第98話 最浅層の勝利
東和公式の短文発表から二日後、JAGL晴海支部から通知が来た。
件名は、B5保全対象に関する暫定保全指定。
正式登録ではない。
そこは、最初に太字で書かれていた。
けれど、内容を読むにつれて、胸の奥がゆっくり熱くなった。
B5保全対象周辺について、調査完了まで一般立入申請を停止する。
関連記録を公共研究資産候補として審査に入れる。
個人または法人による独占利用申請、データ提供契約、流通利用整理は、審査完了まで保留する。
保全対象の画像、座標、開閉手順、未確認文字、未確認物の詳細は、引き続き非公開。
俺が公開していいことは、JAGL確認済み編集版を投稿したこと、そして今回の暫定保全指定が出たことだけ。
それでも、十分だった。
東和が一方的に進める道の前に、線が引かれた。
その線は、俺の動画ではない。
JAGLの通知だった。
紙の上の文字なのに、B1の水音みたいに静かだった。
* * *
有希さんから、すぐにメッセージが来た。
「暫定保全指定、確認しました。正式登録ではありませんが、大きいです」
「正式じゃないんですよね」
「はい。だからこそ、今は勝利宣言をしない方がいいです」
「分かりました」
「でも、今日は少しだけ喜んでください」
その文面で、ようやく息が抜けた。
少しだけ喜ぶ。
それくらいなら、許される気がした。
ゲン爺にも送った。
「JAGL通知、見ました」
返事は短かった。
「ようやく線が引かれたな。食え」
相変わらずだった。
カナメからは、電話が来た。
「見た」
「俺も見た」
「勝ったと思うな」
「思ってない」
「でも、良かったと思え」
「それは思ってる」
電話の向こうで、カナメが小さく笑った。
「ならいい。食べて寝ろ」
「それ、昨日もコメントしてた」
「同じことを何度でも言う」
カナメらしかった。
電話を切ったあと、スマホの画面に、取材依頼が並んでいるのが見えた。
ニュースサイト。
業界チャンネル。
一般メディア。
全部、すぐには返さない。
今日は、取材に答える日ではない。
線が引かれたことを、線からはみ出さずに伝える日だ。
* * *
台所に立った。
冷蔵庫には、B1のスライムゼリー。
野菜室には、B2のグリーンモス。
米もある。
今日は、派手な料理にしない。
グリーンモスの雑炊にする。
湯を沸かす。
ことことと小さな音が始まる。
刻んだグリーンモスを入れると、青い匂いが湯気に混じった。
米を入れる。
鍋の中で、白と緑がゆっくり混ざる。
スライムゼリーは、細かく切って最後に落とす。
熱で表面だけが少し溶け、透明な角が丸くなる。
ピコがカウンターに乗ってきた。
「ぴこぴこ」
二声。
半音、上がった。
「今日はやわらかいやつ」
「ぴこ」
一声。
低くない。
卵を溶く。
細く流し入れる。
黄色が鍋の中でほどけ、グリーンモスの青を少しだけ明るくした。
塩を入れる。
湯気が、顔に当たる。
熱い。
その熱さで、ここ数日の紙の冷たさが、少しずつほどけた。
器に盛る。
スプーンを入れると、米の重さとゼリーの弾力が一緒にすくえた。
食べる。
熱い。
青い。
甘い。
ゼリーが遅れて舌に戻ってくる。
「……あ、これ、美味い」
口から出た声が、思ったより小さかった。
でも、ちゃんと自分の声だった。
* * *
録画を始めた。
カメラには、JAGL通知の画面を映さない。
文面を読み上げもしない。
公開可能な要点だけ、メモを見ながら話す。
「B5保全対象について、JAGLから暫定保全指定が出ました」
そこで一度、息を吸った。
「正式登録ではありません。詳細は確認中です。座標、入口手順、未確認文字、未確認物の詳細は出しません」
ピコがカウンターの端で羽を震わせた。
音は入る。
姿は少しだけ画角の端にいる。
「今日の動画は、B1食用登録済みスライムゼリーと、B2食用登録済みグリーンモスの雑炊です。採取や調理を真似する場合は、JAGL資料、入場区分、食用部位、体調記録、撤退基準を確認してください。B4以深、B5保全対象、未確認物は、動画を見て行く場所ではありません」
