第26話 初陣の朝
王国歴1255年、春先の朝。王宮西翼の執務室には、まだ夜の冷えが残っていた。
七歳の祝宴でC級判定を受けてから一年、アルヴィンを見る視線は記録の驚きから実地での評価へ移っている。
長机の上には、北方街道沿いの村から上がった報告書が三通並んでいた。家畜の食い荒らし、夜間の襲撃、見回り隊の負傷。紙の端には泥が乾いた跡まで残っている。
同じ内容が別々の村から同日付で届いている時点で、偶発ではない。移動経路が重なっている証拠だ。アルヴィンは赤線で引かれた時刻欄を追い、襲撃が夜半に集中していることを読み取った。昼間は潜み、暗くなるとまとめて出る。群れの行動に統一がある。
「住民の避難は今朝から開始した。だが畑と家畜を放置すれば、春の収穫が落ちる」
カールは窓の外を見ず、紙だけを見て言った。
「討伐は遅らせない。被害は小さいうちに断つ」
「北方の森で群れが動いている。規模は増加傾向だ」
カールの声は低く短い。言い切るたびに部屋の空気が締まった。
「討伐隊は編成済みだ。今回はアルヴィンを同行させる」
アルヴィンは椅子の上で背筋を伸ばした。隣ではアーロンが目を閉じ、卓上の地図に指を置く。ミハイルは無駄のない姿勢で、護衛配置の紙をめくっていた。
「実戦経験は必要ですな」
アーロンが静かに言う。
「ただし、任務は武勲ではなく生還を含む訓練です。段階を飛ばしてはなりません」
「その通りだ」
カールはうなずき、視線をアルヴィンへ向けた。
「お前の持ち場は後衛支援。前に出るな。判断は隊長系統に従え」
「はい、父上」
「補足します」
ミハイルが地図の端を二度たたいた。
「殿下の任務は三つです。索敵補助、退路確保、負傷者の遮蔽支援。撃破数は評価項目に入れません」
「了解しました」
「アーロン、術式制限を確認しろ」
「承知しましたな」
アーロンは眼鏡越しにアルヴィンを見た。
「高出力の三属性複合は一回まで。二回目は翌日以降に回すこと。今日は連戦の可能性がありますからな」
「守ります」
「よろしい」
短く返した声は、思っていたより落ち着いていた。胸の内では脈が速い。初めてではない。六歳のとき、王宮近郊で魔獣と遭遇し、血の匂いと吐き気を覚えた。
それでも今回が違うのは、最初から任務として森へ入る点だった。護衛の背中に隠れて終わる散策ではない。自分の役割を持って、部隊の一角として立つ。
さらにもう一つ、言葉にしない動機がある。王宮で広がる評価は速い。称賛も疑念も、同じ速度で増える。才能があるという理由だけで誰かの負担を増やすのは、もうやめたかった。現場で役に立てるなら、その分だけ余計な政治の火種は減る。
「質問はあるか」
「一つだけ。撤退基準の優先順位を確認したいです」
カールは口角をわずかに上げた。
「いい。言ってみろ」
「隊の損耗、退路の確保、王国民の被害見込み。この順で判断します」
「概ね合っている。現場では隊長の指示を先に拾え」
「承知しました」
ミハイルが記録板に短く書き込む。
「出発は正午。装備確認は第一中庭で行います」
「間に合わせます」
執務室を出ると、廊下の窓から陽が差し込んでいた。白い石床に光の帯が伸び、そこへアルヴィンの影が重なる。影は小さいままだが、足取りだけは昨日より重く、確かだった。
正午前、私室の前室には母の香油の匂いが漂っていた。エリザベスは遠征用の外套を広げ、襟元の糸のほつれを指で整える。
「肩まわり、きつくない?」
「大丈夫です。動きやすいです」
「無理はしないでね。あなたは証明のために行くんじゃないわ」
その言葉に、アルヴィンは少しだけ間を置いた。
「分かっています。守るために行きます」
母は微笑み、薬草包みを一つ手渡した。
「気分が悪くなったら、これを。匂いを吸うだけで少し楽になるわ」
「ありがとうございます」
廊下から荒めの足音が近づく。レオナルドだった。肩に木剣を担いだまま、扉にもたれる。
「いよいよ初陣か」
