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晴れて候  作者: 桃 春花
17/17

其の玖 一陽来復




 穏やかに晴れた正月の空に、いくつもの凧が高く上っていた。

 町では獅子舞が勇壮に練り歩き、人々が言祝(ことほ)ぎをかわし合う。城では三日間にわたって大名諸侯、旗本が大樹公に拝謁し、太刀を献上して祝賀を述べた。大樹公の隣には打掛に高く結った髪もあでやかな姫君の姿があり、これが世嗣菊王(きくおう)君とはじめて見知った者も多かった。

 さまざまにうわさの多い姫君で、人間離れした化け物のごとき姿を想像していた者も少なくなかったのだが、見る限りにおいては普通の人の姿をし、母親によく似た美しい少女であった。

 広間の隅に控えた役人たちの中には、まげのない若侍の姿もあった。彼の目は常に上段の間へと向けられ、唯一無二の主君を誇らしげに見守っていたのだった。






「つつがなくお披露目をすまされ、心よりおよろこび申し上げます。まことに、おめでとうございます」


 西の丸に戻り、ようやく窮屈な装束から解放されて一息ついたひな菊の元に、松尾が現れてうやうやしく口上を述べた。

 手をつく彼女に、ひな菊はあわてて歩み寄った。


「松尾、もう起きて大丈夫なの? 無理しないで休んでてよ」

「いえ、大事ございませぬ。姫様にはご迷惑をおかけし、申しわけございませんでした」

「それはこちらの科白だわ」


 ひな菊は松尾の前にしゃがみ込んだ。


「あたしがいたらなかったばかりに、そなたを危うく死なせるところだった。本当に、ごめんなさい」

「いいえ、わたくしは己の失態を己でつぐなったにすぎませぬ」


 毒に倒れても正月がやってきても、松尾の厳めしさは変わらない。言葉はそっけなく淡々として、とりつく島もない。

 どこまでも松尾は松尾だ。ひな菊は苦笑し、そして彼女の手を取った。


「そなたが死ななくてよかったわ。ありがとう、生きていてくれて」

「……もったいない」


 つと目を伏せたのが彼女なりの照れ隠しと思うのは、さて当たっているだろうか。


「時に姫様。そのお召し物は」


 さりげなく手を引いて、松尾はまたひな菊を見た。


「ああ、これ?」


 ひな菊は立ち上がり、くるりと回って見せた。


「いいでしょ、新作よ。似合う?」

「…………」


 新年を迎えて、ひな菊は普段着も新しいものを用意させていた。

 丈の短い小袖はあいかわらずだが、木綿ではなく華やかな友禅であるあたりが正月らしいと言えなくもない。半幅の帯にも金糸銀糸が織り込まれて美しい。どこの小僧かというこれまでの姿とは違って、たいへん娘らしく愛らしかった。

 少なくとも上半身を見る限りは、問題ない。

 しかし、その下が。

 すんなりした脚を覆う細身の穿き物が、あまりにちぐはぐな印象を与えていた。


「あ、松尾はこんなの知らないかな。職人や火消しとかが着てるんだけど、見たことない? 股引(ももひき)って言うのよ」

「……股引」

「そう」


 そばで控えていた七枝ななえが、こらえきれぬとばかりに袖で顔を覆った。


「あああもうう――どこの世に股引をお召しになる姫君がおられるのですかああぁ」

「え、だめかな。けっこうかっこいいと思うんだけど」


 ひな菊はくるくる回りながら、自分の姿をたしかめる。


「粋でいなせな華南(かな)っ子の定番よ。いいでしょ? これなら動きやすくて肌も隠せるし、文句ないじゃない」

「大ありですううぅっ」


 松尾はひそかに深呼吸をし、あらためて手をついた。


「姫様」

「ん?」


 ひな菊は回るのをやめて彼女を見下ろす。


「この松尾、上様ご幼少のみぎりよりお仕えしてまいりましたが、これよりは姫様を主と心得、いずれご立派な大樹公とおなりあそばすその日まで、誠心誠意お仕えし、ご指導してゆくことをお誓い申し上げます」


