第97話 槇原を突破する
槇原総一を含む面談要求への返事は、俺からは出さなかった。
昨日決めた通り、代理人の弁護士が返した。
条件は三つ。
弁護士同席。
面談記録の作成。
単独接触なし。
場所は、東和の会議室でも喫茶店でもなく、JAGL晴海支部の貸会議室になった。
JAGLが議事内容を保管するわけではない。
それでも、入口と退室時刻の記録が残る場所を選ぶ意味はあった。
JAGL職員は同席しない。
保全対象を判断する場ではなく、民間同士の要求を確認する場だからだ。
有希さんは同席しない。
葉山食品の人間として利害関係が強くなりすぎるからだ。
その代わり、提出済み資料の受付番号と、共有許可済み分析要約の一覧だけを、俺の代理人に渡してくれた。
「ユウトさんが話すべきことと、私が会社として扱うことを混ぜない方がいいです」
有希さんはそう言った。
それも、昨日覚えた分業だった。
* * *
JAGL晴海支部の三階。
小さな会議室は、白い壁と長机だけの場所だった。
俺の隣にはカナメ。
斜め前に、俺の代理人弁護士。
向かい側に、東和側の弁護士。
その隣に、槇原総一が座った。
五十代の男。
きちんとしたスーツ。
整えられた髪。
声を出す前から、場を自分の速度に合わせることに慣れている人間だと分かった。
「佐々木ユウトさん。本日は、条件を整えていただき、ありがとうございます」
槇原は丁寧に頭を下げた。
俺も頭を下げた。
カナメは、座ったまま槇原を見ていた。
睨んではいない。
ただ、ずらさない。
「まず、昨日の通知について、東和側の趣旨を確認したいです」
俺の代理人が言った。
「削除または訂正を求める動画、該当箇所、権利侵害または信用毀損の根拠を、具体的に示してください」
東和側の弁護士が紙をめくった。
「現時点では、一連の最浅層食材記録、およびB5保全対象に関する公開動画が対象です」
「一連ではなく、個別の動画名と時刻をお願いします」
部屋が静かになった。
紙をめくる音だけがした。
槇原が、そこで初めて口を開いた。
「佐々木ユウトさんの記録が、社会的に大きな影響を持ち始めていることは理解しています」
柔らかい声だった。
「だからこそ、慎重な管理が必要です。B5周辺の保全対象、最浅層食材の成分、古い記録。これらは、個人配信者の手元で扱うには重い」
俺は、膝の上の手を見た。
怖さはある。
でも、昨日より、手は止まらなかった。
「だから、俺の手元だけで扱わないようにしています」
槇原が俺を見た。
「JAGLに原本を出しました。研究機関に仮受領されています。葉山食品の分析要約も、共有許可の範囲で提出済みです。俺の動画は、料理と手順の記録です」
「しかし、動画は世論を動かす」
「動くと思います」
俺は言った。
「だから、出せないものは出していません」
カナメが、少しだけ息を吐いた。
今のは、逃げなかった。
自分でそう思えた。
* * *
槇原は、指を組んだ。
「東和には、記録を整理する人員と設備があります。佐々木さんのお父上も、最浅層の価値を重く見ていたと聞いています」
父の名前が来る。
胸の奥が、一拍、硬くなった。
「佐々木健次郎氏の記録を、正しく保全するためにも、当社との共同整理を検討していただきたい」
共同整理。
言葉はきれいだった。
でも、昨日の内容証明で先に来たのは、停止しろ、削除しろ、確認を取れ、だった。
きれいな言葉の後ろに、紙の硬さが残っている。
「父の記録は、東和と俺の二者で扱いません」
声は震えなかった。
「JAGLと研究機関の記録にします」
槇原の表情が、ほんの少しだけ動いた。
「お父上の意思を、あなたが決めるのですか」
「全部は決められません」
俺は答えた。
「でも、少なくとも、父が地図とメモを残したのは、誰かに渡すためだったと思います。どこか一社の箱に入れるためじゃない」
部屋の空調の音が、小さく鳴っていた。
俺は続けた。
「俺の動画も同じです。B1のゼリーがうまいなら、手順と安全線を残す。B5の保全対象は、持ち帰るものじゃないなら、持ち帰らない。出せないものは出さない。俺がやっているのは、それだけです」
槇原は、笑わなかった。
怒りもしなかった。
ただ、俺を見た。
「父を継ぐという言葉は、便利です」
自分で言って、喉が少し細くなった。
「俺も、何度もそれに引っかかりました。父みたいになれないと思って、父の代わりになろうとして、でも違いました。続きに立つことと、同じ箱に入ることは違う」
槇原の指が、机の上で止まった。
「槇原さんも、同じではないんですか」
東和側の弁護士が動きかけた。
槇原が手で制した。
「どういう意味ですか」
「お父さんの事業を継ぐことと、お父さんがやったことを確かめずに進めることは、違うと思います」
言ってから、胸の中で何かが鳴った。
怒鳴ったわけではない。
責め切ったわけでもない。