「はい」
「張り切るのはいいけど、突っ込むなよ。先に見る。次に動く。そこは絶対だ」
「覚えています」
「ならいい」
レオナルドは笑って、拳を軽く突き出した。アルヴィンも小さく拳を合わせる。
そのとき、開いた扉の向こうにヴィクトールが立っていた。視線はまっすぐで、無駄な感情を乗せない王太子の顔だった。
「装備確認は済ませたか」
「これから中庭で」
「そうか」
ヴィクトールは一歩だけ近づき、声量を落とした。
「生きて戻れ。報告は私に直接上げろ」
「……はい、兄上」
それだけ言って、彼は踵を返した。背中は硬いままだったが、言葉の選び方は以前よりずっと明確だった。アルヴィンはその背を見送り、胸の奥で息を整える。
第一中庭には、既に護衛十名が整列していた。先頭に立つダリオを基準に、斥候二、中央護衛三、後尾四が役割ごとに並び、その中央だけがアルヴィンのために一人分空けられている。鎧の継ぎ目まで磨かれ、槍と剣の角度が揃っていた。隊列の前に立つ隊長は、アルヴィンよりも先に礼を取らなかった。まず任務規律を置く現場の礼儀だ。
出発前の装備点検は想像以上に細かかった。革手袋の縫い目、靴底の釘、外套の留め具、予備魔石の個数。ミハイルが一つずつ確認し、基準から外れるものはその場で交換させる。
「王族だから免除、はありません。現場で壊れるのは、だいたい準備で見落とした部分です」
「はい」
アルヴィンは杖の補助環を締め直した。金具のゆるみが半回転分だけ残っていた。気づかなければ、湿気を吸った夜間に外れていたかもしれない。
「護衛隊長ダリオです。本任務で殿下の安全を統括します」
「アルヴィン・レオニード・ヴェルディアです。今日の持ち場は後衛支援で受けています」
「確認しました」
隊長は地図を広げる。
「斥候二は本隊の前を別行動で取ります。殿下は中央です。近衛三が周囲を固め、残る四が後尾を支える。私が全体指揮を執ります。交戦許可は私から出します。独断行動は禁止」
「従います」
「一つだけ申し上げます」
隊長の目が試すように細まる。
「戦場では、身分より手順が命を守ります」
「異論はありません」
答えると、隊長は短く沈黙し、うなずいた。
「出発する」
北門へ向かう通路には、見送りの人数を絞った近衛と使用人だけが並んでいた。騒がしさはない。任務の内容が内容だけに、祝宴のような雰囲気は最初から排されている。
それでも、門前に立つカールとエリザベスの姿は、遠目にもはっきり見えた。カールは言葉を重ねず、右手を上げるだけで出発を許す。エリザベスは一度だけ頷き、胸の前で指を組んだ。祈るしぐさを表に出しすぎないのは王妃としての配慮だろう。
アルヴィンは馬上から深く頭を下げた。家族の気配を背中に受けると、手綱を握る指先の力が少しだけ整う。怖さは消えない。それでも、さっきまでよりまっすぐ前を見られた。
北門を抜けると風向きが変わった。石畳の匂いは消え、湿った土と樹脂の匂いが鼻に入る。北方の森へ近づくほど、音は薄くなった。鳥の声が少ない。葉擦れも途切れ途切れだ。
夕刻前、部隊は森の手前で速度を落とす。白い霧が地面から立ち上がり、膝下を流れていた。視界は二十歩先で曖昧になる。
霧は風で散る種類ではなかった。流れているのに留まり続ける。アルヴィンは小さく風を起こして確かめる。霧の層はずれるが、すぐ元に戻る。地表近くの湿気が濃い。火を大きくすればかえって位置を知らせるだけだ。
「殿下、単独術式は禁止です」
近衛が小声で釘を刺す。
「確認のために弱く流しただけです。以後は合図待ちにします」
「斥候、前へ」
隊長の指示で二名が木立へ消えた。残る者は無言で待つ。鎧の金具が触れ合う微かな音だけが、時間の経過を知らせていた。
しばらくして、斥候が戻る。外套の裾に泥がつき、呼吸は浅い。
「南西に獣道の乱れ。爪痕多数。小群だけではありません」
「人型反応は」
「断定はできませんが、足跡の幅が混在しています」
