第93話 B5遺物を公開する
翌朝、まずJAGL晴海支部へ行った。
B5へ降りる前に、窓口で申請内容を確認する。
保全対象確認のための現地記録。
JAGL調査員一名、巡回員一名が同行。
カナメは戦闘安全担当。
俺は感覚記録と撮影補助。
採取なし。
持ち帰りなし。
活動時間はJAGL指定内。
異常時は即撤退。
個人カメラの原本データは、その場でJAGL確認用に提出する。
一般公開は、JAGL確認後の編集版だけ。
ピコの同行は、今回はなしになった。
健康状態は安定しているが、保全記録の初回は関係者を絞る。
そう説明されて、俺は頷いた。
ピコは家で不満そうに鳴いていた。
でも、今日は連れて行かない。
相棒だから連れて行く、ではない。
必要なときに、必要な形で一緒にいる。
ゲン爺の言葉が、まだ胸に残っていた。
* * *
B5の空気は冷たかった。
カナメが前に立つ。
巡回員が左後ろ。
調査員が記録端末を持って右側にいる。
俺はその後ろで、カメラのストラップを手首に通した。
ヘッドランプはJAGLの調査灯に合わせる。
俺のライトは使わない。
石の色を変えないためだ。
足元の黒い岩は、昨日の記憶より少し湿っていた。
採取Sを向けると、冷たい水分と、古い石の乾いた層だけが返ってきた。
道を教えはしない。
意味も言わない。
今日の道順は、JAGLの記録と、カナメの警戒で進む。
シャドウバットの気配が上にあった。
巡回員が手を上げた。
全員が止まる。
三十秒待つ。
羽音が遠ざかってから、また進んだ。
急がない。
でも、記録は遅らせない。
* * *
白い通路の入口に着いた。
壁の開閉手順は、JAGLの記録端末だけで確認する。
俺のカメラは、入口の内側から録画を始める。
座標も、目印も、開き方も映さない。
調査員が声に出して確認した。
「個人カメラ、録画開始は入口内側から。白色構造物の遠景、通路床面、低い台、白い石板の遠景まで。接写なし。接触なし。反応実験なし」
「了解しました」
録画ボタンを押した。
画面の中に、白い通路が入った。
ダンジョンの石とは違う、滑らかな素材だった。
空気は冷たく、匂いは薄い。
調査灯の光が、壁に淡く反射している。
カナメが入口側で立ち止まり、周囲を見ていた。
戦闘の気配はない。
でも、カナメの肩は緩んでいない。
その緊張が、逆に安心になった。
奥の低い台が見えた。
その上に、白い石板がある。
前に見た時と同じ場所だった。
JAGLの封印帯が周囲に張られている。
俺は近づきすぎない位置で止まった。
ズームもしない。
石板の輪郭だけを撮る。
これが、今日出していい限界だった。
胸の奥が、一拍、詰まった。
もっと見せたい、という気持ちはあった。
でも、見せたい気持ちで壊すわけにはいかない。
ここは料理動画の台所ではない。
保全対象の前だった。
* * *
感覚記録を求められた。
俺は目を閉じた。
指先に、白い素材の冷たさが遠く返ってくる。
食材ではない。
鉱石でもない。
温度は低い。
匂いはほとんどない。
石板の周囲だけ、乾いた紙のような静けさがある。
それだけを言った。
調査員が記録した。
カナメが横で、黙って聞いていた。
「ユウ」
「何」
「ここまで来たんだね」
それだけだった。
ユウのお父さん、という言葉は出なかった。
出さなくても、分かった。
父が見ようとしていたかもしれない場所。
ゲン爺たち第一世代が、言葉にしきれなかった場所。
俺はそこに、カメラを持って立っている。
カメラは回っていた。
でも、今日は叫ばない。
俺の声ではなく、記録が先に残ればいい。
調査員が終了を告げた。
活動時間は、まだ少し残っていた。
それでも撤退する。
必要な映像は撮れた。
長くいれば偉いわけではない。
俺たちは白い通路を出た。
壁の外へ戻り、JAGL記録端末の録画が止まった。
俺のカメラも止めた。
手が、少し震えていた。
* * *
地上へ戻ると、すぐに原本データを提出した。
JAGL職員が端末にコピーし、受付番号を出す。
