第21話 七十二万再生の朝
月曜日、朝六時半。
起きてスマホを取った。昨夜は寝る前に四十九万五千だった。
今朝は画面を開く前に、指先が一度震えた。——バズの二日目の朝は、昨日とは違う慎重さで息を吸わせた。
再生数:七十二万。登録者:五千六百。
七十二万。——昨夜から二十二万五千、増えた。
寝ている間に、世界の別の時間帯の視聴者が静かに画面を押していた。
管理画面の分析カードが一つ、目に入った。
『昨日からの登録解除:十二』
——十二人。昨夜からの解除数。カテゴリを変えていない、今朝の時点で既に十二人、減っている。伸びる一方ではない。バズの二日目は粘土質の波打ちだった。
コメントは二千三百件を超えていた。——開くのを朝食のあとにした。一度に読むとたぶん目がつぶれる。
* * *
台所で母が卵を溶いていた。
「ユウ、七十万、越した?」
「……なんで分かる」
「ドア越しにスマホのロック解除の音が今朝、昨日より半拍、遅かった」
母の観察は精確だった。俺のスマホを開く、指の速さの違いで今朝の数字の大きさを測っていた。——揺れない人の揺れない観察の仕方だった。
「七十二万。登録者、五千六百。——解除、十二人」
「解除も数えるの?」
「今日から数える」
母は頷いた。卵焼きのフライパンの角度を変えた。それから一言、言った。
「ユウ、今日、駅前、カナメちゃんと?」
「……うん。十二時」
「行ってらっしゃい」
玄関で俺の靴の左右を母はまた、音もなく揃えた。——揃える手の指先の触れ方がバズの朝でも、昨日と同じ重さだった。
* * *
駅前のコンビニは数週間前と同じ場所にあった。
冒険者登録に向かう前の朝。カナメが栄養バーを一本差し出した、あのコンビニ。
『一本、食べろ』。あの声。
カナメは先に着いていた。十一時五十五分に行ったのに、カナメは十一時四十五分に来ていたのだろう。A級の時間感覚だった。
「栄養バー」
カナメが先に言った。
「……うん?」
「今日はあんたが買って」
俺は一瞬だけカナメの目を見た。——数週間前、同じ場所で同じ一本を俺に差し出した時のカナメの目と今日の目は同じ高さで俺を見ていた。俺はレジに行った。二本、買った。
カナメはたぶん自分の分を自分で買うタイプだった。だから、一本、無理に差し出した。
『一本、食べろ』と今度は俺が言った。
「うん」
カナメは栄養バーを開けた。俺も開けた。二人ともコンビニの軒下で立ったまま、同じ栄養バーを齧った。——歯の跡がカナメの昨日の実戦練習の疲労と今朝の五時半の起床の両方を含んでいた。
俺はしばらく噛んでいた。胸の奥が一拍、温かくなった。
数週間前、俺はF判定の絶望の中で、この同じ一本をカナメから貰った。
今日、俺は七十二万再生の二日目の朝に、同じ一本をカナメへ渡している。——時間が一本の栄養バーの長さの中で折り畳まれて届いた気がした。
「七十二万、って、聞いた」
「母から?」
「お母さんから。朝七時にLINE、来た。『七十万、越えたって。お茶、飲みにおいで』」
——母とカナメの直通LINE。お茶に呼ばれている。今朝も動いていた。
「『お茶、飲みにおいで』はつまり」
「『ユウの顔、見ておいて』、って、意味」
カナメはそう、訳した。母の短い一文がカナメの口から長い翻訳になった。——母は今朝、俺の顔をカナメに見ておいてと先に頼んでいた。俺がバズで迷子にならないように。
「七十二万のどこが余波?」
「余波は数字じゃなくて、周りの反応。——解除もう、出てる?」
「十二人」
「じわって始まるよ。明日、五十人。明後日、百人。一週間で二百人くらい解除される。それと登録が同時進行で増える」
カナメはそう、予告した。
「葉山食品、折り返した?」
「まだ。今夜」
「大手のスカウト窓口からは来てる?」
俺は首を振った。
「まだ」
