第27話 食品メーカーからのDM
昨日アップしたピコ初登場の動画が一夜で五万再生を突破していた。
枕元の青いLEDが執拗に明滅している。手を伸ばした。画面のガラスが今朝も少し冷たい。
再生数:五万三千。登録者:八千四百。
数字はただの記号だ。そう言い聞かせても指先が微かに熱を持っている。数日で千人以上が増えている。バズのピークがまだ終わっていない。
管理画面の通知バナーを下にスワイプした。今までで最多のDM通知が並んでいた。
赤い数字の「12」という塊。
個人ファンからの応援。コラボ打診。それ以外に明らかに毛色の違う二件が混じっているのを鑑定Bではなく直感で感じ取った。文章の重さが違う。
* * *
台所へ降りるとトースターの乾いた音がリビングに響いていた。
母が起きている。
「ユウ、ピコちゃん、すごい人気ね」
母はスマホを見ていない。俺が階段を降りる足音の踏み込み方の重さで昨夜の数字の変化を測っていた。
「五万、越えた。DMも今までで一番来てる」
「急がなくて、いいのよ」
母はいつものトーンだった。ジャムの瓶の蓋を開ける音が俺の騒がしくなりかけていた心臓を一度止めた。胸の奥が静かに落ち着いた。——母の「急がなくていい」はいつも俺が必要とする一拍前に来る。
「わかってる。仕事の話は急がない」
俺はダイニングテーブルに座り、冷蔵庫から昨日採取した白い筋のない通常部位のゼリーを一切れ取り出した。
薄い青みの断面。蓋を外した瞬間、かすかな甘い香りが鼻先をかすめた。
口に含むと——昨日よりコクがわずかに落ちた気がした。採取から二十四時間。
舌の上に乗せると、いつもの「ぴりぴり」が少し鈍い。保存容器の限界が指先に伝わってくる。
DMのリストを開いた。
* * *
一件目は、送信元の会社名をぼかした外部スカウトの窓口からだった。
本文の書き出しは「この度は弊社よりご連絡申し上げます」だった。
続いて「現在のご活動の市場価値および今後の配信収益の最大化について、ご相談の機会をいただけますでしょうか」。
文章は丁寧だが、「最浅層ごはん」という言葉が一度も出てこない。「ピコちゃんの認知度を活かしたマーチャンダイジング展開」という一行を読んだ瞬間、画面を伏せた。
俺の料理について、何も書いていなかった。
胸の奥が静かに落ち着いた。迷いがなかった。——それだけで充分だった。
ピコが通気ケースの中で首を傾げている。朝の光を受けて、青い羽が鱗粉のように明滅していた。
「ピコ。お前、商品価値があるんだってさ」
ピコは羽を一度しっかり閉じた。
それだけで答えは出た。
そのDMをアーカイブに送った。返信はしない。
* * *
二件目の送り主はy_yamada——山田さん。
『おはようございます。昨日の動画、お疲れ様でした。ピコちゃん、本当に不思議な生き物ですね』
y_yamada。今まで誰よりも早く、誰よりも的確なコメントを残してくれた人。十本目からずっと見続けてくれた人だ。
『これまでは個人として動画を拝見していましたが、今回は葉山食品の研究部門として正式にご相談があります』
『最浅層食材の保存状態と調理記録について、一度オンラインでお話を伺えないでしょうか』
山田さんは、もうただのコメント欄の人ではない。葉山食品の研究者として、俺の動画の前に立っている。
『ご都合のよいタイミングでかまいません。まずは短い打ち合わせだけでも』
スカウト文面の主語は「弊社」だった。山田さんの文章の主語は「私」だ。
読んで再読して、三度目を読んだ。
文章の質が違う。「研究部門として正式に」という言葉が、「個人として動画を見ていた」という文脈の中に置かれていた。ファンとしての目線と研究者としての目線が、切り替えではなく重なっている。
俺はスマホを置いた。
