第18話 B4への挑戦
B4。単独では入れない階層。
金曜日、朝六時、カナメからLINEが来た。
『B4、行かない? 今日、夜。私、付き添う』
俺はしばらく画面の上で指が止まった。
B4——蛍火の間。
F級の単独入場は登録の一時停止対象。
でも、C級以上のパーティ同行なら、F級も入れる。
カナメはA級。
ただし、同行申請は要る。
LINEの五分後、JAGLアプリに臨時同行許可の通知が来た。
同行者:御崎カナメ。
範囲:B4入口から銀の広間手前まで。
時間:十八時から二十一時。
『付き添い料、取らないよ』ともう一行、カナメは打ち足した。
冗談と本気の境目の一行。——『書けない日』の二日目が昨日。三日目にするか、一歩、下に降りるか。
『行く』
返事を打った。
『十八時、JAGL入口集合』
それだけだった。
* * *
俺はザックを棚から下ろした。
左手で前髪を掻き上げた。
父の黒革のザック。
十二年、触れなかった。
日曜日、鍵を開けた。
中身を書斎の机に並べた。
ザック自体は空のまま、棚に戻っていた。
今日、俺はそのザックを背負う。
棚から下ろした瞬間、革の手触りが指先に薄い、冷たい感触を残した。
思っていた重さより軽い。
十二年の埃も落としていない。
中に自分の機材を入れる。
ヘッドライト、ミニ三脚、予備カメラ、ジップ袋、ナイフ、保冷剤入りの小型ケース。
光柱の粉の小瓶には触れなかった。
未確認のものをB4に持ち込んで混ぜる理由はない。
肩にかけた。
父のザックと俺の背中。——近くも遠くもない、ちょうどいい距離だった。
喉の奥が一度細くなった。それから息を吐いた。
* * *
玄関で母に声をかけた。
「行ってきます」
「B4、カナメちゃんと聞いた」
「カナメが先に話してた?」
「今朝、電話、来た」
母とカナメはやっぱり、繋がっていた。静かに俺の知らないところで。
「気をつけて」
「うん」
「——父さんのザック、今日、背負うね」
「うん」
母の目元が一拍、動いた。
笑わなかった。
泣かなかった。
ただ、うんと一度だけ言った。
それから玄関の俺の靴の左右を音もなく揃え直した。
母の手の指先が靴紐の根元で微かに震えた。
気のせいではもうない。
十二年、家の棚に置かれていた、ザックが今日、十二年ぶりに家を出る。
* * *
十八時、JAGL晴海支部、入口。
カナメはA級の実戦装備ではなく、普段のジャケットに戦闘用の軽装備を上から羽織っていた。肩の短剣の柄。
「久しぶり、って言うほど、時間、経ってないけど」
「ちゃんと話すのは四日ぶり」
「感覚、半年」
俺たちは笑った。
短い、軽い笑い。
カナメの目元には、実戦練習のあとの疲労がまだ薄く残っていた。
A級でも、疲れるものは疲れるらしい。
「B4はじめて?」
「うん。俺はB1、B2、B3、しか、入ってない」
「入口付近の『銀の広間』まで一緒に行く。そこから先、深部はF級はやめとく。——約束して」
「約束する」
「約束した」
カナメがそう、言った。約束したはカナメ自身が自分に約束させたときの言い方だ。小学校の時から同じ。
* * *
転移魔法陣でB1、連絡階段でB2、B3、そして、さらに深い階段でB4。
四段目の階段は狭く、長く、冷たかった。
B3の二十五度からB4の十八度へ。
七度の落差が階段の途中から肌に伝わってくる。
下りきると目の前に鍾乳洞が広がった。
天井は見上げても届かない。
二十メートルとカナメが小声で言った。
小声が天井の奥まで届いて、戻ってくるまでに数秒、かかる。
水滴がどこかでぽたん、ぽたんと時間を置いて、落ちる。
湿った岩の匂い。
ほんの少しの金属の冷たさ。
空気が肌に貼り付く前に冷たく、抜けていく。
十八度の冷気。
鍾乳石が滴のような形で無数に垂れている。——でも、暗い。ヘッドライトの光では空間が広すぎて、届かない。
俺たちはしばらくヘッドライトを消した。
目が暗闇に慣れてくる。十秒、二十秒。
そして、天井のあちこちで青白い光が舞っていた。
ホタルトンボ。
資料にはあったが蛍のような点滅ではなく、持続する発光。
発光器官が胴体の後ろについていて、羽根が動くたびに光の軌跡が一瞬空気に残る。
色は一様ではない。
濃い青、淡い水色、そして時折、わずかに緑を帯びた白。
音は——無い。
羽音すら、鍾乳洞の広さに飲まれて、届かない。
冷えた空気が皮膚に張り付く。
