荒野のチョコレート
ところどころに、さながら看板か標識のようサボテンが生えている他は、四角張った岩石くらいしかない荒れ地を一直線に切り裂き、片側二車線の道路が走っている。折り紙を貼りつけたような青空に唯一神たる太陽が高く浮かぶ現在、通行車両はほぼいない。
そんな交通状況と、監視の目が届かない環境につけ込み、制限速度を十キロほど超えて疾走する、一台の黒いトヨタ製の車がある。
「三キロ先にドライブインがあるから、そこで休憩していこう。眠くて仕方がない」
全開にした窓から吹き込んでくる風にブロンドヘアをなびかせながら、トムは大口を開けてあくびをした。筋肉質で横幅広めの体を少し窮屈そうに運転席におさめたハーパー家の大黒柱は、先程から短いスパンであくびをくり返していた。
「それがいいわ。あなたのその野獣みたいな豪快なあくびを何度も見せられていると、なんだかこっちまで眠たくなってくるもの。それに、トイレだってしたいし」
あくびではなくため息を口から吐き出し、助手席に座るジョアンナは組んでいた両腕をほどいてだらりと垂らした。そして、思い出したようにバックミラー越しに後部座席を見やり、
「ケビンもトイレ行くよね。ジュースもほしいでしょ」
「うん。行きたいし、飲みたい」
三人座れる座席の中央に小さな体を下ろした、赤毛が特徴的な十歳の少年は、母の語尾に被せるように返答した。
「そっか。じゃあ、寄らない理由はないな。えっと、ジョアンナ、ドライブインにはあと何キロ走れば着くんだい?」
「さっき三キロってあなた自身が言ったばかりよ、トム」
双方が不機嫌ではないときは、よほどシリアスな話題ではないとき以外は漫才めいてくる両親の会話を聞き流しながら、ジュースも欲しいけどチョコレートがもっと欲しい、とケビンは思う。彼はもう二時間も三時間も前から小腹が空いていた。
諸悪の根源は昼食にダイナーで食べたステーキで、嚥下するたびにかすかな臭みが喉に引っかかる。ケビンに提供されたのは腐敗への第一歩を踏み出した肉だったらしい。両親に出されたものに問題はないのか、あるいはケビンの舌が敏感すぎるだけか、同席する二人は平然と食べている。ケビンは両親相手にも引っ込み思案なところがあるせいで、言い出せない。我慢して食べきるにはステーキの分量は多すぎる。それでもなんとか完食を目指して、カットした肉片を懸命に口に運んでいると、
「どうした、ケビン。さっきから元気がないように見えるぞ」
トムが声をかけてきた。
「うん……。ちょっと酔っちゃったから、あまり食欲が湧かなくて」
「だったら食べられるところまで食べて、残りは父さんに回しなさい。ダイソンの掃除機で吸ったみたいに皿をきれいにしてやる。庭の芝刈りと、電球を交換するのと、運転。それに加えて、家族が遺した食べ物をきれいに平らげるのが父さんの役目だからな。は・は・は!」
けっきょくケビンは三分の一ほど食べ、トムは有限実行した。そして今、小腹を空かせたケビンがトヨタ車の後部座席で風を浴びている。
言い出せなかった自分が悪いとケビンは潔く認めている。しかし、今にも腹の虫を鳴かせそうに胃の腑を苛んでくる生理的欲求不満の苦しみは筆舌に尽くしがたい。一・二時間なら我慢できただろうが、本日宿泊予定のホテルに到着するまではまだまだ時間がかかる。このドライブインでなにか食べなければ、そうとうしんどい目に遭いそうだ。食べよう。なんとしてでも小腹を満たすんだ。できれば、ケビンの好物であるチョコレートを。
ドライブインは食料品などを売っている店と駐車場、隣接するガソリンスタンドで構成されていて、規模のわりに人が少なく、閑散としている。車にガソリンを入れに行ったトム、トイレに行ったジョアンナを尻目に、ケビンは店に直行する。中は清潔感のある普通の食料品店だ。入口からでも一目で分かる来客の少なさと、初めて訪れる店という事実に少し怯んだが、プラスティック製のかごを手に奥へと突き進む。
店内を散策してすぐにケビンは異変に気がついた。チョコレートがどこにも売っていないのだ。多くの飲食料品店がそうであるようにこの店も、飲料は飲料、パン類ならパン類と、同じカテゴリの商品は固めて陳列されてある。菓子売り場を見つけた時点で、お目当てのものはすぐに手に入ると高を括っていたのだが、チョコレート類だけが置かれていない。ガム、キャンディ、グミと来たのだから、次はチョコレートでもおかしくないと彼は予測した。しかしそんなものは一つたりとも棚にはなく、グミの次はクッキーやビスケット。そして、クッキーやビスケットの次にはポテトチップスが並べられている。