隊長は眉を寄せ、地図に印をつけた。さらにもう一人の斥候が続ける。
「北斜面で折れ枝が連続。重い個体が通った跡です。新しい」
「日没前の接敵は避ける」
隊長が即断する。
「この位置で野営。夜間監視を厚くする」
臨時幕舎が手際よく立てられた。火は小さく、煙を抑える。湯を沸かす音がかすかに立ち、鉄鍋に薬草が落ちる匂いが広がった。アルヴィンは配給の硬パンを割りながら、地図の端に記された地形線を見つめる。霧で視界が狭いなら、見える距離を無理に増やすより、来る道を絞るほうがいい。
火のそばで革袋の水を回していた若い騎士が、少しためらってから口を開いた。
「殿下は……怖くありませんか」
聞いた本人が、しまったという顔をする。無礼と取られると身構えたのだろう。
「怖いです」
アルヴィンはそのまま答えた。
「怖くないと言うほうが嘘になります」
騎士は目を瞬かせ、それから肩の力を抜いた。
「俺もです。何年やっても、森の夜だけは慣れません」
「じゃあ同じですね」
若い騎士はもう気まずそうな顔をしていなかった。水袋を回す手つきも、さっきより自然だ。アルヴィンも硬パンを割る指先の力を抜いた。
夜の作戦会議には隊長、斥候、近衛、そしてアルヴィンが呼ばれた。幕舎の中央に灯した魔導灯が、紙の上に淡い円を作る。
「殿下の意見を聞かせてください」
隊長の言葉に、視線が集まる。形式だけの問いではないと分かる。
「霧の中で追うより、通る場所を限定したいです」
アルヴィンは地図の谷筋を指す。
「この二本の道に感知用の風を流し、反応があれば前衛ではなく側面から制圧します。退路は最初から南へ一本に固定してください」
「感知の精度はどの程度だ」
「霧が厚いので誤差は出ます。ただ、重い個体が通ると空気の戻りが遅れます。小群との判別は可能です」
隊長は地図と顔を交互に見た。
「理由は」
「正面衝突だと霧で味方同士の視認が遅れます。側面制圧なら誤射を減らせる。退路を一本にしておけば、混乱しても合流点を失いません」
幕舎に短い沈黙が落ちる。次に口を開いたのは斥候だった。
「谷筋は足場が悪いが、追跡側には不利です。引き付けるなら有効かと」
隊長は深くうなずく。
「採用する。第一監視は私と斥候、第二監視は近衛。南退路に反射杭を打て。見失っても光で拾えるようにする」
「了解」
「殿下は夜明けまで休息」
「はい、休めるうちに休みませてもらいます」
「それでいい」
会議が終わると、外気はさらに冷えていた。焚火の熱が届く範囲は狭く、少し離れるだけで指先が痛む。アルヴィンは外套を引き寄せ、空を見上げた。雲が低く、星はほとんど見えない。
見張り交代の直前、隊長が短い紙片を手渡してきた。巡回順と合図の一覧だ。余白には簡素な字で一行だけ追記されている。
『殿下は号令時のみ発話。静粛優先』
厳しさというより、現場で生きるための言葉だった。アルヴィンは紙片を折り、内ポケットにしまう。王族としてではなく、部隊の一員として扱われることに、かえって肩の力が抜けた。
眠りは浅かった。何度か目を覚まし、そのたびに見張りの足音を聞いた。規則正しい歩幅が、逆に落ち着きをくれる。自分一人ではないという実感が、心拍を静かに戻していった。
そして夜明け前。森の縁はまだ青黒いまま、霧だけが白く浮いていた。
部隊は音を立てずに整列する。盾の位置、槍の向き、退路の確認。隊長が全員の顔を順に見て、最後にアルヴィンへ視線を止めた。
「予定通り進める。合図があるまで術式は温存」
「了解しました」
朝の最初の風が、冷たく頬を打つ。
背後では、誰かが剣の柄を握り直す革の擦れる音がした。小さな音なのに、不思議と心が整う。ここにいる全員が同じ朝を引き受けている。
アルヴィンは杖を握り直し、森の奥へ目を向けた。今日、自分は試される。才能の高さではなく、守る順序を崩さないかどうかを。
合図の手が上がる。
部隊は、霧の中へ踏み込んだ。




