第40話 一万人とピコの異変
日曜日、朝七時。
目が覚めた瞬間、スマホを開いた。
登録者:一万四千三百二十二人。
* * *
数字を何度も見た。
一万四千三百二十二。
最後に見た数字は、九千九百九十九だった。
寝ている間に四千三百二十三人、増えた。
コラボ動画の再生数:十八万。
モリヤさんの動画の再生数:二十二万。
合わせると四十万再生。
コメントが千件を超えていた。
「……あ」
声が出た。
「一万人」を超えた。
静かだった。
もっと何か感じるかと思っていた。
でも、台所の光がいつもと同じで。
ピコが膝の上で丸くなっていて。
それが——今まで通りでよかった。
湯沸かし器の小さな音がした。
母が朝の味噌汁を温め直している音だった。
登録者一万人を超えた朝に、家の中で一番大きい音が鍋の蓋の震えだったことが、妙におかしかった。
俺はスマホを伏せた。
一万人の数字より先に、今日も朝飯を食べる。
そう思えたことに、少し救われた。
* * *
コメントをいくつか、読んだ。
「コラボ神」
「モリヤさんのチャンネルから来た。まじで良い動画だった」
「ピコの三声が好きすぎる」
「佐々木さんの採取S感、すごくよくわかった。説明はできないけど伝わる、ってやつ」
「次の動画も絶対見る」
俺は一つ一つに「ありがとうございます」とは言えなかった。
読むだけでじゅうぶんだった。
読んでいるうちにどこかが温かくなった気がした。
その中に、昨日の動画から来た人の長いコメントがあった。
「モリヤさんの動画で知りました。派手な素材より、止まるところをちゃんと映しているのが良かったです」
止まるところ。
七変化の時も、コラボの時も、俺は食べる前に止まっていた。
そこを見てくれる人がいる。
一万人という数字の中に、そういう人が混じっている。
そのことが、数字そのものより少しだけ重かった。
* * *
カナメからメッセージが来た。
「おめでとう。一万人超えたね」
「ありがとう」
「やっぱり来たか。コラボ見てたよ、モリヤさんとの会話、よかった。ユウの採取の説明、初めてちゃんと聞いた気がした」
「いつも言ってるだろ」
「動画で聞くと違う感じがした」
それから少し間があって。
「……最浅層で一万人って、ちゃんとすごいことだから。そこだけは言っておく」
俺はスマホをしばらく見た。胸の奥が一拍、詰まった。
カナメがこういうことをストレートに言うのは珍しかった。
「……ありがとう」
「うん」
そこでやり取りは終わった。
モリヤさんからも来た。
「佐々木くん、おはよう。えらいことになったね。こちらも倍に近い伸びになった。また一緒にやりたい」
「ありがとうございます。またお願いします」
母に報告した。
「ユウ、すごいじゃない」
「うん」
「……お父さんに見せてあげたかったね」
俺は何も言えなかった。胸がひゅっと細くなった。
でも——父の書斎の、まだ整理していないザックの底。
いつか、開けようと思った。
今日じゃなくてもいい。
でも、いつか。
父のザックは玄関脇の棚の奥にある。
そこにあると知っているだけで、部屋の空気が少し変わる。
今日、開けないと決めることも、逃げることとは少し違う気がした。
* * *
午後、B2に入った。
いつも通りの採取。
パープルモスの追加分とゼリー用にB1も寄る予定だ。
「苔の間」を奥まで歩く。
ピコが肩の上で静かだった。
いつも俺が足を止めるとすぐに飛んでくるのに。
今日はついてくるだけで鳴かない。
「ピコ?」と声をかけると短く「ぴ」と返ってくるがそれだけでまた黙る。
指先がいつもの作業へ静かに戻っていく。
グリーンモスを三か所から。
パープルモスを二か所から。
岩盤の中ほどの一点。
ピコが羽を開いた。
俺は足を止めた。
ピコの体が——光っていた。
いつもの青緑の光とは違う。
もっと白い。
もっと静かな、光。
俺はすぐにカメラを向けなかった。
撮れ高にするには、あまりにも静かすぎた。
まず周囲を見た。
