第16話 鑑定Bが役立つ日
土曜日の朝、五時半。
起きてすぐ、十本目の再生数を確認した。
再生数:四百三十二。公開十時間でそこまで来ていた。九本目パフェが公開丸一日で再生三だったことを思うと桁がひとつ、別の場所に動いた。
登録者:二十二。昨夜の十七から五人、増えた。
コメント欄を開いた。十九件。y_yamada の下に返信ツリーが三つできていた。
> `詳しすぎる。どこの人?`
> `普通のコメ主じゃない気がする`
> `mi_kana さんの反応もやけに早いの毎回`
視聴者が俺の動画の中で別の会話を始めていた。俺の料理ではなく、コメント欄そのものを話題にしはじめている。
——気のせいではもうない。ここは画面の向こうに住人のいる場所になった。
* * *
今日の予定はB3のケイブマウス。
昨日のB3でゴブリン肉と並んで気になっていた採取候補が洞窟の奥の岩影で見かけた小型の齧歯類——ケイブマウスだった。資料ではB3の小型モンスター扱い。肉は食用可。でも、『質の良い個体』と『悪い個体』の差が大きい。市場ではほとんど流通しない。新鮮な個体が混ざる保証がないから。
『鑑定B級以上の判定を推奨』と俺のIDカードに付いてきた食用安全リストに書かれていた。
俺の鑑定はB。父の鑑定はAだったと母が昔、一度だけ、言ったことがある。父のA。俺のB。一段下。でも、B以上の条件はぎりぎり、満たしている。
* * *
B3に着いたのは九時半。
噴出孔のガスが壁の奥で薄い緑に今日も呼吸していた。鉱物と硫黄の空気は昨日と同じ。でも、昨日の俺は肉を採りに来ていた。今日の俺は判定に来た。目的が違うと同じ洞窟でも、見え方が少しだけ違う。
ヘッドライトの光を熱だまりのキッチンよりさらに四十メートルほど先の岩影の方に向けた。壁の隙間、乾いた砂利の上でケイブマウスが三匹、群れていた。小型と資料にあった通り、手のひらに乗るくらいの灰色の体毛。
俺は売店で買った捕獲用ネットを袋から出した。千八百円。小動物採取キット。
近づくとケイブマウスは一斉に逃げた。——速い。
三分、待った。三匹が別の岩影からまた、出てきた。——今度は先頭の一匹にネットをかけた。手前にいたというだけの理由。選ばなかった。採取Sの指先も今日はどれが良い個体か、教えてくれなかった。ただの一匹を捕まえた。
判定は家でする。——鑑定Bは舌で動く。そう、父のレシピ帳のどこか、書き込みの余白に小さく、書いてあった気がした。あれはたぶん父が自分自身の鑑定Aについて、誰にも読ませるつもりのなかった、独り言だ。
* * *
家に戻って、下処理をした。皮を剥ぎ、肉を小さく、指の爪くらいに切る。
強火で一秒だけ焼いた。
口に入れた。
……土臭くない。
舌の上で一瞬で判定できた。——新鮮な個体。偶然手前にいた一匹が当たりだった。
そして、舌が先に動いた瞬間、俺は自分の中の何かがスライムゼリーの時の指先の『ぴりぴり』と違う場所で鳴ったことに気づいた。
指先の『ぴりぴり』は採取Sだ——たぶん。あれは現場で素材に触れた時に動く。
舌の上の一秒の判定は口の中で動く。鑑定B、たぶんこれが俺の中でのはじめての発動。父のAよりは遅くて、鈍い。でも、動いた。気のせいではもうない。
喉の奥が一度細くなった。それから胸の真ん中あたりに何かがじわっと広がった。父のAの血が俺のBに薄く流れ込んでいる、そういう感覚だった。
俺は録画していたカメラの電源を一度切った。判定の瞬間を動画で流すと視聴者には再現できない。『俺は鑑定Bだから分かりました』と言うのは嘘のない動画の真逆だ。——スキルの話は動画ではしない。
この判断だけは今朝のうちに決めておく。y_yamada がどう問おうと答えは動画の中身で返す。
* * *
本番の調理。リエット。
タマネギ、ニンニク、白ワイン、ローリエ、塩、胡椒。ケイブマウス肉五百グラムを弱火で三時間、煮込む。家にあるものだけでできる。
煮込みの間に動画編集ソフトを開いて、昨日の十本目動画のアナリティクスを見た。
y_yamada の視聴履歴のグラフが二回、ピークを描いていた。一度観てもう一度最初から最後まで観ている。——それだけで俺の今日の煮込みの手が少し速くなった。
さらにコメント欄に新しいのが増えていた。