喉の奥が細くなった。——山田さんが、個人の視聴者から研究者として一歩前に出てきた。その事実の重さが今になって来た。
オンラインで話すなら、ゼリーの保存状態をどう説明するか——それが今週の最大の問題だった。山田さんが研究者として興味を持っているなら、保存方法や成分の話ができるかもしれない。急がない。でも、話す価値はある。
ピコがケースの内側から俺の指先を見て、低く一声、鳴いた。
『ぴこ』
知らない相手に対する時の慎重な声に聞こえた。でも、距離を置く感じではなかった。
* * *
残りの十件を確認した。
配信者仲間からのコラボ提案が三件。「ピコの種族を教えてほしい」という研究者らしきアカウントが二件。それ以外はファンからの応援と商品PRの依頼だった。
コラボ提案は急がない。研究者アカウントはプロフィールに大学名がなかった。後回し。
ファンの応援メッセージには短く感謝を返した。それだけで充分だ。
山田さんのDMに指を置いた。
彼女は俺がスライムゼリーパフェを出した頃から、誰も見向きもしなかった「スライムを洗う音」をちゃんと聞いてくれていた人だ。コメントの内容もいつも具体的だった。「ゼリーを濾過する角度、変えてみましたか」「B2の苔の青は加熱で抜けますか」——料理を見ていた人のコメントだ。
『山田さん、一度オンラインでお話したいです。よろしくお願いします』
送信して、スマホを置いた。
続けて、必要な確認事項だけを送った。
送る前に、スクリーンショットを一度開き直した。氏名と適性結果は見える。氏名は本人確認に必要な範囲だ。登録番号欄の識別に関わる部分と住所欄は、画像編集で黒く塗った。
俺が渡すのは、採取と料理に関係する情報だけだ。家の場所や個人番号まで渡す話ではない。
採取S、料理S、鑑定B。JAGLの適性結果のスクリーンショットは、研究部内確認用として扱う、と山田さんの文面に明記されていた。
* * *
昼前、母が出かけた。ピコの通気ケースを台所の端に置いた。
俺は台所に立ち、白い筋のない通常部位のスライムゼリーの残りを一切れ取り出して小皿に置いた。返信を打ちながら、ゼリーを口に含む。採取したのは昨日。今日で一日目。
透明な白に青みがかった断面。断面の縁に細い光の反射が走っている——採れたての証だ。甘みはまだ残っている。けれど、採取直後と比べると微かにコクが落ちた気がした。舌の上に乗せるとぷるりとした弾力の向こうに清涼感が続く。でも、いつもの青みがかった余韻が少し薄い。
これを水曜日の夜まで最善の状態で保てるか。保存の方法がまだ最善ではないと指先が告げていた。
今夜B2に潜る前に保存容器を調べ直す必要がある。JAGL売店アプリで、ゼリー用の密封容器を探してみよう。
スマホの通知がまた光った。さっきの外部スカウト窓口から二通目のDMが届いていた。「ご検討のほど、よろしくお願いいたします」という短い追加文。
俺はその通知を閉じた。
急かされるのは嫌いじゃない。ただ、答えが変わるわけでもない。
ピコが鳴いた。
『ぴこ、ぴこ』
二度。何かに同意したように、俺には聞こえた。
——今夜、保存容器を調べ直す。オンラインで話す時、ゼリーをどこまで「本物」のまま説明できるか。その答えが明日の採取にかかっている。
順番がある。急がない。でも、手は止めない。
そして夜。机の上のスマホがもう一度震えた。
山田さんからの返信——「水曜日の夜、研究開発部の北条も同席します。保存状態の話から相談させてください」。
喉の奥が細くなった。それからゆっくり広がった。——次は何かが変わる。そういう予感が今夜の書斎に静かに満ちていた。
水曜日の夜に向けて、明日、保存容器を探す。一番いいやつを仕込む準備を始める。
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