第23話 料理チャンネル化
木曜日、朝七時。
スマホを取った。十四本目の一夜明けの数字を見る。
再生数:三万八千。登録者:七千二百。
——一晩で再生が約三十倍。登録者は六千台から七千二百へ、約千二百、増えた。解除は昨夜から追加で二十二人。
コメントは三百件を超えていた。
『寒天、思いつかなかった!!』
『通販、待ってます』
『B1のゼリーでこんな、お菓子できるの?』
y_yamada —— 『寒天比率、ゼリー:寒天=60:1、美味しさと保形性のぎりぎりです。保形性の検証、楽しみにしています』
山田さんは、公開コメントではいつもの距離に戻っていた。
昨日カフェで会ったことを匂わせない。仕事の話も、人の話も、ここには出さない。——それだけで、あの人がどこまで線を引いているかが分かった。
昨夜のメールには、寝る前に短く返していた。
『祖父のノートの件、ありがとうございます。母とカナメに話してから、改めて相談させてください』
送信済みの一行をもう一度見て、画面を閉じた。順番は決めてある。
十四本目の視聴層は十三本目、ホタルトンボの天ぷらと少し違っていた。
映像の『映え』で入ってきた人ではなく、『食べてみたい』で入ってきた人。
コメントの言葉の色が違っていた。
月曜に『料理・グルメ』のカテゴリへ変えた選択が、木曜の朝、反応として戻ってきた。
* * *
台所で母がトーストを焼いていた。
「ユウ、昨日の人、どうだった」
「……うん。山田さん、って人。二十代後半」
「どんな人」
「眼鏡で、敬語で、落ち着いた人。——九本目のスライムゼリーパフェを見つけて、それから初期のB1動画まで遡って観てくれてた」
母はトースターのタイマーを指で一度押した。
「バズる前から?」
「うん。y_yamada名義でコメントを書く前から、たぶん見てくれてた」
母は少し笑った。
「静かな応援団、だね」
「うん」
「……お父さんの話、出た?」
母の声の温度が一段下がった。いや、正確には温度は同じだった。——呼吸の間隔が一拍、長くなっただけ。
「出た。山田さんのお祖父さんがB4で一度、『佐々木さん』と並んで調査した可能性がある、って。——確定じゃない」
「……佐々木さん」
母はトーストを皿に移した。
「それで思い出した。お父さんの手帳の古いやつ、一冊だけ、屋根裏にある」
「……手帳?」
「日付だけの手帳。用件は記号と短い単語で書いてある」
「意味が分からなかったから、今までただの予定だと思ってた。でも、人の名前がそのまま残っている頁は珍しかったから、そこだけ覚えてた」
山田。
俺はパンを噛むのを一度止めた。
「屋根裏、今、上がっていい?」
「朝食、食べてから」
母はそう言った。——急がないの先例が母の家にもあった。
* * *
屋根裏に上がったのは九時。
段ボール箱の一番下。父の黒い、合皮の手帳。年度:二〇一二〜二〇一四。日付の上に記号と短い単語。
二〇一三年、四月、第三週、水曜日。
『B4、並走、山田。塩苔S。』
——塩苔S。
『塩と苔のスープ』の略記だろうか。『S』は『Soup』かもしれない。父の手帳は、ときどき英単語の頭文字を雑に混ぜる。
でも、そこだけを急いで決めてはいけない。
確かなのは、父が十三年前の春、B4で『山田』という相手と並んだらしいこと。
そして、その日に塩と苔のスープを示すような短い記号を残したこと。
それが山田さんの祖父なのかは、まだ分からない。
それでも、昨日カフェで聞いた『佐々木さん』と、父の手帳に残っていた『山田』は、互いに近づきすぎていた。
俺は屋根裏の埃の中でしばらく座っていた。——屋根裏の傾いた明かりが手帳の頁に静かに当たっていた。
* * *
十一時、カナメからLINEが来た。実戦練習の休み時間。
『昨日、どうだった』
『山田さんが y_yamada だった』
『うん』
『父の手帳に、B4、並走、山田、って出てきた。山田さんの祖父かはまだ未確認』
カナメの既読が三秒。返信は一分置いて来た。
『上がり、今日、十九時』
——十九時に実戦練習が終わる。そのあと会いに来るという意味。
『お母さんと先に話してていい』
『分かった』
『二人の話で先に決めていい。——私はあとで聞く』
——カナメ。二人の話の『二人』は俺と母の意味だった。カナメは自分から後ろに一歩下がった。父のことはまず、俺と母の二人で話す。A級の彼女の立場ではなく、俺の幼馴染として、そう判断した。
* * *
正午、母と食卓で向かい合った。父の手帳を間に置いた。
「並走、山田、塩苔S」
母は一度頁を読んだ。読んでから指で文字をなぞった。——思い込みではないと、母の指が確かめていた。
「お父さん、この日のあと、台所で苔のスープを作ろうとした」
「……作ったの?」
「作れなかった。——お父さんは『材料と比率は合ってる。でも、味が出ない』って」
——材料と比率は合ってる。でも、味が出ない。
「どういうこと」
「分からない。お父さんも分からないって言った。——お父さんが『分からない』って言うのは珍しかった」
母はそう言って、食器棚の奥から小さな空き瓶を出した。
古い岩塩の瓶。中身はもうほとんど残っていない。ラベルだけが、白く擦れて残っていた。
「これは使わない。さすがに古すぎるから」