> `B3で自撮りしてるF級配信者、ほかに知ってる人います?`
> `ゴブリン肉、スーパーで買って燻してみました。地熱石の代わりにキャンプ用炭で。普通に美味しかった`
> `mi_kana さんのコメ、表現が独特。戦闘系の人っぽい`
誰かが俺の動画を試している。キャンプ用炭で桜チップを燻して、ゴブリン肉を焼いた。俺がB3の地熱石で見せた絵を自宅で再現した人がいる。
指が煮込みの鍋の前で一度止まった。
* * *
三時間後、リエットは完成した。
フォークで肉をほぐすと繊維が煮込みの脂をしっかり含んで崩れていく。台所に白ワインと脂とローリエの複雑な香りがふわりと広がった。パンに塗ってみた。一口。
……美味い。
白ワインの酸が肉の脂をすっきりとまとめている。ローリエの香りが奥の方でぎりぎり、顔を出す。食感は粗くほぐれた繊維のざらつきと柔らかい脂の層が交互に来る。
ケイブマウスの名前だけ聞くと食指の動かない素材。でも、新鮮な個体を鑑定Bで選んで(今日は選んだというより判定して、捨てるか否かを決めた)、三時間、煮込む。それだけで鶏のリエットより野趣と旨味が深い、別の料理になる。
* * *
夜、母が帰宅した。
「ユウ、リエット、匂う」
「試作。明日、上げるのは熟成ゼリー。これは火曜の分」
「……前倒しで作ってるの?」
「鑑定Bが今日はじめて、仕事した」
母はしばらく俺の顔を見ていた。それからリエットを一口食べた。
「……これ」
「うん」
「父さんがあなたが三歳の頃、一度だけ、作ったやつ。——豚バラでもっと荒い切り方だったけど、同じ輪郭の味」
俺はフォークを止めた。
「父さんのレシピ帳には肉の項は無かったよね」
「書いてない。父さん、作ったけど、書かなかった」
母の目が少しだけ遠くを見た。
「書ける日は書く。書けない日は書かない。——あなたの先週のメモ、あれ、父さんと同じ」
俺は何も返さなかった。母の舌は十五年前の父のリエットを覚えていた。俺の手はたぶん同じ輪郭の味に今日、辿り着いた。父の書かなかった料理を母の舌と俺の手が十五年越しに再生した。
父のレシピ帳に書き加えるではない。父の書かなかったページを開いたという方が近い。
* * *
夜、十時半。
カナメから短いLINEが来た。
『リエット、匂い、届いた?』
——カナメにまだリエットの話、していない。でも、カナメは知っている。glow_moss 経由か、カナメ自身の勘か。母がベランダ越しにたまたま、何かを伝えたか。
『届いた』
それだけ、返した。
『食べたい』
『実戦練習、いつ終わる?』
『月曜の朝』
『火曜の動画で出す。十二本目。——残り、冷凍で取っておく』
『ありがとう』
短い。でも、これでカナメの月曜日の終わりと俺の火曜日の動画が繋がった。
* * *
夜、十一時。
DungeonTubeを開いた。
十本目の再生数:六百二十。公開一日でそこまで来ていた。登録者:二十六。新規コメントもたまっていた。
> y_yamada —— `ケイブマウス、選別する動画、興味あります。選別の話はする側ですか、しない側ですか`
——選別の話はする側ですか、しない側ですか。
俺はしばらくその一行を見ていた。鑑定Bの話を動画でするか、しないか。
今朝、舌で判定した時に俺はしない側に一度決めた。でも、y_yamada の問いをもう一度読むと「しない側」の決断も少し揺れる。——選別の話をしなくても鑑定の精度の話はできるかもしれない。「俺はこういう風に食べる前に小さく一切れ、焼いて、味を見ます」という、手順の公開なら、スキルの話ではなく、料理人の所作として、視聴者に届く。
答えは数日、かけて、考える。——急いで決めた答えはたぶんカメラの前で声が嘘になる。y_yamada は俺の動画を二回、観るだけで答えを受け取る。
冷蔵庫の白い筋のゼリーは今夜、二十一本。今日、新しいゼリーを一袋、冷蔵庫の下段に加えた。明日、熟成ゼリー動画の公開日。
——気のせいではもうない。俺の手も母の舌も父の書かなかった料理もy_yamada の問いもカナメの夜のLINEも全部同じ場所で少しずつ、動いている。
ブクマや評価をいただけると、続きの執筆がすごく捗ります。
楽しんでいただけたら、ぜひ応援してやってください!