 秘められた気迫を感じて、ひな菊はたじろいだ。


「そ、そう……よろしく……お手柔らかにね」


 松尾は黙って頭を下げた。


「……百年の恋も冷めるお姿ですね」


 やってきた海棠かいどうは、ひな菊の姿を見て脱力したように笑った。


「今度は股引ときましたか……いやはや」


 お手上げというように首を振ってみせる。けれど主の髪に咲く赤い花を見やる目は優しかった。

 七枝が袖を下ろして彼に挨拶した。


「明けましておめでとうございます」

「はい、おめでとうございます。松尾様も、ご回復なによりです」


 手早く儀礼をすませ、七枝はさっそく海棠に訴えた。


「さあ、言ってやってくださいませ。いつものように、姫様にびしりと、きつくこきおろしてやってくださいませ」


「いやいや……まあ、これも可愛いのではありませんか」


 おや、とひな菊は眉を上げる。海棠はにこにことこちらをふり返った。


「猿回しの猿がこんな格好をしていましたよね。ちょうど今頃、町で芸を披露しているんじゃないのかな。おめでたい正月には欠かせませんからね」

「……サル」


 そうですわ、と七枝が勢いづいた。


「このお姿はまさしくお猿ですっ。ええ、姫様も芸をご披露なさいませ。皆を呼んでまいりましょう」

「あんたらねえ……」


 ひな菊は拳を震わせた。


「二人して人をサルサルと……って、ん?」


 ふと、なにかに気づいた顔で、七枝と海棠を見比べる。二人はきょとんとひな菊を見返した。


「なんです?」

「そっか……そうよね」


 一人納得して、ひな菊はうなずく。かと思うと海棠にたしかめてきた。


「海棠、あんたって次男なのよね」

「そうですよ」

「家督は兄君が継ぐのよね」

「ええ。ちなみに息子も生まれていますから、次の跡取りも決まっていますよ。それがどうか?」


 うん、とひな菊は力一杯うなずき、びしりと海棠に指を突きつけた。


「海棠、あんた山吹家に婿入りしなさいっ」

「――は?」


 七枝と海棠の声が重なった。


「そうよそうよ、それがいいじゃない。年頃も家格もちょうど釣り合うし、なにより似た者同士、似合いの夫婦(みょうと)になるわよ」


 ひな菊は自分の思いつきに手を打って喜ぶ。われに返った七枝が血相を変えてくってかかった。


「どういう意味ですのっ。わたくしのどこが海棠様に似ているとっ」

「問題はそこ? だってにこにこしながらきっついこと言うのが、そっくりじゃない」

「んまああぁっ、いくら姫様でも言っていいことと悪いことがありますわよっ。わたくし、あそこまでひどくありませんっ」

「……あのう」

「えー、でもさあ、婿が決まれば義父上たちも安心すると思うんだけど。海棠だっていつまでも部屋住(へやずみ)でいるわけにはいかないんだし、一石二鳥じゃない」


 当の男を無視して少女たちは意見を戦わせる。七枝は据わった目でひな菊をにらみ、不気味に笑った。


「でしたら、姫様のお婿になさいませ」

「えぇ?」

「山吹家の婿取りなどよりも、紫田宗家の婿取りの方がよほどの大事にございます。ええ、姫様が海棠様をお婿になさいませ」

「いやぁよ、こんなの。冗談じゃないわ」

「ご自分がいやなものをわたくしに押しつけるおつもりですのっ。あんまりですわっ」

「……なにか、ものすごくひどいことを言われているようですが」


 ため息まじりに海棠が割って入った。


「そのお話はまたにして、いま一度表へお出ましいただけませんか。お引き合わせしたい者がおりますので」

「え、ああ、うん」

「海棠様っ、またも今度もありません。断固、きっぱりと、お断り申し上げますからっ」

「はいはい、私も七枝どのにけんかを売るなんて無謀はしませんよ」


 海棠は笑ってひな菊を連れていく。二人を見送りながら、七枝は呆れて言うのだった。


「まったく、姫様ってばどうしてああも鈍感でいらっしゃるのかしら。海棠様がお気の毒とは申しませんけど。えーえ、よい気味」


 松尾はなにも言わない。

 ただそっと、口許だけで笑っていた。






 煤が払われ、障子と襖は新しく張り替えられ、畳の表も青々と美しい御殿は、すっかり明るく輝いて見える。晴れ着に身を包んだ女たちが行き交うさまは、いつにもまして華やかなながめだった。

 ふいにあやかしが物陰から顔を出して女中を驚かせる。悲鳴を上げてのけぞった彼女は、次の瞬間きっとなって、手にした盆で妖の頭を叩いた。これにおそれいり妖は()く退散した。


「なんだかんだ言って、みんなけっこう慣れてきましたね」


 海棠が感心して言った。


すめらぎの御世のように、人と妖が一緒に暮らすようになったら楽しそうですね」

「そうね」


 ひな菊が通れば皆ただちに手をついて礼をする。うやうやしく頭を下げながらも、股引姿の姫君に誰もが呆れ、面食らうようすだった。

 ひな菊は茶目っ気を出して、くるりと回って衣装を見せびらかした。たまりかねた笑いがくすくすと周囲からもれる。ただおかしそうなだけで、いやな笑いではなかった。

 二人は連れ立って中奥へ出向いた。そこで待っていたのは、いつかの夜に助太刀してくれた若侍だった。


「これなるは大井(おおい)忠清(ただきよ)、本丸書院番の任にありましたが、このほど西の丸新番にお役替えとなりました」


 海棠が彼を紹介する。ひな菊は顔をほころばせて平伏する男の前に座った。


「まあ、よかった。ばたばたして礼も言わずじまいだったから、もう一度会いたかったのよ。あの時はありがとう。ちなみに書院番と新番ってどう違うの」


 最後はこそりと海棠に聞く。


「御殿の警備が番士の主なお役目。中でも新番は、より大樹公やご世嗣のおそば近くに控えお守りする、いわば親衛隊ですよ」

「ふうん」

「彼の腕前はすでにご存じですね。人柄も真面目で誠実と評判です。あまりに真面目すぎて世渡りは上手くなく出世も足踏みしていたようですが、どうぞよろしくお引き立て願います。せっかく上様におねだりして、こちらに譲っていただいたんですから」