魔物の気配はない。
通路の奥から人の足音もない。
ピコの羽ばたきだけが、小さく空気を震わせている。
ピコは岩盤の前で宙に浮いたまま、動かなかった。
俺は指先に何かが来るかと思って、待った。
何も来なかった。
でも——ピコが動かない。
* * *
その場所はB2の「苔の間」の奥から三番目の岩盤の前。
今まで何十回も通ったことがある、場所。
何もない、ただの岩。
この岩の前でピコがこんな風に止まったのは初めてだった。
一分が過ぎた。
二分が過ぎた。
光が少しずつ、強くなっている気がした。
「……ピコ」
声をかけた。
『ぴ……』
応えたが動かない。
俺は岩の表面にそっと手を置いた。
指先が——微かに反応した。
「ここに何かある」というより、普通の岩に触れた時とは違う静かな重さ。
素材があるのとは違う。
もっと静かで深い何かが——この岩の向こうにある。
俺はスマホで場所を記録した。
B2・苔の間・奥三番岩盤前。
三分後、ピコは静かに俺の肩に戻ってきた。
光は消えていた。
いつものピコに戻っていた。
呼吸が乱れている様子はない。
羽も折れていない。
ただ、俺の首元に戻ったあと、しばらく体温だけが高かった。
「……今の何だったんだ」
ピコは何も言わなかった。
俺はその場所をもう一度見た。
ただの岩だった。
でも——指先に、今になって微かな残響があった。
だから俺は、この場所を記録しておこうと思った。
* * *
B1でゼリーを追加採取してから地上に戻った。
光の中で改めて、さっきのメモを確認した。
何の意味もない、座標。
でも——ピコがあそこであの光を出したことには、理由がある気がする。
それだけは確かだった。
* * *
夜、帰宅。
スマホを開いた。
登録者は、朝と同じ数字に見えた。
再生数とコメントはまだ動いている。
でも、頭の中にはあの場所があった。
B2の奥の岩盤。
ピコが光った、場所。
理由はまだわからない。
分からないことを、分かったことにしない。
今日できるのは、時間、場所、光の色、ピコの様子を残すことだけだ。
それ以上のことを言えば、たぶん嘘になる。
* * *
台所でグリーンモスのスープを作った。
今日の素材はB2の奥で採ったもの。
あの岩盤のそばで採ったものだとなんとなく、思った。
鍋に水を入れ、グリーンモスを加えて、弱火にかける。
ゆっくりと緑が溶け出す。
香りが立った。
いつもの清涼な、草と石の匂い。
でも今日は——その奥にもう一つ何かがある気がした。
指先がかすかに鳴る。
「……この素材、特別か?」
ピコが鍋の縁に近づいた。
『ぴ……ぴこ』
いつもより低い音。
意味はわからない。
わからないまま、スープを飲んだ。
甘くて、温かくて——うまかった。
食べ終えた後、スマホのメモを開いた。
昼に残した座標メモ。
今すぐ、この意味を解明しなくていい。
でも——記録しておく価値はある。
指先の違和感を、無視してよかったことは一度もない。
あの岩盤の前で残った静かな重さは、今夜もまだ指先に残っている。
ピコがテーブルに降りてきた。
俺のスマホの画面の光に、鼻先を寄せる。
文字を読んでいるわけではない。
でも、その光には反応している。
「……わかるのか」
『ぴこ』
一声だけ、答えた。
それがどんな意味なのかはわからない。
ピコは画面から鼻先を離さなかった。
電気を消した。
窓の外の晴海の夜が静かだ。
昼間ならきっと、一万人の数字だけで胸がいっぱいになっていた。
でも、今は違う。
あの岩盤の前で光ったピコの姿が、数字よりも強く残っている。
一万人が来た日に、次の謎も来た。
嬉しさだけで終われないのが、少しだけ怖かった。
それでも、怖いと思えるほど大事なものが増えたのだとも思った。
今夜は記録だけにする。
明日届く契約書も、逃げずに読む。
急がない。
でも、逃げない。
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