母は瓶を俺の前に置いた。置き方がいつもの卵焼きを出す時と同じ速度だった。揺れない、母の置き方。
「でも、同じ産地の岩塩は、今も買える。お父さんはこの塩で試してた」
俺はしばらく古い瓶を見ていた。
父が出せなかった味。
材料と比率の向こう側。
母の記憶は、俺のチャンネルの方向性のもう一段深いところを指していた。
* * *
十五時。
俺は父の書斎に上がった。DungeonTubeの管理画面を開いた。
チャンネル名:『最浅層ごはん』。
数週間前に付けた名前は、もう仮ではなかった。
変更するのは名前ではない。説明文だ。
プロフィール文:『最浅層で採った食材を、手順を守って料理し、記録しています。戦闘はしません。危険な素材や未確認部位は使いません』。
指が『戦闘はしません』の文字の上で一度止まった。
これを自分の公開プロフィールに書くのは、数週間前の俺にはできなかった。今は書ける。笑われても、たぶん折れない。
保存を押した。
胸の奥が一拍、静かに熱くなった。
料理チャンネルの定義を、俺の側からもう一度、書いた。
* * *
十七時、葉山食品の高田さんにメールを打った。
『先日はありがとうございました。山田さんとのお時間、大変ありがたかったです。お仕事のお話も、改めてご相談させていただきたく、一度日程をいただければと思います』
送信。高田さんの返信は五分で来た。
『承知しました。山田とは別日程で、お仕事のお打ち合わせを設定いたします。ご連絡ありがとうございます』
急がないは、仕事の拒否ではなかった。
仕事の話を、人の話と分けただけ。
仕事の話もやる。ただし、自分の順序で。
* * *
十九時、カナメが家に来た。
玄関でカナメは母に一度深く、お辞儀した。カナメのお辞儀を正面から見るのは久しぶりだった。——小学校の卒業式以来かもしれない。
三人で台所に立った。
古い瓶は食卓に置いたままにした。実際に使うのは、母が夕方買ってきた同じ産地の新しい岩塩。
俺がB2で採って乾燥させていたグリーンモスを棚から出した。JAGLの食用登録と加熱推奨を確認し、自分の鑑定でも変質がないことを見た。
水を鍋に張った。
『材料と比率は合ってる。でも、味が出ない』——父が出せなかった味。
俺の指先が岩塩を摘む。カナメが水の温度を見る。母が苔を小さく千切る。
三人の動きが台所の同じ時間に進んだ。
苔を水に入れる。
岩塩を一つまみ。
弱火で十分間。
鍋の縁から青みを帯びた湯気が細く上がった。
苔の清涼な草の香りが台所に広がる。
ぽこぽこと小さな気泡の立つ音が、三人の無言の中に規則正しく続いた。
スプーンで一口。
最初に来たのは、塩の角のない丸さだった。
そのあとで、苔の青い香りが舌の奥でほどける。
苦みはある。でも、嫌な苦みではない。湯気の奥に、草を噛んだ時の甘さが少し遅れて残った。
味は出た。
母がもう一口、飲んだ。
「……お父さんが出せなかった味」
「出たよ」
「うん」
母は頷いた。泣かなかった。笑わなかった。——ただもう一口、スープを飲んだ。
俺の指先がかすかに温かくなった。
父が出せなかった味が今夜、この台所にあった。
カナメはスプーンを握ったまま、しばらく俺を見ていた。
「ユウ」
「うん」
「……迷ったんだけど。動画にしよう」
「……え」
「今日のこれ、十五本目にしよう。——『父が出せなかった味』じゃなくて、『材料と比率の向こう側まで届いた味』として」
喉の奥が細くなった。
俺はスプーンを皿に置く手が一度止まった。
カナメの一行の言葉に返す言葉が、すぐには見つからなかった。
母が静かに頷いた。
「お父さんの名前は、まだ出さなくていい」
「うん」
「山田さんのお祖父さんの話も、出さない。母さんとカナメも映さない。——スープだけ撮る」
カナメが小さく頷いた。
「それでいい」
俺はもう一度、鍋の中を見た。
青みを帯びた湯気が、細く、まっすぐ上がっていた。
* * *
夜、二十二時半。
冷蔵庫の白い筋のゼリーは今夜、二十九本。——四日ぶりに一本、増えた。
バズとカフェと塩苔スープの三つの山を越えた、あとの一本。
俺は数字を数えて、冷蔵庫の扉を閉めた。
十五本目の仮タイトルをノートに書いた。
『最浅層の塩と苔のスープ。——材料と比率の向こう側』
父の書斎でレシピ帳を開いた。日本語ではない、図と記号の中盤のページ。——今まで深く見なかった。今夜、初めて明かりの下に広げた。
三角、点、丸、四角。——そのうち一つだけ、俺が見覚えのない記号があった。
『羽』に似た線。
三角の横に小さく添えてある。
——羽。
B4のホタルトンボではない。トンボの羽は、父が別のページに『トンボ』と日本語で書いていた。この羽は違う形だった。もっと柔らかい曲線。
俺はその羽の記号をしばらく見ていた。
胸の奥が一拍、ひゅっと細くなった。
父はこの羽の生き物に、一度会いかけていたのかもしれない。
明日、B3に行こう。
十五本目の苔スープは家で撮る。でも、B3には別の用事ができた。
父の羽の記号の正体を確かめるための、採取ルート。
父のレシピ帳は今日、俺に一つだけ、新しい頁を開いて見せた。
それは確かだった。
ブクマや評価をいただけると、続きの執筆がすごく捗ります。
楽しんでいただけたら、ぜひ応援してやってください!