俺は手元に控えを残さない。
確認済みの編集データだけが、あとで返ってくる。
有希さんへ、受付番号と提出時刻を送った。
すぐに返信が来た。
「研究機関側にも、日時つき受領の窓口が開きました。JAGL確認後の要約と、葉山食品の共有許可済み分析要約を合わせて提出します」
ゲン爺にも送った。
「遅らせるな。だが、焦るな」
返事はそれだけだった。
午後、JAGLから編集確認用の映像が返ってきた。
座標、入口手順、開閉部分、保管ラベル、石板の接写、未確認文字の接写は入っていない。
映っているのは、白い通路の遠景、低い台、白い石板の遠景、そして俺の短い説明だけだった。
説明文も確認済みの範囲に直した。
「B5で、JAGL管理下の保全対象を確認しました。これは誰かが持ち帰るためのものではありません。記録として残します。詳細はJAGLと研究機関の確認を待ちます」
これなら出せる。
投稿ボタンを押す前に、もう一度、カナメ、有希さん、ゲン爺へ送った。
三人から短く返事が来た。
「出していい」
「確認済み範囲です」
「出せ」
俺は投稿ボタンを押した。
* * *
動画は、静かに始まった。
派手な音楽は入れない。
サムネイルにも石板の接写は使わない。
白い通路の遠景と、黒い文字で「B5保全記録」とだけ入れた。
投稿してから一時間、コメント欄はいつもより遅く動いた。
読んでから書いている人が多かった。
「行き方を出してないの安心した」
「これは料理動画じゃなくて記録だ」
「誰かのものにしないための動画って、初めて見た」
「B5の場所を隠してるのに、存在だけは分かるのすごい」
「最浅層ごはん、ここまで来たのか」
俺はコメント欄を少しだけ見て、閉じた。
見続けると、また何か言いたくなる。
今日は、記録を出した日だ。
勝った日ではない。
有希さんから連絡が来たのは、夕方だった。
「研究機関側、日時つきで仮受領しました。正式な真正性確認には数日かかります」
「東和側の照会についても、追加資料確認待ちになったようです。止まった、ではありません。ただ、今日は進まなかった」
今日は進まなかった。
その言い方が、いちばん信用できた。
大きく勝ったわけではない。
でも、東和が紙を一枚進める前に、こちらの記録が残った。
それで十分だった。
* * *
夜、冷蔵庫からスライムゼリーを出した。
ピコがカウンターの上で待っていた。
「ぴこ」
一声。
低かった。
「今日は留守番だったな」
「ぴこぴこ」
二声。
少し不満そうだった。
「次に必要なら、一緒に行く」
「ぴこ」
一声。
短かった。
分かった、と決めつけない。
でも、拗ねているようには見えた。
ゼリーを小皿に分けた。
ピコに先に渡す。
「ぴこぴこぴこ」
三声。
高かった。
俺も食べた。
冷たくて、ぷるりとしている。
後味に、青い甘みが残る。
B5の白い通路を見た日でも、味は変わらない。
変わらないことが、今日はありがたかった。
父が見ようとしていたかもしれない場所を、俺は見た。
でも、父の代わりに何かを成し遂げたとは、まだ思わない。
今日やったのは、記録を残したことだけだ。
それでも、胸の奥にあった重さが少しだけ形を変えた。
石みたいだったものが、紙の束になった。
重いままだ。
でも、誰かに渡せる形になった。
スマホを見る。
登録者数が、また増えていた。
急上昇欄にも載っている。
けれど、今夜はそれを見続けない。
明日、JAGLから次の確認が来る。
東和も、止まったわけではない。
記録は出した。
ここからが本当の確認だ。
ピコが空の小皿を見た。
「ぴこ」
一声。
低い。
「もうないぞ」
「ぴこぴこ」
二声。
半音、上がった。
その声を聞いて、少し笑った。
台所はいつもの台所だった。
でも、今日から、俺の動画は少しだけ違う場所に置かれた。
誰かのものにしないための記録。
それを、最浅層ごはんのチャンネルに置いた。
登録者:二十七万四千人。
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