それでも、机の上に一つ、置けた気がした。
* * *
カナメが、そこで口を開いた。
「一つ確認します」
声は低く、よく通った。
「二〇一四年のB4第三採石エリア崩落事故について、東和は社内調査をしますか」
槇原の顔から、柔らかさが消えた。
東和側の弁護士が、すぐに言った。
「本日の議題外です」
「議題外ではありません」
俺の代理人が返した。
「昨日の通知には、故佐々木健次郎氏の事故記録への言及停止要求が入っています。東和側がその事故記録に利害を主張するなら、事故記録と東和の関係を確認する必要があります」
静かだった。
静かすぎて、空調の音が大きくなった。
槇原は、机の上の紙を見た。
長く見た。
「私の父の時代のことです」
声が、少し低くなった。
「現時点で、私から断定はできません」
「調査はしますか」
カナメがもう一度聞いた。
槇原は、ゆっくり息を吸った。
「社内のコンプライアンス部門に確認させます」
その一文を、俺の代理人が記録した。
東和側の弁護士も、紙に書いた。
たぶん、それは勝利ではない。
でも、初めて東和が、父の四十七分を紙の外へ追い出せなくなった瞬間だった。
* * *
面談は、一時間で終わった。
結論は、派手ではなかった。
東和側は、動画削除要求について具体箇所と根拠を再提出する。
B5保全対象と最浅層食材記録に関する包括的利用整理は、関係機関への確認が終わるまで対外説明を止める。
二〇一四年の事故記録について、社内コンプライアンス部門で確認する。
こちらは、父の事故記録を動画で公開しない。
B5保全対象の未確認部分も、引き続きJAGLと研究機関の確認を待つ。
文章にすると、動いたのはこれだけだ。
でも、会議室を出た時、足の裏が少し熱かった。
カナメが隣を歩く。
「突破したな」
「勝ったわけじゃない」
「勝ったとは言ってない。突破したと言った」
俺は少し笑った。
「同じじゃないのか」
「違う。壁に穴を開けただけだ。向こう側はまだある」
「分かりやすい」
カナメは、俺の肩を軽く叩いた。
「ユウは、ちゃんと自分の言葉で言えていた」
「怖かった」
「怖いまま言えたなら十分だ」
支部の廊下の窓から、冬の晴海が見えた。
地上の空気は冷たい。
でも、最浅層の入口へ降りる人たちは、今日も普通に列を作っていた。
俺も、そっち側の人間だ。
会議室より、台所と階段の方が似合う。
* * *
帰宅して、B2のグリーンモスを刻んだ。
今日は、B1のスライムゼリーも少し使う。
動画の冒頭で話すことは決めていた。
法的な件は、代理人を通じて確認が進んでいます。
公開できることが整理されるまで、書面や事故記録の詳細には触れません。
今日の動画は、B1食用登録済みスライムゼリーと、B2食用登録済みグリーンモスの調理記録です。
採取や調理を真似する場合は、JAGL資料、入場区分、食用部位、体調記録、撤退基準を確認してください。
B4以深、B5保全対象、未確認物は、動画を見て行く場所ではありません。
それだけだ。
グリーンモスをフライパンへ落とす。
ジュッ、と音が立った。
青い匂いが、油の熱で丸くなる。
細く切ったスライムゼリーを最後に入れると、透明な筋が熱で少し縮み、モスの緑に絡んだ。
塩を振る。
湯気が、台所の明かりの中で白く上がる。
ピコがカウンターで羽を震わせた。
「ぴこぴこぴこ」
三声。
高い。
「うまそうだろ」
「ぴこ」
一声。
低くない。
皿に盛る。
箸で持ち上げると、ゼリーが細く伸び、グリーンモスの葉先が光った。
食べる。
先に青さ。
次に、ゼリーの甘み。
最後に塩が舌の端を締める。
「……あ、これ、美味い」
今日も、同じ言葉が出た。
槇原の声も、東和の紙も、まだ頭から消えていない。
でも、口の中には、ちゃんと別の味がある。
それを記録する。
それが、俺の突破だった。
* * *
動画を上げると、コメント欄はまた速く動いた。
「法的な件、進んでるのか」
「勝った? って聞きたいけど、固定コメ見る限りまだ手続き中か」
「手続き中に飯を作るチャンネル、信頼できる」
「B1とB2だけでもこんなにうまそうなのずるい」
「B5行くなって固定コメ、もっと広まってほしい」
「採取Fだけど講習予約した。動画見ながら資料読む」
「父親の話を消費しないの、すごいな」
「最浅層ニキ、ちゃんと怖いんだろうけど、ちゃんと飯作るのがいい」
全部には返せない。
でも、講習予約のコメントにだけ、短く返した。
「資料と入場区分を先に確認してください。無理なら撤退で」
送ってから、スマホを伏せた。
今日、東和の前で言えたこと。
動画で言わなかったこと。
皿の上に残したこと。
その三つが、ようやく同じ方向を向いた気がした。
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