「来る」
カナメは短くそう言った。『来る』の語尾が軽く下がった。
冗談ではなく、たぶんA級の寮で聞いている業界の動き方の話だった。
「うちの寮の一つ上にA級の高木さんって先輩がいる。去年の夏、一回だけ七十万再生を出した。翌週の火曜日、大手のプロモーション会社からDMが来たらしい。——配信のスカウトの話」
「受けたの?」
「断った。——断ったあと、しばらくコメント欄が荒れた」
俺は栄養バーを噛む口が一度止まった。
「……因果関係、ある?」
「無い、って、言う人もいる。でも、高木さんは『ある』と言ってた」
カナメはそれ以上、言わなかった。——A級の寮は業界の動き方の影の部分も静かに伝え合う場所だった。俺が知らなかっただけで。
断るか、受けるか。——今日、決めない。急がない。それは俺のルールだった。
でもルールの向こう側に、先輩のコメント欄が荒れたという現実の重さが置かれた。
「あんたの決断」
「うん」
「私はどっちの決断でも、——うん、一緒に噛む」
カナメは栄養バーをもう一口、齧った。『一緒に噛む』はカナメの短い、約束の形だった。
* * *
カナメと駅前で別れた。——十三時。
家に戻って、父の書斎に上がった。
レシピ帳の最後のページ、俺の鉛筆の書き込みの下に新しい一行を書き足した。
『月曜朝、再生七十二万、登録者五千六百、解除十二。——駅前、栄養バー、役割、交代』
書きながら、俺はDungeonTubeの管理画面を開いた。
チャンネルのカテゴリ設定。
——現在のカテゴリ:『冒険・ダンジョン探索』。
選択肢の一覧を下にスクロールする。
『料理・グルメ』。
カテゴリを『冒険・ダンジョン探索』から『料理・グルメ』に変える。
指が一度ボタンの上で止まった。——戦闘F判定の俺が『冒険・ダンジョン探索』のカテゴリに登録していた、この数週間。違和感はもうない。でも、変えるのはもう一つの踏み込みだった。
たぶん視聴者の一部が離れる。——『最浅層で戦闘しない、料理だけ』の枠に自分から入る。『戦闘系の華やかさ』を期待していた、新規登録者の何割かは登録解除する。
でも、俺の動画は最初から料理だった。カテゴリだけが名前を変える。
指を押した。
『カテゴリを料理・グルメに変更しました』。
——気のせいではもうない。俺が俺のチャンネルの呼び方を自分で決めた。
管理画面の数字が、数分の間に小さく動いた。
『登録者:五千五百九十七』
『コメント一件:戦闘、やらないなら、登録解除します』
『コメント一件:料理チャンネルなら、最初からそう書いて』
——三分で三人、解除。一人ずつ、離れていく音が、画面上の数字として届いた。予想の範囲だった。
でも、予想と現物は重さが違った。胸の奥が一拍、詰まった。——画面を閉じた。
* * *
夕方、十八時。
葉山食品、広報課、高田さんの番号を押した。三コール、出た。
「葉山食品、広報課、高田です」
「佐々木ユウトです」
「ああ、ユウト様」
高田さんの声は留守電と同じ、落ち着いた、女性の声。——電話越しに一度軽く、吐息が混じった気がした。少し嬉しそう。
「お忙しいところ、恐れ入ります。昨日、お電話、差し上げた件ですが」
「はい」
「実は弊社の社内にユウト様の配信を最初期から追いかけている、者がおりまして。その者からぜひ、ご挨拶だけでも、させていただきたいという、希望が出ております」
——バズの前から追いかけている、者。
俺はスマホを耳に当てたまま、しばらく声を出さなかった。
「コメント欄で、お会いしている方ですか」
「……ユウト様、察しが早いです」
高田さんは少し笑った。
「はい。コメント欄で何度かご挨拶している者です。名前を出すのは本人が先にご挨拶してからという希望でして、私の口からはまだ控えさせていただきます」
——名前を出さない。