「うん。よろしくね、忠清」

「は、恐縮に存じます」


 うながされて、ようやく忠清が顔を上げる。海棠の不遜さを見慣れた目には、彼の生真面目さがじつに新鮮だった。


 表でもひな菊の股引姿にはつっこみが入れられたが、男たちは奥の女ほど問題視する気はなさそうだった。ひな菊が露出を控えたことを歓迎しているようで、ちらほら誉め言葉すら出てくる。みんな目のやり場に困ってたんですよと、あとで海棠が教えてくれた。

 まだ周りから悪意が完全に消えたわけではない。あいかわらず陰口を叩かれることもあるけれど、その気で見回してみれば案外冷たいまなざしばかりでもないものだ。

 親しい人が増えれば、そのうち悪意なんて気にならなくなるだろう。優しい気遣いの方が、もっとずっと強く心に響くのだから。


「与五郎さんたちにも来てもらえないかなあ。でもってお蝶さんが奥に来てくれたら、楽しいだろうな」

「ずいぶん彼らをお気に召したようですね」

「ええ。もうすっかりお友達よ。あんたのいないところで、いろいろ、いーっぱい、楽しい話を聞かせてもらったわ」

「ははは、そうですか」


 鷹揚に笑ってから、海棠はひな菊には聞こえない声で「シメる」とつぶやいた。今頃わかば屋の面々は悪寒を感じているかもしれない。


「さすがに彼らを城に上げるのはね」

「まあ向こうから断られるだろうけど」

「そうですね、なんといっても肝川組(きもかわぐみ)の跡取り娘ですから」

「……はい?」


 海棠はなにくわぬ顔で言う。


「名前くらい聞いたことがありませんか? 肝川の雷蔵(らいぞう)が彼女の父親ですよ」

「…………」


 華南津(かなつ)に住んで、その名を知らぬ者はいない。泣く子も黙る華南津一の大親分だ。

 肝川組の跡取りとはお蝶も驚きの大物である。そしてかの雷蔵大親分すら呆れさせたという、海棠って一体。


「……忠清、ぜひぜひ、よろしくね。仲良くしましょう」


 ひな菊はかしこまる青年に顔を寄せた。


「は、はい、もったいなきお言葉で」

「力を合わせて、この『くそったれ』を『フクロ』よ」

「はっ?」

「そういう言葉を真似しない」


 めっとにらんでくる海棠に、ふんとひな菊もにらみ返す。そして勢いよく立ち上がって気合を入れた。


「よしっ、それじゃさっそく鍛練でもしましょうか。手合わせ()めよ。忠清、海棠、相手をしなさい」

「なんですかそれ。書き初めとかならともかく、聞いたことがありませんよ」

「つべこべ言わない。さあっ、行くわよっ」


 あっけにとられる役人たちの前を駆け抜けて、ひな菊は庭へ飛び下りた。忠清が目を丸くして見送る。海棠は笑って腰を上げた。


「しかたありませんね。忠清どの、遠慮はいりませんからこてんぱんに叩きのめしてさしあげましょう。大丈夫、おとがめなんて受けませんから」

「は……? いや、そんな……」


 庭ではすっかりやる気満々で、準備運動をしながらひな菊が呼んでいる。


「なにしてるのよー、武士がぐずぐずしないっ。来やれ!」


 ――その瞬間、わっと現れた妖たちがいっせいにひな菊に飛びかかった。

 手合わせというより単にじゃれつかれて、ひな菊がたまらずに尻もちをつく。


「あんたたちを呼んだんじゃないわよっ」


 はねのけて立ち上がろうとするが、次々妖が現れてはひな菊にまとわりついた。狐、(むじな)に、豆狸(まめだぬき)。豆腐小僧が皿を落とし、小豆洗いは小豆をこぼす。蝦蟇(がま)はぴょんぴょん跳ね回り、その後ろを一本足も跳ね回る。

 闇にあっては恐怖を与える異形たちも、真っ昼間の青空の下にあっては、どこか滑稽で可愛らしくも見えた。


 あぜんと見守る男たちの間からやがて笑いがもれ、しだいにそれは大きく広がっていく。妖相手にちぎっては投げちぎっては投げの奮闘に、皆がそろって大笑いした。

 海棠も笑い、手伝えと怒鳴るひな菊に手を振って応援してやるのだった。


 晴れた空の下、華南津城は高く美しくそびえ立つ。銀鼠の瓦に漆喰壁の白さもまぶしく、世にあまねく大樹公の威光を知らしむ。

 憂いを払い、新しい年がまた始まる。

 新しい時代が、始まっていく。


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