言ってから、鍋にカメラを向けた。
ことこと。
小さく沸く音。
湯気。
青い匂い。
卵の黄色。
ゼリーの透明。
大きな発表の日に、画面に映るのは、いつもの鍋だった。
それでいい。
その方がいい。
* * *
動画を上げると、コメント欄はすぐに動いた。
「正式登録じゃなくて暫定保全指定、了解」
「勝ったって言わないの、信用できる」
「でも大きいよな。暫定保全指定って」
「B5行くな、また固定コメに書いてある。大事」
「雑炊うまそう。こういう日に胃に優しいやつ出してくるの好き」
「取材受けないの?」
「本人のチャンネルで話してくれるのが一番いい」
「最浅層食材、派手じゃないのにずっと見てる」
俺は、取材についてのコメントには返さなかった。
代わりに、固定コメントを少しだけ直した。
取材対応は確認中です。
公開できる範囲は、まずこのチャンネルで整理します。
詳細確認前の憶測や、現地への無理な訪問は控えてください。
送信する。
コメント欄の流れが少しだけ落ち着いた。
全部が落ち着いたわけではない。
それでいい。
大きく動いた日のコメント欄が、すぐ静かになるはずがない。
でも、少なくとも、向かう方向は示せた。
* * *
母から電話が来たのは、動画を上げて一時間ほど経ってからだった。
「見たよ」
第一声が、それだった。
「どっちを」
「通知のことも、雑炊のことも」
母の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「正式じゃないって、何度も言ってたね」
「先に言っておかないと、変に広がるから」
「うん。それが良かった」
短い肯定だった。
けれど、胸の奥が一拍ゆるんだ。
「父さんのこと、まだ詳しくは話せない」
「分かってる」
母はすぐに言った。
「話せる形になってからでいい。あなたが今、話さないでいることも、ちゃんと見てる」
喉の奥が、少し細くなった。
母は、父の四十七分をまだ全部は知らない。
それでも、俺が話さないことを、隠しているのではなく守っているのだと受け取ってくれた。
「雑炊、美味しそうだった」
「食べる?」
「明日、少し残ってたら」
「残しておく」
「無理に残さなくていいよ。ユウが食べなさい」
その言い方が、昔から変わらなかった。
電話を切ると、鍋の底に少しだけ雑炊が残っていた。
明日の朝、温め直そうと思った。
母の分も、少しだけ。
* * *
夜、源田屋に行った。
ゲン爺は店の奥で、古いファイルを閉じていた。
「来たか」
「来ました」
「食ったか」
「食いました」
「ならいい」
それだけで終わりそうだった。
俺は、少し迷ってから言った。
「ありがとうございました」
ゲン爺は、ファイルの上に手を置いた。
「礼を言うには早い」
「はい」
「でも、健次郎には言っておく」
胸の奥が、ふっと詰まった。
「何をですか」
「坊主が、線を引いたとな」
違う、と言いかけた。
俺だけじゃない。
ゲン爺がいて、有希さんがいて、カナメがいて、JAGLがいて、研究機関がある。
でも、ゲン爺はたぶん、それを全部分かった上で言っている。
だから、俺は何も言わなかった。
店の外は冷えていた。
源田屋の奥だけ、湯気の匂いが残っていた。
勝ったわけではない。
終わったわけでもない。
ただ、最浅層を誰か一社の箱に入れないための線が、今日、引かれた。
それを勝利と呼ぶなら、たぶん、こういう静かなものだ。
スマホが震えた。
JAGL晴海支部からの通知だった。
最浅層食材の初心者向け啓発動画について、協力相談をしたい。
明日以降、都合のよい時間を教えてほしい。
俺は画面を見て、少しだけ笑った。
勝利の次に来たのは、また手順の話だった。
それでいい。
登録者:六十四万一千人。
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