本人が先に会いたがっている。俺の動画を、バズる前から専門的に見てくれていた人。
俺は電話越しに一度頷いた。——相手が見えない頷きだった。でも、高田さんの受話器の向こうでたぶん伝わった。
「……お会いしたいです。仕事の話と別に」
「仕事の話と別に?」
「葉山食品さんのお仕事の話は急がない、つもりでいます。でも、——コメント欄で何度も安全線を拾ってくださった方には先にお会いしたいです」
高田さんは電話越しに小さく、笑った。
「同じこと本人も申しておりました。——仕事の話はあとでいいと」
「……では先にご挨拶の機会をいただければ」
「日程調整のため、事業者問い合わせに登録されている連絡先を本人へ共有してもよろしいでしょうか」
「はい。日程の連絡だけなら」
「承知しました。本人に伝えます。日程は後ほど、メールで」
電話を切った。
俺はスマホを机の上に置いた。——急がないと昨日決めたルールが今日も効いていた。
仕事の話と人の話を分ける。葉山食品の契約の話は、今日はまだ話さない。
コメント欄で専門的に見てくれていた人の名前だけが、近づいてきた。
冷蔵庫の白い筋のゼリーは今夜、二十八本。日曜の夜と同じ数。——深夜投稿から月曜日まで、俺は新しいゼリーを仕込んでいない。冷蔵庫の中でも、今日は時間が同じ速度で進んでいた。
* * *
夜、二十二時。
DungeonTubeのコメント欄に新しい一行が増えていた。
mi_kana —— 『カテゴリ変更、見た。それでいい』
——カナメ。今朝、駅前で会った、あのカナメが今夜、二十二時に静かに俺のカテゴリ変更を肯定して、いた。
ゲン_zeroのコメント欄は昨日の『続けてきたな』の一行のまま、動いていなかった。——三件目はたぶんまだ先。
コメント欄の下の方、新しい書き込みの中に一つ、見慣れない名前の短い一行があった。
agency_scout ——『興味深い企画です。お仕事のご相談、可能でしたら、下記まで。[外部メッセージアプリへのリンク]』
事務所系のスカウトらしいアカウント。
公開のコメント欄に外部リンクを貼る、アカウント。DungeonTubeの利用規約、ぎりぎりの書き方。本気で俺をコメント欄で拾いに来ているという、意思表示だった。
カナメの駅前の昼の予告が今夜、たった七時間で俺の画面の中に形を持った。
火曜日のDMすら、待たなかった。
手が一度止まった。——断ったあとコメント欄が荒れた、という話が頭の別の場所で鳴った。
俺は返信を書かなかった。外部リンクも押さなかった。——今日はまだ書かない。ルールは同じ。急がない。
画面を閉じた。
窓の外、五月の新緑の街路樹が夜の風に軽く揺れていた。
明日、十四本目の撮影をする。——スライムゼリーの寒天仕立て。
カナメが駅前でもう一つ、ぽつりと言ったアイデアだった。
『あれ、冷蔵庫で何日持つの?——通販できるんじゃない』。
今夜、白い筋のない通常部位のブルースライムゼリーを一口だけ舌に乗せた。
プルリとした弾力が歯に届いた。冷蔵保存していた通常ゼリーの甘みがまだ澄んでいる。
青みを帯びた清涼感が鼻の奥をかすかに抜けた。冷蔵庫から出した直後のひんやりとした表面から、じわっと甘みが染みてくる。
寒天で固めたら、この透明な甘みはどこまで残るのか。
スマホが震えた。
——知らない番号。
画面の上、時刻、二十二時四十七分。留守電にさせる前に画面が一度黒くなって、着信が切れた。相手も留守電を残さなかった。
番号だけが残った。昼の葉山食品の番号ではない。——別の知らない番号。
俺はその番号を画面のスクショで保存した。——急がないルールの適用先はたぶんもう、一つ、増えた。
ブクマや評価をいただけると、続きの執筆がすごく捗ります。
楽しんでいただけたら、ぜひ応援してやってください!




