第95話 父の事件の真相
黒葉の謝罪動画が上がった日の夜、ゲン爺から連絡が来た。
「源田屋に来い。健次郎の話をする」
短い文だった。
俺はスマホを持ったまま、しばらく立っていた。
父の話。
その言葉だけで、胸の奥が硬くなる。
カナメへ連絡を入れる。
「ゲン爺に呼ばれた。父さんの話」
すぐに返事が来た。
「一人で抱えるな。終わったら連絡して」
「分かった」
ピコはカウンターの上で、俺の顔を見ていた。
「ぴこ」
一声。
低かった。
「行ってくる」
そう言うと、ピコは羽を少しだけ閉じた。
* * *
源田屋の奥の部屋は、いつもより暗かった。
テーブルの上に、古いファイルと新しい封筒が並んでいる。
古いファイルには手書きの紙。
新しい封筒には、JAGL照会回答の控えと受付番号。
ゲン爺は、奥の椅子に座っていた。
「座れ」
座った。
声が出なかった。
ゲン爺は湯のみを俺の前に置いた。
熱い茶の匂いが、少しだけ鼻に来る。
「先に言っておく。これは裁判所の判決じゃない」
「……はい」
「だが、ワシが三十年近く追ってきた記録と、JAGLから今日返った照会回答で、線はつながった」
ゲン爺の指が、封筒の端を押さえた。
「照会の名義は、遺族であるお前と、JAGLの記録協力者であるワシだ。黒塗りは多い。だが、お前に見せていい範囲として返ってきた」
「健次郎が死んだ日の話だ」
部屋の時計が、低く鳴った。
「十二年前のB4崩落事故。記録上は事故だ。だが、救えたはずの事故だった」
「母さんが聞かされたのは、B5調査中の事故、という大枠だけだったはずだ。B5の詳細も、B4第三採石エリアの元ログも出されていない」
喉の奥が、細くなった。
* * *
ゲン爺は、まず一枚目の紙を俺に向けた。
日付。
時刻。
B4第三採石エリア。
父の名前。
佐々木健次郎。
「健次郎は、崩落の四十七分前に通報を入れている」
「四十七分」
「そうだ。B4第三採石エリアの天井鳴りと粉塵。退避指示を求める内容だ。通常なら、巡回員へ自動通知が飛び、周辺探索者に一時退避が出る」
紙の上に、赤い線が引かれていた。
通報時刻。
退避指示生成予定。
崩落検知。
三つの時刻が、同じ線の上に並んでいる。
「その日は、出なかった」
「なぜ」
「対応確認中、という扱いで止められている」
ゲン爺の声は低いままだった。
「止めた担当系統に、槇原太郎の名前がある」
槇原太郎。
槇原総一の父。
東和グループの先代経営陣。
聞いたことのある名前が、紙の上で急に冷たくなった。
「直接、手でボタンを押した証拠ではない」
ゲン爺は続けた。
「だが、通常ルートなら三分で退避指示まで行く通報が、四十七分止まった。その間に崩落が起きた」
息が浅くなった。
怒りより先に、数字が来た。
四十七分。
父が生きていたかもしれない時間。
父が待ったかもしれない時間。
その数字が、喉に引っかかった。
「父は、何を掴んでいたんですか」
「B5の白い構造物につながる位置だ」
ゲン爺は古いファイルを開いた。
そこには、父の字に似た細い線で描かれた地図と、源田正夫、山田善三たち第一世代の記録の写しが挟まっていた。
「健次郎は第一世代じゃない。ワシらの後、二〇〇四年に登録した二代目だ。だが、採取Sだった。ワシらが見落とした記録を、後から読み直していた」
「父さんが」
「ああ。健次郎は、B5の白い通路を、遺物としてだけじゃなく、食と記録の場所として読もうとしていた。お前が今やっていることに近い」
手が、膝の上で止まった。
父が俺の真似をしていたのではない。
俺が、父の続きに立っていた。
その順番が、胸の中で静かに反転した。
* * *
ゲン爺は、次の紙を出した。
東和関連会社の古い社内整理表の写し。
黒塗りが多い。
それでも、残っている語があった。
最浅層食品利用。
B5周辺記録。
先行資料保全前整理。
「これは公開できるんですか」
「今はできん。弁護士と有希さん側で、出せる形を作る。お前に見せているのは、JAGL照会で許可された範囲と、ワシが証言できる範囲だけだ」
ゲン爺は、俺を見た。
「だから、今日お前が動画で話していいことはない」
「分かってます」
「父の真相は、食材じゃない。切って出せばいいものでもない」
その言い方が、ゲン爺らしかった。
俺は頷いた。
カメラの話ではない。
コメント欄の話でもない。
父の時間の話だった。
「槇原太郎は、父さんを殺したんですか」
言ってから、胸がひゅっと細くなった。
ゲン爺はすぐに答えなかった。
