第100話 それでも、最浅層から
あれから一年が経った。
三月の終わりの、いつものB2だった。
入口に近い苔地帯に見慣れない人がいた。
二十歳くらいの背の低い女性だった。
グリーンモスの前でしゃがんで首を傾げていた。
採取袋を開きかけたまま、止まっていた。
どう採ったらいいか、分からないのだろうと思った。
少し離れた通路口に、JAGLの同行スタッフが立っていた。
端末の青いランプが点いている。
初心者同行枠。滞在場所はB2入口の苔地帯まで。
胸元の小型カメラは録画中だった。
JAGL確認済みの啓発協力動画として、スタッフにも確認を取ってある。
女性の顔は映さない約束だった。
ピコの同行も、体調安定時の確認範囲内だ。
「触っても大丈夫ですか」
声をかけたのは俺だった。
「え、あ、はい、たぶん……あのでも、食べられますか、これ」
「JAGL食用登録済みの範囲なら食べられる。栄養もある」
「本当に?」
「本当に」
女性がようやく俺の顔を見た。
目が丸くなった。
「…………佐々木ユウトさんですか」
「そうだ」
「わ、あの動画、全部見ました。それで最浅層に来てみようと思って……採取適性がFで、初回講習後の単独許可はB1までなんです。でも今日はJAGLの初心者同行枠で、スタッフさんと一緒ならB2入口までは滞在していいって言われて……」
採取適性Fで、初回許可B1の新人だった。
俺は採取袋を確認した。
「採取適性Fでも、今日の同行枠ならB2入口までは来ていい。ただ、一人で奥へ行くな。時間内にスタッフのところへ戻ることと、JAGL端末のチェックアウトを忘れないこと。それだけ守れ」
「あはい。スタッフさんのところに戻って、友達にも場所を送ります」
「それでいい」
女性がグリーンモスを見た。
「採取はどうやってやればいいですか」
「急がないことだ」
女性が首を傾げた。
「急がないと、採れますか」
「採れる。採取SでもFでも、ここにある食材は同じだ。ただ、採る場所と手順は守れ」
* * *
採取の仕方を少しだけ教えた。
無理に深く採らないこと。
岩の割れ目にある苔が質がいいこと。
色が均一なものを選ぶこと。
持ち帰ったら洗って、必ず加熱すること。
迷ったらJAGL資料に載っているものだけにすること。
女性はメモアプリに全部記録していた。
指が速かった。
俺が最初の頃、メモを取っていた頃と似ていた。
あの頃はJAGL資料を見ながら、一つ一つ確認していた。
「ここって、動画で見た場所ですよね」
「そうだ」
「ずっと同じ場所に来てるんですか」
「大体ここだ」
「……いいですね」
女性が採取袋を開けた。
「何がいいんですか」
俺が聞いた。
女性が少し考えた。
「ずっと同じ場所に来られる理由があるって、いいと思って」
俺はその答えを聞いた。
ずっと同じ場所に来られる理由。
うまいからだ。
最浅層の食材がうまいから。
それだけが続いている理由だった。
「持って帰って、炒めてみます」
「バターがあれば、バターで炒めろ。いい香りがする」
「バターで」
「ちょっと塩を振ればいい。それだけで美味い」
女性がうなずいた。
「やってみます」
ピコが俺の肩口で鼻をひくつかせた。
「ぴこぴこ」
二声。半音、上がった。
女性がピコを見た。
「わ……ピコ。本物だ」
「本物だ」
「動画でもすごくかわいかったです」
「ぴこぴこぴこ」
三声。高かった。
女性が笑った。
俺も少し笑った。
B2で誰かに笑ってもらうのがいつから当たり前になったのか。
最初の頃はB2に来るのは俺一人だった。
誰も来ない場所で誰も見ない動画を撮っていた。
* * *
少し経って、カナメが来た。
「遅い」
「B3で足を止めた。新しいスポットを見つけた」
「後で見せろ」
「うん」
カナメが女性を見た。
「知り合いか」
「今日会った」
カナメが女性にうなずいた。
「採取適性Fか」
「そうです、あの御崎カナメさんですよね……」
「そう。同行枠のB2入口なら、手順を守れば安全だ。ゆっくりやればいい」
カナメはそれだけ言って、俺の隣に並んだ。
女性が嬉しそうな顔をした。
「あの一つだけ聞いていいですか。採取適性Fでも、続けていいですか」
俺は採取袋を持ち直した。
「美味いと思ったなら、手順を守って続ければいい。その気持ちに、判定は関係ない」
「……はい」
「最浅層なんで」
「最浅層なんで?」
「急がないんで」
