岩の割れ目の足元に、黒い膜状のものが落ちていた。
薄い。
三センチ四方くらい。
端が乾いて、真ん中だけわずかに湿っている。
シャドウバットが落とす外皮膜だった。
JAGL資料では、暗色染料材料。
食材記録はなし。
俺は鑑定Bを使った。
「……無毒。食用成分、一部、あり」
指先で端に触れる。
通電の感覚はあった。
ただ、はっきりした「安全」ではない。
舌の奥に苦みの予感が来て、少し遅れて、油で熱した時の匂いがかすかに浮いた。
食べられる可能性。
採取Sが拾ったのは、そこまでだった。
俺はスマホのJAGLデータベースで「シャドウバット皮」を検索した。
「食用実績:記録なし(皮・爪の採取実績のみ)」
「アレルギーリスク:未検証」
未検証。
その二文字を見て、手が止まった。
鑑定Bが無毒と言っている。
採取Sも反応している。
それでも、自分の感覚だけで安全とは言わない。
源田屋のMサイズ容器に、脱落皮だけを十片ほど入れた。
「採った。戻る」
『ぴ……』
ピコの羽の光が少し細くなった。
俺も同じ気持ちだった。
まだ二十分以上残っている。
でも、今日はここまででいい。
* * *
帰り道、天井の奥で羽音がした。
細い音が、何本も重なって近づいてくる。
ピコが俺の前で止まった。
羽の青い光が、ぱっと横に伸びる。
俺はその場でしゃがんだ。
ザックを胸に抱えて、壁に背中をつける。
黒い影が一つ、頭上をかすめた。
速い。
目で追う前に、もう通り過ぎていた。
ピコは攻撃しなかった。
ただ、俺の前で光を揺らしただけだった。
シャドウバットはその光を避けるように、暗がりの奥へ流れていった。
喉が乾いていた。
指が少し震えていた。
「……帰る」
『ぴこ』
ピコが短く鳴いた。
その声に合わせて、俺はもう一度、退路を確認した。
* * *
B4側へ戻ってすぐ、JAGLの帰還報告を入力した。
B5、影の境界。
入口から約百二十メートル。
採取物:シャドウバット脱落皮、十片。
シャドウバット接近あり、接触なし。
戦闘なし。
ピコの警告で停止、撤退。
送信してから、ようやく息が抜けた。
そのままJAGLの食品安全窓口にも寄った。
窓口の職員は、容器越しに脱落皮を見て、眉を寄せた。
「登録食材ではありません。食べるなら、公開時に未検証であることを必ず明記してください」
「少量なら?」
「加熱処理後、米粒大から。水を用意して、異常があれば中止。人に勧めない。販売しない。動画にするなら真似しない注意も入れてください」
「わかりました」
食材になるかもしれない。
でも、まだ食材として認められているわけじゃない。
その線を間違えると、最浅層ごはんではなくなる。
* * *
帰宅後、台所に水とメモ帳を置いた。
シャドウバットの皮を広げる。
黒い膜は薄く、光に透かすと端だけ灰色に見えた。
まず匂いを嗅ぐ。
獣の匂い。
それに、古い革みたいな乾いた匂いが混じっている。
鍋に湯を沸かして、皮を入れた。
湯の色がゆっくり黒くなる。
膜がきゅっと縮んだ。
浮いてきたアクをすくい、十分、弱火で茹でる。
湯を捨てる時、底に黒い粉が少し残った。
鑑定Bが反応した。
「……タンパク質系。コラーゲン様成分」
水気を拭き、細く切る。
フライパンにオリーブオイルを引いた。
じゅわ、と油が跳ねる。
音が重い。
B4のホタルトンボの天ぷらみたいに軽く弾ける音ではない。
焦げ目がついたところで塩を振る。
まず、米粒くらいの欠片だけを口に入れた。
固い。
水を飲んで、メモに時間を書く。
三十分待った。
喉、舌、指先。
変な痺れはない。
もう一欠片、少しだけ大きく切って食べた。
やっぱり固い。
でも、噛んでいると、奥からじわっと旨みが出る。
甘みはない。
脂も少ない。
それなのに、煮こごりを焼いた時みたいな、粘るコクが残った。
「……うまい」
思わず声が出た。
ピコが皿に近づいて、すん、と匂いを嗅いだ。
俺は先にいつものゼリーを小皿に出した。
「これは未検証。ピコは匂いだけ」
『ぴ……』
低い声だった。
不満というより、警戒に近い音。
ピコは皿の横に座り、黒い膜をじっと見ていた。
* * *
試食分の残りから、小片を一つだけ醤油で炒めてみた。
醤油を落とした瞬間、香りが変わった。
獣っぽさが少し引いて、焦げた醤油の香ばしさが前に出る。
指先がじんと温かくなった。
たぶん、こっちの方が合う。
口に入れる。
さっきより、旨みが深い。
固さは同じなのに、醤油が膜のコクを引っ張り出していた。
「シャドウバット皮:アク抜き必須。弱火十分。薄切り。塩でも可。醤油炒めの方が香りが立つ。米粒大から試食。未検証扱い」
メモ帳にそう書いた。
動画タイトルは、すぐ決まった。
「【B5初挑戦】シャドウバットの皮を料理したら、醤油で化けた【最浅層ごはん】」
ダンジョン内の採取、帰還報告、JAGL窓口の注意、下処理、米粒大の試食、醤油炒め。
全部入れる。
概要欄の最初にも書いた。
「JAGL特例許可済み、B5入口限定。未検証素材です。真似して採取・試食しないでください」
ピコの映像は、頭上の羽音で俺を止めた場面だけ使った。
戦ったわけじゃない。
守ってくれたというより、知らせてくれた。
字幕にもそう入れた。
* * *
翌日、コメントが来た。
「B5に戦闘Fで行くの怖すぎる。でも許可条件まで出してるの安心した」
「入口限定と三十分縛り、ちゃんと大事なんだな」
「ピコの光で止まる場面、息止めた」
「暗色染料素材を食材にする発想なかった」
「米粒大の試食から始める料理動画、初めて見た」
「醤油で化けるの、最浅層ごはんっぽい」
一つ、気になるコメントもあった。
「ピコがいればB5行けるってこと?」
俺は固定コメントを付けた。
「違います。B5はJAGLの許可と範囲指定が必要です。ピコは危険を知らせてくれただけで、入場条件の代わりにはなりません」
送信してから、少しだけ息を吐いた。
ここを間違えたら、俺がやっていることは危険チャレンジになってしまう。
* * *
ピコは今、俺の膝の上で丸まっている。
『ぴこ』
いつもの声。
俺は台所の灯りの下で、シャドウバット皮の残りを眺めた。
薄い、黒い膜。
誰も食材として見ていなかったもの。
でも、下処理をして、少量から確かめれば、旨みが出る。
B5の空気を思い出す。
石の冷たさ。
湿気。
頭上をかすめた黒い影。
採取Sは、点ではなく面で情報を拾った。
でも、安全に動くには、それだけでは足りない。
許可。
地図。
撤退。
ピコの知らせ。
その全部があって、ようやく一枚の皮を持ち帰れた。
最浅層はまだ終わっていない。
そう思った。
登録者:二万八千三百九十一人。
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