湯のみの湯気だけが、間にある。
「殺した、と裁判で言える証拠は、まだない」
ゲン爺は言った。
「だが、助けられる手順を止めた。ワシは、それを見殺しと呼ぶ」
言葉が、部屋に落ちた。
見殺し。
その二文字が、胸の底に沈んだ。
* * *
「健次郎は、戦闘系じゃなかった」
ゲン爺が、少しだけ声を変えた。
「記録上はB級冒険者だ。戦闘もできた。だが、あいつの本分は採取だった」
「採取S」
「そうだ。お前と同じだ」
俺は、膝の上の手を見た。
戦闘F。
採取S。
父とは違う。
ずっとそう思っていた。
でも、違わなかった部分があった。
「健次郎はな、B1のスライムゼリーを見て笑っていた。B2のグリーンモスを握って、これは火を通した方がうまいと言っていた。B4のホタルトンボを見て、光が消える前に食べたいと言っていた」
ゲン爺の目が、少しだけ遠くなった。
「戦闘で名を上げるより、誰も見ないものを食える形にする方が好きだった」
息が止まりかけた。
父は、俺が思っていた父より近かった。
近すぎて、痛かった。
「俺は、父さんの代わりなんですか」
「違う」
ゲン爺は、すぐに言った。
「代わりなら、同じ場所で終わる。お前は続きだ」
続き。
その言葉を、前にも聞いた気がする。
でも、今は重さが違った。
紙の上の四十七分。
父の古地図。
JAGL照会番号。
全部が、ひとつの皿に載せられたみたいだった。
食べられるものではない。
でも、受け取るしかなかった。
* * *
帰り際、ゲン爺が棚の奥から小さな包みを出した。
「これは、健次郎が置いていったものだ」
包みの中には、乾燥したグリーンモスが入っていた。
小さく、固く、色は少し抜けている。
「食べられますか」
「食うな。十二年前のものだ」
「ですよね」
少しだけ、笑いそうになった。
笑えなかった。
「持っていけ」
「いいんですか」
「お前の父のものだ」
俺は包みを受け取った。
乾いた苔の匂いが、紙越しにかすかに残っている。
B2の匂いだった。
父が最後の方まで持っていたかもしれない、普通の食材。
白い石板より、そっちの方が胸に来た。
* * *
外に出ると、夜風が冷たかった。
左手が前髪に届きかけて、止まった。
掻き上げなかった。
手を下ろす。
怒りはあった。
父は四十七分、救える手順の外に置かれた。
でも、怒鳴る場所がない。
槇原太郎の名がある担当系統で退避指示が止まった。
その事実はある。
でも、父を返せ、と言う相手は、もう死んでいる。
だから、夜道で立ち止まるしかなかった。
スマホが震えた。
カナメだった。
「終わった?」
「終わった」
「どうだった」
画面を見たまま、少し考えた。
「知れて良かった。でも、きつい」
送ってから、手が少し震えた。
すぐに返事が来る。
「帰れ。今日は食べて寝る」
「命令?」
「命令」
短いやり取りなのに、息が少し戻った。
* * *
帰宅した。
ピコが玄関まで飛んできた。
「ぴこ」
一声。
低かった。
「ただいま」
靴を脱ぎ、手を洗う。
テーブルに、父の乾燥グリーンモスの包みを置いた。
食べない。
これは食材ではなく、記録だ。
冷蔵庫を開ける。
今日買っておいたJAGL食用登録済みのグリーンモスがある。
鍋に水を入れた。
火をつける。
ことことと音が始まる。
グリーンモスを刻むと、青い匂いが立った。
父の包みから来る乾いた匂いとは違う。
今の匂いだ。
俺が今、食べられる匂い。
塩を入れる。
湯気が上がる。
ピコがカウンターで羽を震わせた。
「ぴこぴこ」
二声。
半音、上がった。
「父さんがこれを好きだったかは、分からない」
「ぴこ」
一声。
「でも、俺は好きだ」
器に盛った。
ひと口飲む。
熱い。
青い。
少し甘い。
うまかった。
涙は出なかった。
でも、胸の底に沈んでいた四十七分が、少しだけ熱を持った。
父が最後の夜に、何を食べたかは分からない。
それでも、父がうまいものを探していた人だったことは分かった。
俺は父の代わりではない。
父の続きだ。
その続きの最初に、グリーンモスのスープを飲んだ。
スマホが震えた。
有希さんからだった。
「明日、東和側から正式な文書が来る可能性があります。今日は休んでください」
文面を読み、画面を伏せた。
今日は、父の四十七分を知った日だ。
その先の文書は、明日の俺が読む。
登録者:四十一万三千人。
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