女性がまた笑った。
「分かりました」
女性は採取袋にグリーンモスを一つ入れた。
大事そうに袋を閉じた。
「ありがとうございました」と言って、帰っていった。
その背中がB2の通路の向こうに消えた。
通路口のスタッフが端末を確認し、青いランプが消えた。
ピコが女性の去った方向を見ていた。
「ぴこ」
一声。低かった。
でも、何か確認したという声だった。
* * *
B2の通路をカナメと歩いた。
ピコが先を飛んでいた。
「あの子、続けるかな」
カナメが言った。
「分からない。でも、今日は美味いと思う」
「そうか」
カナメが壁の苔を指で触れた。
「今で何本になった、動画」
「数えてない」
「私は数えた。今日で四百三本だ」
「……数えてたのか」
「数えていた」
俺はカナメを見た。
カナメは前を向いたまま言った。
「ユウが撮るたびに更新した。全部見ている」
返事ができなかった。
今の声も、カメラには入っていた。
カナメは消すなとも、消せとも言わなかった。
カナメの肩が、少しだけ俺の腕に触れた。
離れなかった。
B2の苔が青緑の光を帯びていた。
ピコの光と同じ色だった。
* * *
地上に出た。
風が来た。
春の風だった。
スマホに有希さんからメッセージが来ていた。
「先月確認いただいた論文が掲載されました。JAGLと共同研究機関の発表で、D粒子文明、公式名称が今日から使われます。最浅層の食材は古代文明の主食だったという記録も、公開範囲を確認したうえで学術的に認められました」
俺はメッセージを読んだ。
「それと、祖父の記録が正式な一次資料として引用されました。ゲン爺さんが公開を許可した記録も。お二人に報告できてよかったです」
ゲン爺に転送した。
三分後、返信が来た。
「健次郎が辿り着けなかった場所まで来た。よくやった」
それだけだった。
左手は前髪に届かなかった。
代わりに、背負っていたザックの肩紐を握っていた。
肩紐には父の鍵が下がっている。
かつては、開けるための鍵だった。
今は、一緒に歩くための鍵だった。
カナメがスマホを覗いた。
「よかったな」
「よかった」
「次は何をする」
俺は採取袋を見た。
グリーンモスが入っていた。
「帰って、これを炒める」
「それだけか」
「それだけだ」
カナメが隣を歩いた。
ピコが二人の間を飛んだ。
「ぴこぴこぴこ」
三声。高かった。
晴海の空が夕方の色に変わり始めていた。
ダンジョンの入口が遠ざかっていった。
明日もあの入口から降りる。
B1の空気を吸って、B2の苔を採る。
帰ってきて、台所で料理する。
カメラを回す。
それだけが続く。
それだけでいい。
* * *
帰宅した。
台所に立った。
グリーンモスをフライパンに入れた。
バターが溶けた。
ジュッと音がした。
甘い匂いが立ち上がった。
ピコがカウンターで鼻をひくつかせた。
「ぴこぴこ」
二声。半音、上がった。
「もうすぐだ」
フライパンを揺らした。
苔が黄金色に変わった。
器に盛った。
ピコに先に渡した。
「ぴこぴこぴこ」
三声。高かった。
俺も食べた。
うまかった。
B2の苔だった。
最浅層の苔だった。
変わらない味だった。
スマホの通知が来た。
DungeonTubeからだった。
登録者が百万人を超えたという通知だった。
画面には、登録者:百万一千、と表示されていた。
しばらくスマホを見た。
百万。
胸の奥がじわりと熱くなった。
息が一瞬うまく出なかった。
B1のスライムゼリーを誰も見ていなかった頃からここまで来た。
視聴者ゼロの一週間があった。
炎上でコメント欄が荒れた夜があった。
カメラが壊れた日があった。
ピコがいなかった間があった。
それが全部今この通知の一行に繋がっている。
左手で前髪を掻き上げた。最後にもう一度。
長く止まっていた手が、今は自分で動かせる手になっていた。
父の手だと思っていた左手も、今は俺の手だった。
ピコが俺を見た。
「ぴこ」
一声。
低かった。
でも、嬉しそうだった。
「分かってる」
俺はカメラを取り出した。
三脚を立てた。
録画ボタンを押した。
ピコがカメラを見た。
「ぴこぴこぴこ」
三声。高かった。
最初から最後まで高かった。
俺はカメラに向かって、言った。
「今日も、飯が美味い」
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