「すみません、この店にお菓子売り場はここだけですか?」
そんなことを黒人の店員に訊いて怪訝な顔をされ、赤面してしまった。実際に自分の足で店内を巡って確かめてみたが、チョコレート売り場だけが独立して存在する、ということはなかった。見て回ったことで、菓子だけではなく、チョコレートを使用した食品が一点も売られていないことが判明した。
常識と照らし合わせればかなり不自然ではあるが、店側のこだわりによってチョコレートだけが販売されていない店が存在するのも、この広い世界ではあり得ることなのかもしれない。
頭の半分ではそう理解を示しつつも、もう半分では納得がいかない。
僕はチョコレートが食べたいんだ。そして、どんな店であっても普通はチョコレートが売られている。それなのに、買えない。食べられない。そんなの、おかしい。
別の店に寄ってくれと頼もうかと、ケビンは本気で考えた。そこへ、各々の用事をすませたらしい両親が店に向かってくるのが見えた。トムは気さくに手を上げ、ジョアンナはにこやかな顔を息子に向けている。喉の渇き、あるいは空腹に耐えかね、一人先んじて入店し、商品を選んでいる我が子を微笑ましく思っている様子がうかがえる。言い出しづらさを感じ、思わず顔をしかめた。
次の瞬間、巨大な生物が二人の背後に着地したかと思うと、いきなりトムの首が真横にすっ飛んだ。キツネのボディに、四肢の代わりにクラゲの触手が付属した、グリズリーほどの大きさの怪物だ。転がった頭部が、鮮やかに切断されたからこそ放出量が抑えられたとでもいうような量の血を撒き散らしながら妻の目の前を転がり、地面に静止する。感情表現が苦手な人間が不器用に微笑もうとした瞬間を切り取ったような表情。見開かれた双眸は雲一つない蒼天を睨み、まばたきの可能性を永久に喪失している。
ジョアンナは壊れかけの人形のようにゆっくりと怪物を振り向き、オレンジ色のリップが塗られた唇を大きく開いた。絶叫が迸るよりも一瞬早く、怪物は真上から頭突きを食らわせた。鈍い衝撃音とともにジョアンナの身長は半分ほどに圧縮され、怪物が頭を持ち上げるとともにゆっくりと前のめりに全身が傾ぎ、転倒。ブルージーンズの内側がぶりゅぶりゅという音を奏でながら徐々に膨らんでいく。
ちょうどレジ付近で作業をしていた黒人が裏返った声で叫び、足をもつれさせながらも店の奥に向かって駆け出した。怪物は触手を軽く動かして縦半分になったジョアンナを脇にどけ、一歩踏み出すと、触手を鞭のように振るった。ケビンの目の前を、目にも止まらぬ速さでなにかが過ぎったと思った次の瞬間、黒人男性が「かっ……」とうめいて動きを止めた。触手が男性の心臓を貫いていた。ぐったりと脱力した男性の体がずるずると後退し、ケビンの目の前に差しかかったところでいきなり加速。ケビンが一拍遅れて振り向いたときには、黒人男性は怪物に咥えられていた。彼がどんな目に遭っているのかを誰もが一秒で理解できる、濁った破砕音の連続。
ケビンは怪物に背を向けるや否やスタートを切った。五秒間ほど遠ざかったところで、誘惑に抗いきれずに肩越しに振り向く。怪物は男性を頭からかじっていて、食事スピードはそう速くない。ケビンは顔を戻して加速する。同じくらい走ってまた振り向く。怪物は依然として食事中で、食料を支える以外の触手はだらりと垂らしている。
少年は駆けた。駆けて、駆けて、ひたすら駆けて、入ってきたのとは反対側にある出入口から店を出た。広い駐車場を一直線に走り続けると、隅の方に見覚えのある黒いトヨタ車が停めてあった。歩を緩めることなくその一台のもとまで行き、後部座席のドアを開けて中に滑り込む。すぐさまドアを閉める。
「そんなに急がなくてもよかったのに。置いていかれるとでも思ったの?」
バックミラー越しに息子の姿を見ながらジョアンナが言う。
ケビンは息が切れて返事ができない。
「飲み物買ってないじゃない。お金はちゃんと渡したよね?」
「まあまあ、ジョアンナ。これもケビンの選んだ道だ。また喉が渇いたら店を探せばいいさ」
運転席からトムが言い、いかめしい表情を極限まで和らげて一人息子を振り向く。両親は顔を見合わせ、進行方向を見据える。トヨタ車が走り出す。
単調な荒野の風景が後ろへ、後ろへと流れていく。それを漠然と見送るケビンの呼吸は急速に整っていく。