光だけが動いている。
俺の横でカナメの息が一度止まった気配があった。A級の実戦練習の合間にもたぶんここには来ていない。
——撮る。撮れる。これは嘘のない動画になる。
俺はミニ三脚を立てた。
* * *
カナメは入口の岩のやや奥の『銀の広間』の手前まで俺を先導した。
銀の広間と呼ばれる、最も光が密集する場所は入口から百メートルほど、奥。
天井が低く、光が反射で二倍、濃くなる。
「ここから先は行かない。ここで私が周囲を見る」
「分かった」
「ホタルトンボは網で一匹だけ、獲ってみて。発光器官は装飾素材。食用は、まだほとんど記録がない」
「食べるなら、帰って資料と鑑定Bで確認してから。今日は持ち帰りだけ」
俺は頷いた。
資料でも、発光器官の食用欄はほとんど空白だった。
誰もやらない場所が、また一つ増えた。
網で一匹、捕まえた。
ホタルトンボは俺の網の中で数秒だけ、強く光って、それから静かに動かなくなった。
粒のような発光器官を三つ、ピンセットで外す。
——指先に微かに光が残った。
鑑定B。
舌で判定するには家に持って帰ってから。
今は採取S。
指先の光の残り方で新鮮さを測る。
まだ生きている光だ。
光が指先に残ったまま、ジップ袋を鼻先に近づけてみた。
ほぼ無臭。
けれど鼻の奥のほんの一点に青い光に似た、涼しい匂いがした。
スライムゼリーでも苔でもない、別の種類の冷たさ。
これは天ぷらにした時、どんな香りに変わるのか——まだ分からない。
* * *
撮影はカナメと交互にした。
俺が発光器官をジップ袋に入れる手元をカナメが俺のスマホで撮る。
カナメがA級の装備で俺の背後を静かに見守る姿を俺が俺のスマホで撮る。
——F級の採取者とA級の護衛が並んで映る絵はたぶん今まで誰も撮ったことがない。
カナメにカメラを向ける前に一度聞いた。
「動画に顔、映っていい?」
「映していい。横顔と手元まで」
「名前は出さない。ハンドル名も出さない。でも、同行者:A級冒険者って字幕は付けていい」
同行者:A級冒険者。
字幕だけで十分。
勘のいい人は何かに気づくかもしれない。
でも、俺からカナメの名前も、mi_kana との線も確定しない。
その距離をカナメは自分から決めた。
俺は頷いた。
* * *
帰りの階段でカナメは俺の一歩前を歩いていた。
「ユウ、昨日、動画、撮らなかったね」
「うん」
「書けない日」
「うん」
「じゃあ、今日のこれは」
「……書けた日」
俺はそう、答えた。
ザックが背中で少し重くなった気がした。
父のザックの革の音が一歩一歩、階段の乾いた響きに混ざった。
* * *
家に着いたのは二十三時半。
発光器官をジップ袋のまま、小型ケースごと冷蔵庫に入れた。
天ぷらは明日。
食べる前にJAGL資料と鑑定Bで確認する。
——明日、十三本目、撮る。
カナメにLINEを打った。
『ありがとう』
『うん』
『また、付き添い、頼んでいい?』
『条件による』
『条件?』
『いちばん、美味かった動画、先に観せて』
——付き添い料のこれが本当の請求書だった。俺は笑った。
『承知』
送信の直後、カナメからもう一通。
『公開、深夜帯、試してみたら。海外からの視聴者、増えてきてるんでしょ? 時差、考えたら、日本の深夜=海外の昼』
——海外。前の夜、俺が閉じかけた『海外字幕希望』のコメント。カナメはたぶんあのコメントも見ていた。
『ありがとう。試す』
既読。画面を閉じた。
* * *
書斎に上がった。
ザックを机の上に置いた。
今日、B4まで一緒に行った、父のザック。
中身は俺の機材に入れ替わっている。
でも、ザックそのものは十二年ぶりに地下を歩いた。
父の革表紙のノートを開いた。
中盤のページ、三角と点の『沈黙。記録。』の横に、俺は鉛筆で一行、書き足した。
『書ける日も記録。——B4、行った。ホタルトンボ、捕獲。明日、天ぷら』
父の字と俺の字が同じ余白の中で会話をした。
喉の奥が細くなった。
冷蔵庫の白い筋のゼリーは今夜、二十七本。
——でも、今日は数えたことが痛くなかった。
明日、ホタルトンボの天ぷらを撮る。
公開時刻は深夜。
カナメの時差の話が頭の中でもう、計算に入り始めていた。
気のせいではもうない。
父のザックは背中にちょうどいい重さでついてきた。
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